カンポンとコンパウンド|布野修司
「ある都市の肖像:スラバヤの起源 Shark and Crockodile」(traverse19, 2018)で予告した著作をようやく上梓することができた。タイトルは、『スラバヤ物語―ある都市の肖像 時間・空間・居住』(仮)としていたが、最終的に『スラバヤ 東南アジア都市の起源・形成・変容・転生―コスモスとしてのカンポン 』(京都大学学術出版会, 2021)(図1)となった。
タイトルは一般に編集者すなわち出版社の意向を尊重することになるが、本書のサブタイトル「コスモスとしてのカンポン」は、京都大学学術出版会の鈴木哲也編集長(専務理事)の強い薦めがあった。本書は鈴木さんと組んだ11冊目の本になる。鈴木さんには『学術書を書く』(鈴木哲也・高瀬桃子共著, 2015)『学術書を読む』(2020)という2冊のベストセラーがある。『学術書を読む』には、「良質の科学史・社会文化史を読む」「「大きな問い」と対立の架橋」「古典と格闘するー「メタ知識」を育む」「現代的課題を歴史的視野から見る」という「専門外」に向けての4つの指針が挙げられている。是非手に取ってみて欲しい。
『スラバヤ』は、建築計画学を出自とする著者の建築計画学批判に関わるひとつの決算の書(解答書)である。1979年1月、はじめてインドネシアの地を踏んでバラックの海と化したカンポンに出会い、戦後日本において建築計画学が果たした役割を思い起こしながら、ここで求められているのは日本と同じ解答ではない、と直感した。以降、毎年のように通い、調査を継続してきたのがスラバヤであり、この40年間に学んだことの全てを盛り込んだのが本書である。スラバヤで活躍したオランダ人建築家の近代建築作品など、スラバヤ、インドネシアそして東南アジアの住居・集落・都市についての基本的情報も収めてある。
「ある都市の肖像」のグローバルな射程については「結」に記した。「時間―空間―居住」「起源・形成・変容・転生」の重層的構成、長めの注、カスケードCascadeによる時空の拡張、QRコードによる動画の組み込み(図2)など、起承転結型の学術書を超える挑戦的試みを評価していただければと思う。
― コンパウンド
ところで、『スラバヤ』がキーワードとする「カンポン kampung」とは、インドネシア(マレー)語で「ムラ」という意味である。「カンポンガン kampungan」というと「イナカモン」というニュアンスで用いられる。そして、カンポン(ムラ)は都市の住宅地について用いられる。「都市村落 urban village」というのがぴったりである。
このカンポン、実は、英語のコンパウンド compound の語源だという有力な説がある。コンパウンドには通常2つの意味がある。第1は、他動詞の「混ぜ合わせる,混合する」、形容詞の「合成,混成の,複合の,混合の composite,複雑な,複式の」である。そして、第2は、名詞で「囲われた場所」である。
英英辞書を引けば、compound(noun)は、an area surrounded by fences or walls that contains a group
of buildings、と簡潔に説明される。フェンスや壁によって囲われた surrounding 領域がコンパウンドである。英語で「包む」は、wrap, pack, encase…、「取り巻く」は surround, enclose, circle…などがあり、それぞれニュアンスが異なるが、コンパウンドについて考えることは、<我々(建築)を包み、取り巻くもの>を考えることになる。人間社会を構成する最小の居住単位としての1軒あるいは何軒かの住居の集合体がコンパウンドである。英語には、コンパウンドの他、ホームステッド homested、セツルメント settlementが用いられる。他にも、移動性の高い場合はキャンプ camp、さらに、エンクロージャー enclosure、クラスター cluster、ハムレット hamlet、そしてヴィレッジ villageなどがある。
― カンポン
学位論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究ーーーハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学, 1987)のエッセンスを一般向けにまとめた『カンポンの世界 ジャワの庶民生活誌』(1991)を書いた著者として、その不明を恥じたが、カンポンがコンパウンドの語源であることは、東京外語大学の椎野若菜さんから「「コンパウンド」と「カンポン」―居住に関する人類学用語の歴史的考察―」(『社会人類学年報』26, 2000)という論文を送っていただいて初めて知った。
椎野論文は、サブタイトルが示唆するように、人類学者として「居住」に関する英語の語源を確認することを目的としている。そして、その骨子は、コンパウンドは、マレー農村を指す「カンポン」を語源とする説が有力で、その英語¹への借入過程には、西欧諸国の植民地活動の軌跡が関わっている、ということである。
オックスフォード英語辞典OEDは、コンパウンドは植民地時代以降の慣例にみられるとし、異説を紹介した上で、マレー農村を意味するカンポンがインド英語Anglo-Indian Englishを経て伝わったとするユールとバーネルYule, H. and Burnel, A.C.(1903, William Crooke(ed.)²の説を紹介している。コンパウンドは、(1)囲い込み(enclosure),囲い込まれた空間,あるいは、(2)村(village),バタヴィアにおける「中国人のカンポン」のような、ある特定の民族(nationality)によって占められた町(town)の地区を意味する。(2)の例として、1613年のポルトガル人の著書にcamponという綴りが見られるという³。
ポルトガル語のcampoの転訛という異説⁴を含めた議論の詳細は『スラバヤ』(Space FormationⅠデサ/村落4 カンポンとコンパウンド)に譲ろう。カンポンについて考えることは、世界中のコンパウンドについて考えることに繋がるのである。
1 そもそも英語の成立自体が興味深い。英語は、古英語・中英語・近代英語に時代区分されるが、中世中期英語以降、ラテン語・フランス語をはじめとして、世界中の諸言語から借入を行っており、英語本来の言葉は20パーセントに満たないという。それ故、コンパウンドの語源もさまざまに詮索されるが、OED(Oxford English Dictionary)に依れば、第1義は、中英語(古英語・中英語・近代英語に区分される)の時代から存在するのに対して、居住に関わる第2義は、17世紀後半に英語に借入された、という。
2 Hobson-Jobson: A Glossary of Colloquial Anglo-Indian Words and Phrases and of Kindred Terms, Etymological, Historical, Geographical and Discursive, Delhi, Munshiram Manoharalal.
3 Manuel Godinho de Erédia(or Emanuel Godinho de Erédia) (16 July 1563 – 1623)の‘Description of Malaca, Meridional India, and Cathay (Declaracam de Malaca e da India Meridional com Cathay)’(1613).
4 ポルトガル語campanha、campoの転訛、フランス語のcampagne(country田舎)の転訛という異説もある。フランス語起源説は根拠が明確ではなく、似たような言葉はない。ポルトガルの使用例campanaは、近代ポルトガル語ではcampaignか、campagna(ローマ周辺の平原)であり、使用例champ(1573年の旅行記)、campo(イタリア人の文献)は、「広場」「マイダーンmaidan」の意味で用いられており、居住地の意味はないという。ただ、ユールとバーネルは、カンポンというマレー語がポルトガルとの接触以前から存在していたかどうか確かではなく、ポルトガル語の転訛である可能性を全く否定はできないとする。すなわち、ポルトガル語campoははじめcampの意味をもち、それから、囲われた地域、の意味をもつにいたったか、ポルトガルcampoとカンポンという2つの言葉は、相互作用した可能性があるとする。カンポンという言葉の語源やポルトガル接触以前の存在は確認できず、ユールとバーネルもこの点は実証できていない(椎名論文註(8))。
― デサ
現在のインドネシアの行政単位は、農村部(カブパテンkabupaten)はデサdesa(行政村)である。農村部も都市部(コタマジャkotamadya)も下位単位クチャマタンkecamatanからなり、農村部ではデサがクチャマタンの構成単位となる。デサはさらに下位単位ドゥクーdukuhによって構成される。都市部では、クルラハンkelurahanがクチャマタンを構成し、その下位単位となるのがRW(エル・ウェー)(ルクン・ワルガRukun Warga)とRT(エル・テー)(ルクン・タタンガ)である。
デサは、もともと、ジャワ、マドゥラの村落を指す言葉であった。14世紀に書かれたマジャパヒト王国の年代記『デーシャワルナナ』(『ナーガラクルターガマ』)は「地方の描写」という意味である。サンスクリット語で都市コタkotaに対する地方、村落がデサだから、その歴史は古い。それに対して、スンダ(西ジャワ)では、クルラハンが村落という意味で用いられていた。そして、カンポンというのはカルラハンを構成する単位であった。
ジャワの伝統的集落デサについては、『ジャワ・マドゥラにおける現地人土地権調査最終提要』(以下『最終提要』)全3巻(1876~1889)⁵という大きな資料がある。土地権についての調査を主目的とするものであったが、調査項目総数は370に及ぶ⁶。これを基にした19世紀以降のデサの特質についての議論も『スラバヤ』に譲るが、結論だけ記すと、共同体的な要素を濃厚に残してきたジャワのデサは、植民地化の過程において、むしろ、その共同体としての特性を強化してきた可能性が高いということである。20世紀初頭の植民地政府の原住民自治体条例によって再編成されたデサは、当時のオランダの村(ドルプDorp)というより、本来のヘメーンテgemeente(ゲマインデGemainde)共同体である資本制生産様式との接触が伝統的な社会構造を弱体化させるのではなく、むしろ共同体的性格は変形強化されたのである⁷。
5 Eindresume van het bij Guevernments Besluit dd.10 Juni 1867 No.2 bevolen Onderzoek naar de rechten van den Inlander op den Grond op Java en Madoera, zamengesteld door den chef der Agdeeling Statiseiek ter Algemeene Secretarie. 1830年以降、ジャワ(マドゥラ)は、中部の王侯領を除いて、,全てオランダの直轄領となっていたのであるが、植民地政庁は、この直轄領内の808村を選んで1868~69年にはじめて本格的な土地調査を実施した。その結果まとめられたのが『最終提要』(1876~1889)である。土地調査の大きな目的は、私企業プランターの進出を可能にする方向を含めて、土地所有権および利用権を確保することである。その調査は、結果を1870年における農地法の制定に結びつけようとするものであった。
6 内藤能房,『ジャワ・マドゥラにおける原住民土地権調査最終提要』全三巻について, 一橋論叢, 74-6, 1976.
7 まず指摘されるのは、デサにおいて土地の「共同占有」の形態が数多くみられることである。『最終提要』は耕地の占有形態を「世襲的個別占有」と「共同占有」とに大きく二分しているが、「共同占有」形態とは、耕地の使用の主体は個人であるが所有権はあくまでデサに属し、個人による相続や処分が不可能な占有形態である。『最終提要』によれば、「共同占有」の形態が集中するのが中東部ジャワである。「共同占有」の形態においては、その「持ち分」保有者となる資格が厳しく規定されているのが普通であり、その資格を満たすことにおいてデサの正式のメンバーとして認められる。持ち分については定期割替えが行われることが多い。こうした耕地の「共同占有」形態に象徴される共同体規制は林野についてもみられる。ただ、林野の場合は対外的な規制のウエイトが大きく、デサの構成員については幾分ルースである。
― 隣組と町内会
このデサが、デサ的要素を色濃く残しながら、都市において再統合されたものがカンポンである。C.ギアツは、ジャワ社会を、デサ、ヌガラ(国家 政府官僚制)、パサール(市場)をそれぞれ中核とする3つの社会層からなるとして、インドネシアにおける都市化の歴史を構造的に解き明かすのであるが、都市化の過程で都市に再統合された居住地をデサと区別することにおいて、カンポンと呼ぶ。カンポンは、基本的に「都市村落」であるというのがC.ギアツである。
C.ギアツは、「カンポン・タイプの居住区はジャワのどこでも都市的生活の特性をもつが、同時に何らかの農村的パターンの再解釈を含んでいる。より密度高く、より異質性が高く、よりゆるやかに組織化された都市環境へ変化したものである。」という。 C.ギアツは、カンポン・セクターの地図を示している(図3)。ブロックを囲むように並ぶ白い四角がレンガ造・石造の家であり、黒い点がバンブー・ハウスである。
そして、実に興味深いのは、このカンポンの住民組織と日本の隣組・町内会制度が共鳴を起こしたことである。
日本は大東亜戦争遂行のための総力戦体制を敷くために、戦時下の大衆動員の施策として、内務省は1940年9月に「部落会・町内会等整備要綱」(内務省訓令17号)を発令し、隣保組織として5~10戸を1組の単位とする隣保班を組織することを決定する。この隣組・町内会制度は、日本軍政下のジャワにも導入される。この隣保組織のありかたは、カンポンのコミュニティ組織として戦後にも引き継がれていくことになるのである。
日本軍軍政当局が隣組tonarigumi制度を導入したのは太平洋戦争末期になってからにすぎない。1944年1月11日に、全ジャワ州長官会議で全島一斉に隣保組織を設立することを発表し、これに続いて「隣保制度組織要綱」(Azas-azas oentoek Menjempoernakan Soesoenan Roekoen Tetangga)(『KANPOO』No.35-2604)が出されるのである⁸。
軍政監部は、1月から数ヶ月間、各地で説明会や研修会を各地で開催し、モデル隣組がつくられた。研修会では、江戸時代の五人組制度の歴史についての講義も行われたという。一般住民に対しても、隣組がジャワ社会の伝統であるゴトン・ロヨンの精神に根ざすこと、また、イスラームの教えにも一致するものであることなどが宣伝された。組織は瞬く間にジャワ各地に広まっていった。1944年4月末の調査に拠れば、ジャワ全域の住戸数は896万7320戸、隣組数は50万8745組、字常会数は6万4777(64,832)、区の総数は1万9498であった。隣組は平均17.6戸、区(デサ)は平均3.3字常会ということになる。隣組はジャワの隅々にまでつくられたことになる(倉沢愛子『日本占領下のジャワ農村の変容』草思社, 1992)。
8 「郷土防衛、経済統制等の組織および実践単位とし、地方行政下部組織として軍政の浸透を計るものもので、ジャワ古来の隣保相互扶助の精神(ゴトン・ロヨン)に基き住民の互助共済その他の共同任務の遂行を期する」ことを目的とし、「デッサ内の全戸を分ち概ね十戸乃至二十戸の戸数を以って一隣組とする、隣組に組長を置くがその選任は実践的人物を第一とする、隣組は毎月一回以上の常会を開く。さらに字(カンポン)に字常会を設け毎月一回以上の常会を開く、字常会は字長および隣組長その他字内の有識者をもって構成する」という組織化を行うものであった(倉沢愛子(1992))。
― RT/RW
「隣保制度組織要綱」は、隣組を「施策の迅速で適正な浸透ならびに深刻な住民相互間の対立摩擦の削除をおこない、民心を把握し住民の総力をあげて戦力の維持、存続をはかるための、行政単位に基づき行政機関と表裏一体である強力で簡素な単一組織」と規定する(吉原直樹『アジアの地域住民組織―町内会・街坊会・RT/RW』お茶の水書房, 2000)。隣組tonarigumi、字aza、常会joukaiは、日本語がそのまま用いられるが、隣組すなわちルクン・タタンガRTは、「ジャワ民族において以前から受け継がれている相互扶助精神に基づく住民間の互助救済など共同任務の遂行に勤めなければならない」(第1条3項)という。 ルクンと
は、ジャワの伝的概念である「調和、和合」を意味する。タタンガは、隣人である。相互扶助精神とは、ジャワではゴトン・ロヨンと呼ばれ、インドネシアの国是とされている。
太平洋戦争末期、わずか1年余りの期間にジャワ全島に及んだ隣組組織が現在のRTの起源である。日本では、戦後1947年になって、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって隣組制度は禁止される。隣組制度が総力戦体制、体制翼賛体制を支えた「支配と強制」の装置となったが故に禁止する、というのである⁹。
一方、インドネシアの隣組制度はどうなったのか。これも詳細は『スラバヤ』に委ねざるを得ないが、RTそして、字azaはルクン・カンポンrukun kampung=airka’エルケーRK’として存続する。税の徴収、住民登録、転入転出確認、人口・経済統計、政府指令伝達、社会福祉サーヴィスなどの役割を果たすのである。ただ、公式な政府機関とはみなされてこなかった。1960年にRT/RWに関する地方行政法(Peraturan Daerah Kotapradja Jogjakarta no.9 Tahun 1960 tentang Rukung Tetangga dan Rukun Kampung)が施行されたが、基本的には引き続き、RT/RKを政府や政党からは独立した住民組織として認めるというものであった。RT/RKを政府機関に組み込む動きが具体化し始めるのは、1965年9月30日のクーデター以降の新体制になってからである(Sullivan, John (1992) Local Government and Community in Jawa: An Urban Case Study, New York: Oxford University Press.)。
RT/RKは次第に独立性を失っていくが、一つの画期となるのは1979年の村落自治体法(Village Government Law 5)の制定である。地方分権化をうたう一方、中央政府権力の村落レヴェルへの浸透を図るものであった。大きな変化として導入されたのがルクン・ワルガRWという、RTをいくつか集めた新たな近隣単位である。この時点で、RT/RWは、国家体制の機関として組み込まれたのである(図4)。
インドネシアの場合、以上のように、強制的に組織化されたRT-RWではあるけれど、自律的、自主的な相互扶助組織として存続してきたのは、デサの伝統と隣組の相互扶助の仕組みが共鳴し合ったからである。しかし、それは再び開発独裁体制の成立過程で、再び、国家体制の中に組み込まれることになるのである。カンポンの生活を支える相互扶助活動と選挙の際に巨大な集票マシーンとなるのは、カンポンに限らない共同体の二面性である。
<包むもの/取り囲む>ものという言葉は、ある領域の境界、そしてその外部と内部をめぐる普遍的問いを突きつける。日本の隣組・町内会制度は、戦後改革の過程で解体されてきたように思える。しかし、災害がある度に、そしてCOVID-19のコロナ禍において、共同体における相互扶助と内部規制という二重の機能が孕む基本的問題は問われ続けているのではないか。
9 GHQがまとめた『日本における隣保制度―隣組の予備的研究』(1948)(GHQ/SCAP, CIE, A Preliminary Study of the Neighborhood Associations of Japan, AR-301-05-A-5, 1948(吉原直樹(2000))は、「隣保組織の歴史的背景」(第1章)を幕藩体制下の「五人組」、さらには大宝律令(701年)、養老律令(718年)が規定する「五人組制度」まで遡って振り返った上で、「1930年代以降における隣保組織の国家統制」(第2章)そして「東京都の隣保組織」(第3章)を具体的に検証したうえで、「隣保組織の解体」(第4章)を結論付けている。
【参考文献】
・布野 修司『スラバヤ 東南アジア都市の起源・形成・変容・転生―コスモスとしてのカンポン 』, 京都大学学術出版会, 2021
・鈴木哲也・高瀬桃子共著『学術書を書く』, 2015
・鈴木哲也『学術書を読む』, 2020
・インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究ーーーハウジング計画論に関する方法論的考察, 東京大学, 1987.
・布野 修司『カンポンの世界 ジャワの庶民生活誌』, 1991
・「コンパウンド」と「カンポン」―居住に関する人類学用語の歴史的考察―, 社会人類学年報 26, 2000.
・倉沢愛子『日本占領下のジャワ農村の変容』草思社, 1992
・吉原直樹『アジアの地域住民組織―町内会・街坊会・RT/RW』お茶の水書房, 2000
布野修司 Shuji FUNO
Born in 1949, Dr. Shuji Funo graduated from the University of Tokyo in 1972 and became an Associate Professor at Kyoto University in 1991. He is currently a Project Professor at Nihon University. He has been deeply involved in urban and housing issues in South East Asia for the last forty years. He is well recognized in Japan as a specialist in the field of human settlement and sustainable urban development affairs in Asia. His Ph.D. dissertation, “Transitional process of kampungs and the evaluation of kampung improvement programs in Indonesia” won an award by the AIJ in 1991. He designed an experimental housing project named Surabaya Eco-House and in his research work, he has organized groups on urban issues all over the world and has published several volumes on the history of Asian Capitals and European colonial cities in Asia. Apart from his academic work, he is well known as a critic on architectural design and urban planning.