【竹山研究室】スタジオ:無何有の郷

抽象 / 具体:
京都・嵐山に宿泊施設を設計する。

「無何有の郷」は荘子の「逍遙遊」に登場する言葉である。「何ものも有ることが無い」ということがかえって豊かであると示唆するこの短い文章が、スタジオ課題の出発点となった。

機能のない、役に立たないものが内包する逆説的価値をめぐって「無何有の郷」を個人的に解釈することから課題が始まった。抽象的な寓話の一節を読み取り自分の言葉で書き直した結果は、具体的な空間のイメージからありふれた日常のある場面、旅の経験まで様々であった。それらの発見を意識しながら、無何有という抽象的な概念を空間化することを試みた。

一方、京都・嵐山の特定の敷地に宿泊施設を設計する具体的条件が設定された。敷地の文化的・社会的背景を読み取りそれに答えるべく、まずは多方面から敷地調査を行い、その結果に応答する新しいタイプの宿泊施設を提案することを目標とした。さらに敷地には、用途地域・土砂災害警戒区域・風致地区の景観条例などが厳しく条件付けられている。しかし、上記の敷地の具体的なコンテクストからどのような問題を設定し、いかに応えるかは全て学生に委ねられた。

Text and Response

「無何有の郷」をめぐる言葉たち

原文

 惠子謂莊子曰、吾有大樹、人謂之樗。其大本擁腫而不中繩墨。其小枝卷曲而不中規矩、立之塗、匠者不顧。今子之言、大而無用、眾所同去也。
 莊子曰、子獨不見狸狌乎。卑身而伏、以候敖者。東西跳梁、不避高下。中於機辟、死於罔罟。今夫斄牛、其大若垂天之雲。此能為大矣、而不能執鼠。今子有大樹、患其無用、何不樹之於無何有之鄉、廣莫之野、彷徨乎無為其側、逍遙乎寢臥其下。不夭斤斧、物無害者、無所可用、安所困苦哉。

English Text

        Huizi said to Zhuangzi, “I have a large tree, which men call the Ailantus. Its trunk swells out to a large size, but is not fit for a carpenter to apply his line to it; its smaller branches are knotted and crooked, so that the disk and square cannot be used on them. Though planted on the wayside, a builder would not turn his head to look at it. Now your words, Sir, are great, but of no use – all unite in putting them away from them.”
        Zhuangzi replied, “Have you never seen a wildcat or a weasel? There it lies, crouching and low, till the wanderer approaches; east and west it leaps about, avoiding neither what is high nor what is low, till it is caught in a trap, or dies in a net. Again there is the Yak, so large that it is like a cloud hanging in the sky. It is large indeed, but it cannot catch mice. You, Sir, have a large tree and are troubled because it is of no use – why do you not plant it in a tract where there is nothing else, or in a wide and barren wild? There you might saunter idly by its side, or in the enjoyment of untroubled ease sleep beneath it. Neither bill nor axe would shorten its existence; there would be nothing to injure it. What is there in its uselessness to cause you distress?”                                                                                                                                 

James Legge: The Sacred books of China : The texts of Taoism, 1891, Clarendon Press, Oxford.

書き下し文

 恵子、荘子に謂いて曰く、「われに大樹あり、人これを樗と謂う。その大本は擁腫にして縄墨に中らず、その小枝は巻曲にして規矩に中らず。これを塗に立つるに匠者も顧みず。今、子の言、大にして用なし。衆の同じく去るところなり」。
 荘子曰く、「子ひとり狸狌を見ずや。身を卑くして伏し、もっと敖ぶものを候う。東西に跳梁して、高下を避けず。機辟に中り、罔罟に死す。いまそれ斄牛はその大なるも、鼠を執うること能わず。いま、子大樹ありて、その用なきを患えば、なんぞこれを無何有の郷、広莫の野に植えて、彷徨乎としてその側に無為に、逍遥乎としてその下に寝臥せざるや。斤斧に夭せられず、物の害することなし。用うべきところなきも、いずくんぞ困苦するところあらんや」。

現代語訳

 恵子が荘子に言った。「わたしのところにばかでかい樹がある。何でも樗という樹だそうだ。幹はふしくれだって、墨縄もあてられないし、枝は曲がりくねって、曲尺ではかるわけにもいかない。だから、道ばたにあるのに、大工たちはみむきもしないよ。きみの議論も言うことは大きいが、結局は、この樹みたいなものだ。世間から相手にされるはずがないさ」
 「じゃあ、イタチはどうだ」と荘子はやりかえした。「じっと身をひそめて獲物にねらいをつけ、サッとおそいかかる。どんなところでもすばしこく跳びまわるが、それが身にわざわいして、ついには、罠や網にかかって殺される。
 それにくらべると、斄牛は、まるで空をおおう黒雲のようなでっかい図体をしている。大きいだけがとりえで、ネズミ一匹捕まえることもできないが、無能なればこそ殺されないですむ。
 きみにそんな大きな樹があるなら、役立たずなどと嘆くことはないではないか。それを『無何有』の曠野に植えて、悠々とそのかたわらを逍遥し、安らかにその木陰に憩えばいい。世間の役に立たないからこそ伐り倒される心配もないし、危害を加えられることもないのだ。役に立たないからといって気に病む必要がどこにあろう」。 

荘子,『荘子』,岸陽子訳,徳間書店(書き下し文・現代語訳),1996.

「無何有―なにものもあることなし」
この言葉の意味を味わいつつ、無為の
時間の空間化に思いを馳せてほしい。

実ではなく、
虚の空間が活きる。

レコードに針が落ちてから1曲目の最初の音が鳴るまでの、何も収録されていない無音の時間。それは完全な無音ではない。微かに聞こえる針が盤をなぞる音、拭いきれなかった埃のはじける音、まだ知らぬ音への高揚感が相まって、そこには完成された音楽とはまた別の空間が立ち上がる。

「ホテル」は、非日常の、一瞬の経験の場。特別なものは何もないけれど、そこに身を置くひとときだけは心が揺さぶられる空間を設計できたら。

視点を変えるということはそう容易くはない。そう考えたとき、対象物が自ずから違う側面を見せるという可能性を思い立った。つまり、建築を対象とした場合に、建築が動いたとしたら。
形の上でも意味の上でも、空間の価値は有無を言わさず変容するのではないか。そんな建築があっても良いのかもしれない。

目的や機能のない空間が無何有の郷であり、建築の原初ではないか。

影が手摺板の間を踊っている。パラソルが風に揺れている。日常に起きる偶然の動きに見とれる。時計の針と同じように、時間の流れを表しつつも同時に時間を忘れさせる意味のない動き。何も考えずにそれを眺めることが私の無何有。

日常の論理から外れた価値を見つけたい。

もたれ掛かれる太い幹に、座りたくなる柔らかな地面に、穏やかな葉のざわめきに、揺らめく木漏れ日に、旅人は喜び、感謝するだろう。束の間の安らかな休息を与えてくれる、ぴったりの木に。

音楽を聴くでもなく、本を読むでもなく、ただ電車に乗ってぼうっとする。心地よい電車の音と振動の中で、頬杖をついて窓の外を見つめる。なんでもない町や遠くの山、向かいのホームに停まった電車。少しだけ感傷に浸る贅沢な時間。

目的や目標に向かって一直線に進む。効率的に、最短距離を求めて。その中では「寄り道」が「無駄なこと」として扱われる。でも本当は「寄り道」に一番豊かな時間が待っていると思う。

人が求め続け、評価してきたのは、いかなるときでも機能がない空間だろう。

日頃の価値観を覆すと、役に立たないと思われるものほど豊かな存在だと気付かされる。無駄どころか邪魔な物ですら、視点を変えれば今までになかった価値が現れる。

安らかに
その木陰に憩えばいい。

家と家の間には必ず隙間がある。物を置くには狭い隙間。陽の当たらない隙間。役には立たないけれど、生まれてしまうもの。でも、この狭さと暗さが、隙間の向こう側を意識させてくれる。日常にあふれる小さな無何有たちだ。

理性は明快な論理を求めるものだが、よりよく生きるためにはそれらから外れたものが活きてくる。

私のとっての無何有は「布団に入ってから眠りにつくまでの時間」です。今日の出来事を振り返ったり、明日のことを考えたり、好きな人のことを想ったり。いろんなことを考えて、いろんな気持ちになる。役には立たないけれど、豊かな時間ではないでしょうか。

小さな公園にある巨大な石のモニュメント、「石舞台」。遊具としての明確な遊び方は存在しない。だからこそ子ども達の自由な発想で遊び方から考え、何度でも楽しめる豊かな遊び場を生み出している。

Site and Context

​「嵐山」を織りなす文脈たち

図1 嵐山地区の用途別利用図 撮影:竹山研究室

​― 敷地概要

敷地面積 1423.86㎡ 約431坪
用途地域 近隣商業地域
建蔽率 40% (569.55㎡ 約172坪)容積率 200% (2847.72㎡ 約862.95坪)
高度地区 第3種高度地区 立ち上がり10m+1:1.25、 最高高さ12m
前面道路 5.7m - 6.5m
道路斜線 勾配 1:1.5

図2 敷地図 撮影:竹山研究室



図3 敷地写真 撮影:竹山研究室


― 風致地区詳細 : 第5種風致地区

道路面外壁後退 2m以上、隣地面外壁後退 1.5m以上
特定勾配屋根 3寸 - 4.5寸、日本瓦、金属屋根、銅板屋根
寄棟、入母屋、切妻屋根のいずれか、軒の出 600mm以上
建物のクランク角度は90°(斜めは不可)
外壁の色彩の指定(薄茶、灰色、漆喰(白)、焼き杉等)
外壁のコンクリート打ち放しは原則禁止
2階部分の外壁は1階より900mm以上後退
開口部形状の指定(長方形、円形) 建具色の指定(茶、黒、木)

― 土砂災害特別警戒地区

 土砂災害防止法により、警戒区域と特別警戒区域は以下のように定められる。これに基づき、敷地内の警戒区域・特別警戒区域を図4に示した。
・警戒区域
 - 急傾斜地(傾斜度が30°以上、高さ5m以上)の斜面
 - 斜面の上端から水平距離10m以内
 - 斜面の下端から水平距離で急傾斜の高さに相当する距離の2倍
・特別警戒区域
 - 急傾斜の崩壊による外力が建築物の耐力を上回る範囲
 特別警戒区域においては下記が求められる。
  - 特定開発行為に対する許可制
  - 建築物の移転等の勧告
  - 建築物の構造規制(例:土石流の高さ以下はRC造、耐力壁)

図4 敷地における土砂災害警戒地区 作成:竹山研究室 ​

​― 嵐山の宿泊施設

 嵐山地区に位置する宿泊施設の概要を表1にまとめた。合計収容人数は1000人余りであり、決して多くはなく、特に価格の安いゲストハウスや民宿は少なく十分な供給がなされていない。
 聞き取り調査により、嵐山の宿泊施設の形態別の稼動特徴が分かった。いずれの宿泊形態においても桜・紅葉の時期の4月と11月は9割以上の高い稼働率を見せている。しかし、閑散期の稼働率は宿泊形態による差が見られる。旅館・ホテルは50%以上の水準を保っていることに対し、民宿やゲストハウスは20 - 40%の稼働率を見せていることがわかった。
 その原因として、嵐山は日帰り観光地としての認識が高い点、民宿やゲストハウスなど簡易宿所としての立地・交通面でのメリットが少ない点が挙げられ、こういった弱点を補う宿泊形態の提案も求められる。

― 嵯峨祭り

 愛宕神社と野宮神社を祭神とし、清凉寺と大覚寺が中心となって行われてきた祭りで、通説では室町時代にはすでに執行されていたとされる。その後、江戸時代から現在に至るまで、時代を反映した清凉寺と大覚寺の勢力によって主催者が変化しつつ継承されてきた。現在は、5月第3日曜日に神幸祭、同月第4日曜日に還幸祭(祭礼行列)が行われる。祭礼行列の主な編成として、剣鉾5基、獅子2匹、子供神輿、愛宕神輿、野宮神輿などが連なる。

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