リアリティの欠落からの解放─アニメーションにおける場所と風景|成原 隆訓
アニメーションは、画面に映る一切を描かねばならぬという事実によって、リアリティの欠落を宿命づけられている。ならば、その呪縛からの解放は、いかなる術によってなされるのであろうか──
八月の暑い日の朝、竹橋の東京国立近代美術館を訪れ、『高畑勲展─日本のアニメーションに遺したもの』を鑑賞した。映像作品における風景とロケーションの関係を思考する私にとり、後半の背景美術の資料群は実在の場所の抽象化の観点から示唆的な展示であった。特に4章の『となりの山田くん』(1999)・『かぐや姫の物語』(2013)における簡素化されたタッチの背景表現は、それ以前の作品群とは一線を画すことが誰の目にも明らかであり、アニメーションという表現形式の自律性への意識が全体を通して感じ取れる内容であった。
― 芸術に表れる風景 映像作家の主観的風景
ここでまず芸術における風景の変遷と、映像作品に表れる風景とその問題に触れたい。古くから和歌あるいは山水画において、作家が実在の場所に主観的に宗教的・歴史的意味を重ね見ることで風景は描き出された。近代化以降、自然科学の発展によりロマン主義や写真が場所の客観的捕捉を行う。⻄田1)は現代美術の一潮流である地域のアートプロジェクトに、 作家の主観的風景の回復の兆しを読取り、客観的な「視覚の風景」から、作家の主観に拠る 「意味の風景」への回帰を見た。
客観から主観への回帰的文脈の中、現代の芸術のうち風景に関わる分野に映像作品がある。ロケーション撮影と呼ばれる実在の場所で撮影された実写作品では、撮影の瞬間の風景が作家の意図に関わらず収められるため、重視した点が見失われる問題がある。本来場所の文脈を主観的に描いた作品が客観情報に頼り鑑賞された結果、撮影地を観光する「聖地巡礼」 に代表される視覚的同一性を志向する評価が発生し、作品の表層に依拠した短絡的な風景の改変の危険性をも孕むこととなる。こうした状況の中作品の客観的な側面を注視せず、 作家の主観的風景を捉え直すことが喫緊の課題となっている。
1)⻄田正憲 (2011)『自然の風景論 自然をめぐるまなざしと表象』清水弘文堂書房,p.261
― 主観と客観のリアリティ 細田守の模索
さてこの日、アニメーション監督の細田守氏によるトーク2)が行われた。細田は高畑作品『セロ弾きのゴーシュ』(1982)の日本の田園を元にした椋尾篁による背景画に見られる油絵のようなタッチを示し、写実的でないアニメーションの自律的方法でいかにリアルに迫るかを説いた。また近年 CG 作品の実写への接近など、客観的な描写へのシフトについての危惧を述べ、まさに客観的視覚偏重の中で作家の主観的風景を重視する私の態度と関連が認められた。さらに細田の映画『時をかける少女』(2006)を鑑賞した高畑が山本二三による背景美術に「書き込み過ぎている」と苦言を呈したとの発言からも、リアリティ獲得に際した客観的写実性と主観的自律性の狭間の葛藤が垣間見えた。つまり、アニメーションは表現の特性に起因するリアリティ欠如の回復のため、第一線で活躍する監督までも今現在模索を続ける状況なのだ。
2)スペシャルトーク 細田守が語る監督「高畑勲」 2019 年 8 月 3 日 於 東京国立近代美術館 https://www.momat.go.jp/am/exhibition/takahata-ten/#section1-2
― 非親和化のリアリズム 新海誠の人間と風景
ここからさらに他のアニメーション作品を例に、風景のリアリティを考えたい。柄谷3)はロシア・フォルマリズムの理論家シクロフスキーの「リアリズムの本質は非親和化にある」 との言葉を引き、「リアリズムとは単に風景を描くのではなく、常に風景を創出しなければならない。それまで事実としてあったにもかかわらず、だれもみていなかった風景を存在させるのだ」と述べた。言い換えれば、作家が日常の何気ない様子を風景として発見、顕在化させることで風景は認識されるのだ。
加藤4)はアニメーション監督の新海誠の映画『秒速五センチメートル』(2007)において、 風景は単なる物語の背景でなく、「人間と風景はあくまでも切り離しえないものとして一体 論的に創造される」と述べ、監督がドラマと同等に風景描写を重視したと指摘する。また 「新海誠が利用するものは、新奇で雑多な風景ではなく、より伝統的で、日本的で、日常的な、しかも甘美な風景」であり、風景が「遠方へのまなざしや空間移動によって、 すなわち旅発ち(距離の産出)や遠方への憧爆による日常の非日常化のなかから産み落とされる」とした。
これこそ、まさに日常の風景の「非親和化」である。新海はこの構図を用い種子島という実在の場所を主観的風景として描き出し、登場人物に発見させることを通じて実際の風景体験と同様の構造を組み込み、作品のリアリティを構築したのだ。
3)柄谷行人 (2008)『定本 日本近代文学の起源』岩波現代文庫, p.35
4)加藤幹郎 (2010)『表象と批評――映画・アニメーション・漫画』岩波書店,pp.132,134,140
― ロケーションの意味 高畑勲『三千里』の港町
では再び高畑作品に話を戻そう。『アルプスの少女ハイジ』(1974)製作時、高畑は宮崎駿などとともに、日本のアニメーションで初めてのロケーション・ハンティングをスイスで行なった5)。その後『母をたずねて三千里』(1976)の際にも、イタリアとアルゼンチンへの取材旅行を行ない、そのクオリティに及ぼす影響の大きさと不可欠性について言及している6)。高畑は物語の舞台となる実在の場所にどのような意味を見出したのか。
高畑は著書7)の中で、日本は「典型的な街並みをつくりだすことができていない」とした上で、ヨーロッパは景観が「自立している」と述べ、⻄洋の風景が絵になりやすくパターン 化して扱いやすいと語っている。また『三千里』の舞台であるジェノバの港町の傾斜を例に挙げ「高さの違い」を「景色としての変化に富んだ、立体感」としての客観的性質としてだけでなく、「人物を活躍させるのも非常にうまくいく」としている。具体的には「上のお屋敷町に住んでいる人たち、下の港町に住んでいる人間、そういうものがどう関係してくるかということを、具体的に、視覚的に表現することができる」というのだ。『ハイジ』でもこの上下関係を生かし「人間の営みが具体的な形をとってあらわれてくる」と記す。この具体性こそがロケーションハンティングによって高畑監督が実在の場所に対して見出した主観的な風景といえよう。場所はただ物理的に捕捉されるだけでなく、そこに刻まれた人々の生 活を読み取る過程で風景が見出されたのだ。
5)小田部羊一 (2013)『「アルプスの少女ハイジ」小田部羊一イラスト画集』廣済堂出版,pp.81-83
6)高畑勲 (1991)『映画を作りながら考えたこと』徳間出版, p.74
7)高畑勲 (1999)『映画を作りながら考えたことII』徳間出版, pp.102,106-110
― リアリティの充溢 カメラの生来的客観性
では一方で、客観的写実性への欲求の根源はどこにあるのか。アンドレ・バザン8)は、絵画作品において、錯視による「外的世界を複製によって置き換えようとする純然たる心理的 願望」が、「象徴主義によってモデルを超越する精神的現実の表現」としての本来の美学的願望を飲み込むようになったことを遠近法の「原罪」として批判し、写真がそれを贖ったと述べ、「錯覚を求める私たちの欲求が、人間を除外した機械的再現によって完全に満たされた」とした。写真、すなわちカメラの誕生によって、画家たちは⻑年の苦悩の解消に安堵した。
しかし、撮影行為が日常化した今日、カメラがもたらした安堵は未だ有効といえるのか、 果たしてカメラが捉える風景は未だ発見され続け得ているだろうか。
8)アンドレ・バザン (2015)『映画とは何か(上)』岩波文庫, pp.12-14
― 主観と客観の往還 アニメーションと実写の風景
ここまで述べてきたアニメーション作家たちの営みと実写映画を比較すると、「非親和化」が風景のリアリティの本質ならば、いつしか客観性に安住し事態の変化に無自覚だった実写映画は、自らの主観的風景の逆説的喪失の危機を感知せず、アニメーションにおける作家の主観に基づく風景のリアリティに先を越されつつあるのではないか。視覚情報に頼り切ることで失われるものを無意識的に感じ取るからこそ、人は昨今アニメーションに心惹かれてはいまいか。我々はいま一度、カメラが捕捉する風景の受容を見直すべき時にいるのかもしれない。風景はもはや撮影されるだけでは風景たり得ない。さらにいえば高畑は、アニメーションの風景がリアリティを獲得することで現実を美化しすぎる危険性にも触れ、その先をも見据えていた7)。我々は実在の場所と作家の手によって芸術として立ち現れる風景の関わりを常に観察し続けなければならない。
──さて、こうしてリアリティ希求の先端に躍り出たアニメーションは、この絶え間ない主観と客観の往復運動に自らを投げ打ち、さながら『アルプスの少女ハイジ』の峰を駆け上が る少女や、『かぐや姫の物語』で大路を駆け抜ける姫のように、リアリティの欠落という宿命の衣を鮮やかに脱ぎ捨て時代を先駆けていくのである。
注)本稿はアニメーションにおける作家の主観的風景に焦点を当てたが、高畑の風景に関わる演出技術についての以下の論に多大なる示唆を得た。鈴木勝雄(2019)「高畑勲の演出術─アニメーションにおける風景の美学」『高畑勲展─日本のアニメーションに遺したも の 図録』NHK プロモーション