
自治寮と、「日常記憶地図」
1970年代 木村さんの「日常記憶地図」
木村さんについて
熊野寮在籍期間は1970年10月~1975年3月。機械系メーカーで技師、海外資本で事業企画、日本商社を経て起業。学生時代は、アルバイトと学生運動に尽力していた。
聞き手:小川泰地
食事
ご飯を食べるのは食堂が多かったと思います。当時の食堂なんて、そんなに工夫してるという感じでもなくわりと単調だったような気がします。しかし贅沢はあまり言わなかったです。なんせ格段に安かったので。
あとは「凡平」(a)や「ハトヤ」(b)とかの安い定食屋さんにはよく行きました。熊野寮のすぐ脇にあってご飯がたくさん出るんです。小盛を頼んでも普通盛りくらい来て、大盛りなんて頼むと本当に山の様に来ました。それで、土方の人もたくさん来 てましたね。あと、名前はわかんないんですが、通称「ジジババ」(c)ていうお店にも行っていました。このは丼っていう厚揚げと卵とじのどんぶりをよく食べました。これが結構安い。多分関西にしかないやつで、ここで初めてこのは丼を食べました。「Coffeeハギタ」(d)もよく行きました。ここはほとんどみんな熊野寮生でしたね。
食べに行くのはほとんどそういった場所でしたね。鴨川の向こう側にはお金がない寮生は行きにくいんです。そこまでの間も病院だとか大学があって、別に店があるわけでもないですし。
河原町三条
遊びはやっぱり河原町三条が多かったですね。ここに「六曜社」(e)ってコーヒー屋がまだあるでしょう。それと三条境町の「イノダ」(f)。この辺で飲むときは、えらい贅沢ですよね。酒はあまり飲まなかったから、遊びに行くとなるとカフェに行っていました。
酒屋
河原町今出川の酒屋(g)さんで家庭教師をしていました。娘さんが2人で、上の子が小学校5年生から6年生くらいだったので入試の対策として僕は雇われました。ご飯も食べさせてくれたし、ものすごいよかったです。
そうしていたら小学校2年くらいの下の娘が嫉妬して、自分も習いたいと言い出したんです。でも、小学校2年生から家庭教師をつける意味なんてないじゃないですか。とはいえしょうがないからその子も面倒見てたんですが、いざ授業やると勉強がしたいわけではないんです。姉に対する嫉妬心だったんです。そういったことが原因で、その家との関係が悪くなるという不思議な体験をしました。
西院の幼稚園
西院の幼稚園(h)でもバイトをしていました。
このバイトの何が良いかというと、夕方5時に僕がご苦労様ですって行くと、入れ違いで先生方は皆さん帰ってだれもいなくなるんですよ。そしたら僕は鍵を閉めて塀を乗り越えて外に出て、寮の委員会だとか学生運動の会議だとか他のバイトだとかに行っていました。夜、丸太町通を自転車で爆走して。それで学生大会を法経済学部の一番広い講堂(i)でやっていました。ものすごくでっかい大講堂でそこに1000人ぐらい入るわけですよ。非常にドラマチックなところですよ。演説したり、ヤジったりとか、半ば喧嘩みたいなこともしょっちゅうありました。それで朝方採決して、ストライキになったりならなかったり。とにかく、それから幼稚園に帰らなくちゃいけないんです。朝、先生が来るより早く帰って、仮眠室みたいなところで寝てました。爆睡しちゃっているので先生たちが来て起こされてもなかなか起きないんですよ。先生に笑われて起こされておはようございますと、そんな感じでした。先生たちは夜中何かしてるのを気づいてたんですよ。麻雀とかなんかして遊んでるって思ってたんでしょうね。みんな許してくれたんです。
学生にはみんな緩い。非常に思い出深いですね。西院幼稚園の方、すみませんでした。
印刷室
寮内でビラを出すための会議をして、教養部に行ってビラをまいていました。夜の10時から会議ってなっていてもなかなか人が集まらないんです。さっさとやれよと思うんですけど。
一応民主主義的にやるわけなので、形だけでもビラの中身を確認する手続きみたいなのがあるんです。ビラを印刷する印刷室は、寮内で今はたまり場になっているところにありました。今みたいに機械でバーっとやらないで、一枚一枚手で刷っていたんです。僕は字が汚いから、書くのはできなくて刷っていました。刷る仕事の人は一番最後まで起きていないといけないんです。だからすごくつらいんですよ。
ビリヤード場
当時、京都人がやたらに夜遊びをし始めていたんですよ。若者もそうですし社会人もエネルギーが余っていたんでしょう。
「プランタン」(j)というところのビリヤード場が24時間やってて、そこのビリヤードボーイとして接客や客の対戦相手をしていました。
夜のほうが時給がいいから僕は夜のシフトに入ってたんですが、朝まで仕事しちゃうと学校へ行けなくなっちゃう。ただ、そのバイトを始めたのが卒業前ぐらいだったので、卒業するためにそれなりにちゃんと学校行かないとダメだったんです。ビリヤードやるのもそれを仕事にできたのも楽しかったんですが、徹夜してそのまま授業に出るのがすごくしんどかったです。
愛着のある場所
教養部の門のそばに「筑山(つきやま)」(k)というのがありました。芝生の丘みたいになっていたんです。教養部っていうのは京大の学生運動の一番中心なんですよ。だからそこでよく集会やったり演説したりしていて、それを後ろから見るのにちょうどよかったんですよ。ほんとは人が入ってはいけなかったんですが、芝生で気持ちがよかったので、よく人がいましたね。だんだん自分が演説とかをしなくてよくなると、そこでふんぞり返って見ていました。あいつも演説もうまくなったなとか、変なことを言っているなとか、いろいろそういうこと考えていました。それが好きでしたね。
