
熱るコンクリート|四十坊 広大
Living Concrete in Yaeyama Islands | Kodai SHIJUBO
コンクリートは熱を宿す。
そんなことを考えるようになったのは、熊野寮に住み始めてからだろう。床、壁、梁、天井、どこを見渡してもコンクリートの躯体が露出する空間には、歴代の寮生が残した痕跡とともに、400人を超す現寮生の様々な生活と遊びが展開し交錯する。自治寮に形は必要ない、とよく言われるが、それでも今の熊野寮の雰囲気は、ずっしりと構えるコンクリートがあってこそ成立するものだと私は思う。そして、このコンクリートが醸す雰囲気は、「熱」と表現する以外にない。住んでいて肌で感じる。熱を宿したコンクリートのぬくもりは、木のそれなんかよりもずっと静かで、ゆっくりで、確かなものだ。
この夏、沖縄の八重山諸島を渡り歩く旅に出た。確かな目的があったわけではない。南の島々に漠然と惹かれるものがあったにはあったが、兄が仕事の研修で石垣島に滞在していて、そこに転がり込めたから転がり込んだというのが実際のところだ。そんな旅に意味を与えてくれたのが、兄を通じて知り合ったYさんであり、付きっきりで石垣島を案内してくださったYさんを抜きにこの旅を語ることはできない。Yさんは、石垣生まれ石垣育ちのエネルギー溢れるおじいさん、石垣市役所に四十数年勤め、都市計画から港湾計画、教育関係を渡り歩き、最後は石垣市立図書館の館長を経て退職したという。もともと建築技術職の出身、何より無類の建築好きで、私が建築を学んでいるということを聞きつけて、わざわざ一学生のために石垣島の案内を買って出てくださったのだった。
Yさんが運転する車の助手席に乗り、石垣島を巡る。ビーチや繁華街・商店街といった観光地はもちろん、前川國男の石垣市民会館、和設計の石垣市立図書館といった往年の名建築から、島に点在する旧集落や登録文化財の伝統家屋といった古くから残るもの、Yさんが仕事で関わった農村団地や公園、学校・幼稚園や港湾施設といった行政主導のもの、リゾート開発によるきらびやかなホテルやゲストハウス、海沿いのレストランや農園・牧場といった民間施設に至るまで、押しかけで訪問し(時に断られながら)内部を見学させてもらう。石垣島を離れて、西表島や竹富島、波照間島や与那国島に渡った際には、Yさんに紹介してもらった地元の方やふらりと入ったお店の方に話を聞いては、島の建築を片端から廻る。そんなことを繰り返すうち、石垣島をはじめとした八重山における建築や土地利用のあり方、歴史的背景や気候風土が、身体に馴染んでくると同時に、各島々の特色や置かれた状況の特殊性もわかりはじめ、八重山の全体像が徐々に鮮明さを増す。そうした複層する像の中で、特に惹かれるものが出てくるのは自然な流れであったと思う。やはり、八重山で最も私の心をとらえたのは、コンクリートであった。
コンクリートは熱を宿す。
八重山で、幾度となく熱をまとったコンクリートに出会った。石垣の白保や宮良をはじめ八重山の集落で出会った個性全開のRCの住宅たち、波照間で出会った名石共同売店、与那国の祖納で出会った伝統工芸館と与那国町役場。時代を経た貫禄、雨潮風に耐えてきた迫力が熱となり、コンクリートを確かに息づかせていた。圧巻は、石垣市の繁華街・美崎町である。戦後直後のアメリカ統治時代に海岸を埋め立ててできた土地、島で唯一の曲線を取り入れた扇形街区に建ち並ぶ低層ビル群には、沖縄に初めてRCが導入された当時の姿を留めるコンクリート建築が数多く残る。「鉄の暴風」と呼ばれた沖縄戦で全てを破壊された後、物資も何もかも不足していた時代に建てられた建築。さぞ簡素で素朴な作りをしているのだろうと思って見れば、意外にも合理的とは思えない遊び心にあふれていることに気づく。梁せいが1mを超す2階建てという途轍もなく頑丈に作られた1階が半地下のビル、ファサードの庇が謎にうねっている3階建てビル、玄関アプローチの屋根がやたらカッコいいビル、2階部分がキャンチでせり出しているビル。それぞれがそれぞれに個性を主張し、一帯としてコンクリート建築の伸びやかさ、そして熱を共有しているように私には見えた。それらはもしかしたら、戦争という軛から解放された石垣の人々の躍動として、新しい時代に向かう希望として、不変の平和への願いとして、建てられたものだったのかもしれない、そんな気がした。

沖縄らしい景観、それは一般に赤瓦屋根と言われる。たしかに、沖縄のシンボル・首里城の赤瓦屋根、そして重伝建で有名な竹富島の集落の赤瓦屋根に、どことなく南国の島らしさと愛らしさを感じ取るのはわかる。しかしよくよく話を聞いてみると、首里城はもともと板葺で、赤瓦に変わったのは400年ほど前の話、さらに竹富島を含む八重山諸島に至っては、赤瓦が伝来してきたのが明治・大正期であり、それまではずっと茅葺だったという。つまり、八重山における赤瓦の歴史は100年ちょっとに過ぎない。そして、今年は戦後80年である。アメリカによって持ち込まれた八重山のコンクリート建築の歴史は、すでに赤瓦に迫りつつあるのだ。
沖縄の建築には、主に三つの困難が伴う。一つは台風。ひとたび巨大台風の直撃を受ければ、風速60mの暴風が吹き荒れる。にわかには想像しがたいが、西表島で話を伺ったMさんの言葉を借りれば「風に飛ばされた松の針葉がウッドデッキに刺さる」ほどだと言う。もう一つはシロアリ。かつて建材として使われた島材(イヌマキやリュウキュウマツ、フクギやモッコクなど)はその硬さ故にシロアリに食われることなどほとんどなかったが、最近はその島材が採れなくなっているという。代わりに建材として使われるようになった内地のスギやヒノキは、あっという間にシロアリに食われる。最後は潮風。海水を巻き上げた風が島の建物を傷めつける。八重山で鉄骨の建物をほとんど見ない理由は、塗装が剥がれ赤錆を浮かせて走っている自動車が島に多いことからも容易に想像がつくのである。
これら三つの困難を見事に解いて見せたのが、まぎれもないコンクリートである。その点、アメリカによる沖縄へのコンクリートの導入は、その合理性と必然性のもとで評価できるし、それは沖縄でコンクリート建築が広く普及し定着した歴史が証明していることでもある。八重山で豊富に採れる石灰岩をもとに多くのセメント工場が立地していることも考慮すれば、もはやコンクリートを赤瓦に勝るとも劣らない八重山の土着・伝統素材として考えてもいいのではないだろうか。さらに言えば、八重山における建設事業は、よほど大きな公共施設でない限り、今でも島の工務店が手がけており、八重山で出会うコンクリート建築の風貌からは、内地のそれとは別種の、島独自の進化を遂げてきた様子をうかがい知ることができる。そのまさに源流に位置し、島の建築文化に多大な影響を与えたアメリカ統治時代のコンクリート建築は、島にとって重要な建築的/文化的価値を有すると、私は考える。そして、復帰前のコンクリート建築が建ち並ぶ街並みは、お約束的に模写され続ける赤瓦建築よりもはるかに、島の歴史を正しく伝えているように思う。
コンクリートは熱を宿す。
しかし近年、復帰前の建築物はだんだんと失われつつある。八重山、特に近年の石垣島ではリゾート開発と観光産業の発展が進み、観光客の増加による開発圧を受けて復帰前のRCビルが次々と取り壊され、現代風の小綺麗なビルや“沖縄風”の建物に置き換わっていく光景を目にする。赤瓦の伝統家屋が取り壊される場合は惜しまれる声も上がるようだが、コンクリート建築に関しては単に古くてボロい建物としてしか認識されていない現実がある。前述の美崎町においても、石垣市郊外の空港跡地に市役所が移転したことに伴い、扇形街区の要の部分に建っていた旧石垣市役所が昨年取り壊された。復帰前に建てられたRC建築だった旧市庁舎は、今となってはネットの画像からしかその姿をうかがい知ることはできないが、なかなか手の込んだ良い建物だったとYさんは言う。代わりに出来上がった新市庁舎は、赤瓦屋根と木材をペタペタと貼り付けたようなぞっとする外観で、石垣らしさ/沖縄らしさとは何かを逆に問うてくれている、といっても言い過ぎではないだろう。さらに美崎町では、旧市役所の跡地利用の話に加え、周辺を含めた一帯再開発の話さえ持ち上がっているという。もしこの先再開発が進めば、日本でここにしかないアメリカ統治時代のコンクリート景観が“沖縄風”を標榜する高層建築に置き換わっていってしまうことは、想像に難くない。
アメリカ統治時代は実は、八重山を含む沖縄が、ある意味で輝いたといわれる時代でもある。それは戦後の混乱と物資不足の中、与那国島をはじめとした沖縄諸島が中心となり、東アジアの台湾や香港、本土の鹿児島や神戸との間に、生きるための物流を自力で築いた、大密貿易時代とも呼ばれる時代。この時代に生きた一人の女性を取材した作家・奥野修司は、密貿易時代をこう評する。
私はふと、あれはもしかしたら「ウチナー世」ではなかっただろうかと思った。沖縄では「唐世」があり、琉球処分以降の「ヤマト世」があり、敗戦後の「アメリカ世」から復帰後の「ヤマト世」と、時の統治者に翻弄されるだけで、自らの時代である「ウチナー世」はなかったといわれる。しかし誰の支配も受けず、誰の手も借りず、占領軍に対抗して自分たちの持てるエネルギーを存分に発揮して生き抜いた密貿易の時代こそ、「ウチナー世」ではなかったか。
『ナツコ 沖縄密貿易の女王』奥野修司
石垣島を巡る車の中、Yさんはふとこんなことを言った。「日本でよかったのかもしれないさね」。それは香港における中国の動きを話す中で、沖縄を顧みる言葉だったが、私には、国や政府が何であるか以前に、自分たちは生きているしこれからも生きていく、そんな島の精神性の表れであるように聞こえた。八重山で出会った復帰前のコンクリート建築たちは、こうした島の人々の誇りとたくましさとともにある。今、八重山を巡る旅を終えて、確信を深める。
コンクリートは熱を宿す。
謝辞
八重山でお世話になった石垣島のYさん、西表島のMさん、竹富島のAさん、与那国島のNさん、宿を貸してくれた兄に、心からお礼申し上げます。ありがとうございました。
四十坊 広大(しじゅうぼう・こうだい)
京都大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程。神吉研究室所属。学部の卒業設計は『人類の熊野寮 -意図と誤読の物語-』。自身が 1 回生時から住み続ける京大・熊野寮を舞台に、自治寮と地域の将来を考える提案を行った。修士では自治空間から派生して、多様な主体が織りなす空間/人と建築の距離感が近い空間への興味をベースに、研究テーマを探っている。