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インキュベータ/ 飯島由多加・ソフトデベロッパー/岡雄大|「方向性のある多様性」ー密度ある多様性を作り出すものとはー

空間と時間の共有

――豊かな創造の場には、多様性を持ちつつも方向性(共通の状況や価値観)を持っているという、一見矛盾している両者が成り立つような状況があるのではないかと考えています。

多様性のみの観点で見ると、例えば人の行き交う東京駅が最も多様性のある場であるように感じます。しかし、無造作な多様性があるだけでは新しいものは生まれにくい。そこに方向性を与えること、密接に繋がる場をつくることに対しどのような価値観を持って取り組んでいるのか、伺いたいです。

飯島 多様性にも色々な軸がありますが、toberuでまず最初に見るのは、業種や業界の多様性です。様々な分野・専門の人たちが知識や経験を持ち寄って交わることができる場所にしたいからです。国際性、性別の多様性も重視しています。あとは世代ですね。若い人だけでもない、シニアだけでもない、そういったばらつきも意識しています。

そのような多様な人たちが共通して持っているものは、「自分の意思で参加し、それぞれが解決したい社会課題に向けた新規事業を開発する」という動機とゴールです。それが方向性として作用していると思います。また、toberuではみんな共通して4ヶ月というタイムスパンを過ごします。toberuでの最終ポイントが共通しているので、そこに向けた進捗度合や、「怒涛の1ヶ月目だった」「あと2週間しかない、やばい」というような、時間感覚も共有できています。

そのような考え方、方向性の共通項がまずあって、それらをうまく実現するために、私たちが大切にしているコンセプトがあります。それは「空間と時間の共有」です。

例えば、異なる会社の方々が4ヶ月間、共同生活をしながらそれぞれ違うテーマの事業開発に取り組んでいるのだけれども、朝食と夕食を一緒に食べる、研修も一緒に受ける、スライド作りの相談をする、互いの会社の上司や役員と話す、一緒にお茶やお酒も飲むということを続けるとですね、強制的に気づきばっかりなんですよ。ある会社での常識は、ほかの会社では非常識だったりする。お互い、会社員という意味で同じ属性の人同士ですらそうだから、京大から来た研究者やイギリスから来た起業家と同じことをするとですね、さらに違った気づきが得られる。

ここに来たからこそ得られる気づきや出会いが連続する、という非日常が、toberu での日常となっています。

互いの事業モデルについて議論するフェロー  提供:フェニクシー


多様性の受容

――岡さんは地域での多様性をどのように捉えていますか。

 まず、多様性を大切にするようになった経緯について話します。自分自身、アメリカと日本の半分半分ぐらいで育ったのですが、日本にいると自分はアメリカ的な人間だから日本に馴染めないと思っていました。一方、アメリカ行ったら行ったで、本当にアメリカ人かというと違うので、個性・自分らしさみたいなものが分からないまま育ってきました。どちらかにいる時の自分を常に模索していたのですが、旅や留学をする中で、タイの有象無象の多様性のあるホステルのパブ、ロンドンのパブなど、多様性が許容されている状態に出会って。そこでは、誰も異物というものが存在していなくて、人種・信条・老若男女にかかわらず、自由に何でも話して良いという心地よさを感じました。このような、多様な人が集まっている空間に居心地の良さを感じたのが自分のルーツとしてあります。

その中で、人は相関の中で生きているということに気がつきました。日本に居る時に違うと思ったことでも、移動を続けて、いろいろな場所を見て、多様なものに触れ続ける状態になってようやく、自分はこれで良いんだ、自分はここに居るんだと思えてきました。だからこそ、多様性を大切にしているというか、多様性を受容できていない状態を不安に感じるというのが、考えとしてあります。

現在、人口減少に立ち向かう、その一つの手段として地域づくり・まちづくりを行っているのですが、上か降りてきた形で地方創生をやりなさいみたいな感じになると、どうしてもどの地方でも同じようなことが起きることに違和感があります。人の創造性とか、多様な人のアイデアが集まることで起こりうる人間の可能性にかけた方が絶対まちづくりは面白い。それをどうやってつくり出せるかが自分のテーマだと思っています。

 

まちづくりと多様性

 まちにおいて多様性という言葉を使った時に、2層の使い方があると思っていて。

一つは、老若男女とか、国籍、いろいろ人が同じ空間にいる「多様性」です。ホテル業をやっている身として、関わっているまちに来てもらった時の一番の褒め言葉は「ここ住んでみたい」だと思っていて、「人の生活を覗く・見る」というのが旅や観光の美しい行為だと感じています。その中で「ここの生活豊かそうだな、ここで生きてみたい」と思わせる瞬間は、まちのパブとかバーに行った時に、老若男女・国籍などの様々な人がいて多様性のある空間を見て、そのまちの性質を予感させる瞬間だと思っています。多様なまちの参加者がいれば、バーの景色も自ずと多様になるので、そのような多様性をつくることを心がけています。

もう一つはまちづくり行為に参加している、能動的な参加者が多様であることで、これはすごく大事なことだと思っています。まちづくりは民意だと思っていて、僕ら一人でまちをつくれる訳ではないので。地元の人と、僕らみたいな外から来たまちづくりに参加したい人たち全員の民意の総和みたいなものが、ブレンドして絶妙になって、まちの方向性が定まっていく。同じ目的意識を持った能動的な参加者が多様であることが、まちの方向性を決める上で、とても大事だと思っています。

難しいのは、同じ目的意識を持って集まった多様な参加者は、いずれ一枚岩になって多様では無くなっていくのですが、そこに次の多様性をどう生み続けるか。物事の最初に多様性をつくって最終的に多様ではなくなっていく中で、僕らもどう継ぎ足して多様性をつくっていくかが課題です。

Soil Setoda での風景  提供:Staple

 

多様性と適切な規模感

――まちについて考える議論の参加者というのは、何人ぐらいの規模感なのでしょうか。

 議論の参加者は3,40人ぐらいですね。適切なサイズ感は何事にでもあるんだろうなと思っていて、例えばそのまちについて考える議論は、300人でできたかというと、多分やらない方が良いだろうなと思います。3,40人がギリギリのラインだったかもしれません。また、僕らの商店まちを盛り上げようという活動も、これから新たに10棟の開発を行うのですが、この数については、もう少し定量的に分析をして適切な規模感とは何なのか、という話が起きても面白いかもしれません。

また、人数バランスの話だと地元の人と移住して通ってくれる人、7対3ぐらいがちょうど良い感じに調和しているんですよね。少しでもバランスが崩れると、全く違う、良くない方向にも触れるかもしれないということを考えなければいけないと思いました。

飯島 8対2になったらバランスが悪くなるかも、という感覚はしっくりくるのですけれども、逆に6対4だったらバランス的により望ましいかもしれない、ということはあったりしますか。

 科学的根拠とか、アカデミックさは無いのですが、7対3から6対4になっても良い可能性はあります。ただ、今瀬戸田で見ている多様性は今の地元の人たちよりも大きい勢力になって食ってやろう、みたいな流れではありません。どちらかというと、 地元のおっちゃんおばちゃんが、例えば東京育ちの、あまりここを自分の地元とも思ってない子たちを迎え入れて、お父さんお母さんのようにおかえりと言ってくれる。自分の人生に存在していなかったノスタルジーを取り戻す、みたいな意味合いでも機能していて。それは結構バランスが重要なんですよね。若者が増えすぎちゃうと、迎え入れる側も全員に対しておかえり、と言う訳にはいかなくなります。

顔と名前が一致する、顔が見えている手触り感と規模感にすごく期待しています。僕の今の会社では、比較的スモールなものを積み重ねて、同じまちで積み重ねることをベースとしています。Azumi Setodaも20部屋だし、東京のK5というホテルも20部屋なんですけれども、200部屋じゃないんですよね。200部屋あったほうが儲かるのですが、それを20で抑えているのはスタッフやまちの人たちとの、例えば203号室に宿泊していた人の顔と名前が一致するぐらいの距離感を大切にしているからです。ヒューマンスケールを超えない感じというのは、多様性を語る上で大事な気がしています。

多分、東京駅の多様性・東京ドーム分の多様性をつくっても、これ多様だなと感じる人はいないと思うんですね。自分の見える範囲、手の届く範囲の中での多様さがあって、初めて多様性を感じられるかなと。適切な規模感というものがある気がしますね。

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