建築家/柏木 由人|一筋の航路の先に
traverse14 号から始まったリレーインタビュー企画。
17 号では、柏木由人氏がTERRAIN architects からバトンを引き継いだ。
自らの本能を信じて建築の道へ。そしてさまざまな出会いに導かれて海外へ。
オーストラリアで活躍する彼に、今の日本の建築はどのように映るのか。
建築家になった経緯から、代表作『同志社京田辺会堂』の設計を通して、
彼の建築への思いを探った。
― マーケティングから建築へ
ハミルトン 建築との出会いを教えてください。
柏木 学部時代は、商学部でマーケティングを勉強していました。「どうやって物を売っていくか」ということに、昔は興味があって。大学院にも、マーケティングを勉強するために入学したんです。その大学院のカリキュラムでは、最初の一ヶ月は視野を広げるために専門分野と違う学問を経験するということになっていました。その選択肢の中に建築があったんです。そこでやってみたら、すごく衝撃を受けまして。自分の文系の学問への接し方と、理系の人たちの学問の接し方があまりにも違うんですね。本能的に、自分が今後やるべきことは建築なんじゃないか、と思ったんです。そこで先生に、マーケティングを勉強しつつ建築も勉強したいと相談したら、「弐足の草鞋なんて100 年早い、どちらかに決めなさい」と言われまして。やはり本能で感じるものは無視できないと思って、建築に転向しました。あとは、実は父が建築家で、建築が身近なものだったということもあるかもしれません。父親の生き生きと仕事をしている姿は、子どもの頃からすごく印象的でしたね。
ハミルトン 大学院から建築を学び始めたことを振り返って、どのように感じられますか。
柏木 最初は、図面や模型を通して自分の言いたいことを表現するということに戸惑いました。それまでは言葉で表現するだけでしたから。やること全てが新鮮なので、楽しくて楽しくて仕方がない。学問に対する垢がついてない分、すごく純粋に学ぶことができました。それから、とても大きな変化だったのが、建築にはリアリティがあるということですね。文系だと、自分が属している組織が自分のアイデンティティになってしまうような一面があって、自分らしさを出しづらいと感じていました。建築の場合には、感性や理論などいろいろなものを、自分の工夫次第で、現実に形として表現できる。その一連のプロセスが明確にたどれるというのは、重要なことだと思います。そこで自分が生きていると実感できることが、建築に転向して良かったなと思う一番大きなところです。今でもそういう部分に関しては新鮮さを感じますね。
ハミルトン 卒業してすぐに、イタリアの事務所に行かれたんですよね。
柏木 そうです、不思議ですよね。きっかけは、ギャラリー間註1のレンゾ・ピアノ(Renzo Piano)の展覧会で、ニューカレドニアのティバウ文化センター(Tjibaou CulturalCenter)を見てすごく衝撃を受けたことです。今まで、土着の文化とうまく絡まった現代の建築は、あまり無かったのではないかと思うんですね。その中で、それらを美しい形で融合させられる建築家がいることに感動しました。同じ時間を使って働くなら、やはり魅力を感じる建築家のところで働きたいですよね。もうこの人のところでしか働きたくないと思って、手紙を何枚も送って、フランス語を勉強して、実際に会うために片道切符でパリに行きました。ここで働けるまで絶対に帰らないと心に決めて。結局、パリ事務所では駄目でしたがイタリアなら、ということで、レンゾ・ピアノのジェノバ事務所で働くことができました。幸い、フランス語とイタリア語は似ているんですよね。フランス語の勉強をしたことが役立って、なんとかイタリア語でも議論できるようになってからは楽しく働けるようになりました。
やはり、自分がしたいこと、自分が作りたい建築というものを、素直に見つめることが大事だと思います。本で見ていた世界が生で見られる、その環境に身を置けるということはやはり大きくて。どんな建築家のもとで働くかというのは、その後の自分の作品にもすごく影響が出ますし、最初にどういうスタートを切れるのかということは大事なことだと思います。
ハミルトン シドニーに移られた経緯を教えてください。
柏木 僕がイタリアにいたときに、事務所の中でシドニーのプロジェクトが動いていました。それで、シドニーの建築家が毎月来ていて、仲良くなったんですね。その方から、オーストラリアではオリンピックの開催が決まり、これから景気が活気付くであろう中で、人手が足りていないからシドニーに来ないかと誘われました。オーストラリアで建築をするという発想自体がそもそも無かったのですが、熱心に声をかけてもらったので、じゃあ行ってみようかな、と。当時はオーストラリアの建築家を全く知らなかったので、一番将来性のある建築家は誰かと尋ねたときに挙げられたのが、エンゲレン・ムーア (Tina Engelen & IanMoore)だったんですよ。だから、レンゾ・ピアノの事務所のときの熱量とは正反対で、運命のいたずらみたいなもので。それでエンゲレン・ムーアの事務所で働くことになったのですが、実はその建築家は僕が学生の時に雑誌で見かけた、すごく憧れていた建築の設計者だとあとあと分かったんです。これも何かの縁なのかな。
ハミルトン 二つの事務所から、何を学ばれましたか。
柏木 レンゾ・ピアノの事務所で学んだことは、自分が考えたことがそのまま現実に建ち上がるわけではないということですね。すごく良いアイデアがあっても、現地にその施工技術を持つ人がいなければ、それは机上の空論になってしまう。あのティバウ文化センターも、現地の施工者では到底できるレベルではないんです。その状況でうまくシステムやディテールを考えて、自分たちが提案した内容に対して責任を持って完成までのストーリーをデザインするという姿勢は、僕はすごく大事なことだと思いますね。シドニーでもいろいろなレベルの施工者がいて、それにどう対応するかで、作れるものが変わってきます。日本だと施工者が優秀なので、人任せにしてしまうことが多いですが、僕は建築家としてそれはしたくない。誰でも作れる簡単なものまで落とし込むことで、いろいろなものを国や文化を越えて作ることができる。そういうノウハウを学びました。
もう一つは、いろいろな国の人たちとのコミュニケーション方法です。事務所内で良い人間関係を築けないと、自分の居場所が見つけられないですし、建築を学ぶ以前にそこで生きること自体が難しくなる可能性があります。そこでの生活を楽しめる土台があってこそ、建築に専念できると思うんです。そのようなわけで、どうすればさまざまな文化の人と仲良くなれるかということを学びました。大切なのは、どうやって自分という人間に興味を持ってもらうかだと思います。出身大学とか、日本では自分のアイデンティティだったものが、海外へ行くと通じないんです。今までの自分が身に着けていた鎧が通用しなくなって素っ裸になったとき、相手の興味を引くものを自分の中に経験として持っていなければいけない。だから、学生時代にいろいろな経験をすることは大切だと思います。