【平田研究室】「生きている建築」をめぐるノート

生きている建築をつくること、それが僕の夢だ。
しかし、そんなことは可能なのだろうか。

― 度合としての生命

 生命と建築の関係について繰り返されてきた、二つの見方がある。

一つ目の見方に従えば、建築はあくまで人工物=非生命の世界に属し、生命の形態や仕組みを模倣したり、メタファーとして創造のきっかけにできるに過ぎない。建築を構成する床や壁や柱は、生命体の構成要素のように新陳代謝したり自己複製したりしないからである。

 しかし、少し視野を広げると、全く別の見方も可能だ。たとえば建築や都市を、はるか上空から、観察のタイムスパンを100年とか1000年に広げて(時間を早回しにして)眺めることを想像してみてほしい。そこでは建築や都市は、群生するキノコのようにめまぐるしく生まれ変わる、生きている秩序そのものである。

 一つ目の見方では、生きている建築をつくることは不可能である。二つ目の見方では、建築は常に既に生きている世界の一部なのだから、それだけでは新しい制作の原理には結びつかない。

 しかしここで、生命/非生命という単純な二項対立を超えて、生命というものをある種の度合として捉え直すことができたら、別の議論が可能ではないか。

 たとえば、ジャングルの一本の樹には数百種の生物がいるという。そこには、無数の生態学的ニッチ(註1)が生まれている。これに砂漠のような状況を対置すれば、ここでいう生命の度合の含意が分かるだろう。砂漠のような状況から次第にジャングルができるように、生命活動にはより多様に生態学的ニッチを生みだし、生命の度合を高めていくような働きが、備わっている。

1)特定の種が棲むことのできる環境のセットのこと。

― からまりしろ

 <からまりしろ>とは、生命の度合を高めていく運動体としての建築を捉えるための造語である。人間の活動を含めた様々な事物が「からまる」ための「しろ」=余地として、建築を捉えること。同様の構造は、生きている世界の至るところに見出すことができる。たとえば、子持ち昆布。魚卵は海藻にからまり、海藻は海底の凸凹の岩にからまる(図1)。このとき階層は魚卵にとっての、岩は海藻にとっての<からまりしろ>である。

図1 子持ち昆布のダイアグラム

 生命の世界に通底するからまりの構造を建築設計と結びつける手がかりとして、最近、三つの特性を抽出できるのではないかと考えるようになった。すなわちからまりのニッチ性/階層性/他者性である。これらは、〈からまりしろ〉の具体的展開として想定される三つの方向性(形態論的展開(註2)、方法論的展開(註3)、設計主体の拡張)にほぼ対応している(もちろんこれらは、最終的にからまり合わなければならないのだが)。

2)形態論的展開/からまりのニッチ性
生命の度合を増やすことは<からまりしろ>の最大化を意味する。これは第一義的には、事物のインターフェイスとなる表面を増やすことにつながり、表面積や周長を最大化する幾何学が浮かび上がる。たとえば一本の単純な直線と、「ペアノ曲線」として知られるフラクタルなひだを比較すれば、後者の方が限られた広がりの中により多くの周長を内包できることが分かる。多様なニッチが生まれれば生まれるほど、様々なからまりが誘発される(ニッチ性)。
このような思考の延長上で、ひだのような幾何学を植物の種のように成長させ、住宅としてのプログラムに適合させた「Architecture Farm (2007)」(図2、3)などが生まれた。

図2 Architecture Farm


図3 Architecture Farm 概念図

3)方法論的展開/からまりの階層性
子持ち昆布のダイアグラムからも分かるように、からまりは階層構造をもつ(階層性)。
これは[[魚卵/海藻]/岩]と表記でき、一般的には、[[[[[[[[[[A1/A2]/A3]/A4]/A5]/…]/An]…と記述できるだろう。自然界ではこうした階層構造が重層し合っているわけである。建築はこの階層構造の部分をなす。してみれば、建築設計の内的原理としてそれを取り入れても良いはずである。「Tree-ness House (2009)」(図4、5)は、[[植物/ひだ]/箱]という階層構造をもとに設計した建築である。

図4 Tree-ness House


図5 Tree-ness House 概念図

― 設計主体の拡張/からまりの他者性

 子持ち昆布のダイアグラムには、階層構造を形成する魚卵、海藻、岩は互いに異なる出自を持つ他者である、ということも示唆されている。互いに無関係なもの同士が階層的にからまり合いながら、豊かな混成系を成している。

 それは1960年代のメタボリストたちの考えた統一的システムとは異なっている。むしろ行き当たりばったりと言っていいほど異質なもの同士が、からまる/からまられる、の関係でたまたま出会っている。魚卵/海藻/岩のあいだにはある種のギャップがあり、そこに岩が形成され、海藻がからみ、成長し、魚が卵を産み付け……という履歴が刻まれている。

 建築が異質なもののギャップをはらんだ階層構造であり得るとしたら。そして建築設計のプロセスがそうしたギャップごとの履歴として刻まれるような、様々なものを巻き込んだ時間的プロセスであり得るのだとしたら。そこには狭義の設計主体を超えた様々な人々が設計上の決定にかかわる余地が生まれはしないだろうか。そのことによって「コンセプト」が「不明瞭」になるどころか、ますます異質でますます混成した、生きている度合いの高い建築が生まれる可能性が秘められていはしないだろうか。

― 群れから浮かび上がるもの

 現在建設中の『太田市美術館・図書館』(図6、7)は、閑散とした地方都市の駅前に、再び人の流れ(=生命)を取り戻すべく市民や様々な関係者と協働しながら設計を進めたプロジェクトである。5カ月という短い基本設計期間の中で、複数回の市民ワークショップを行うことが半ば義務付けられていた。私たちはその状況を逆手にとって、設計上の分岐点となる重要な決定をワークショップの場に投げ出すことにした。決定に際してはそれ相応の説明と活発な議論が行われる。これが思いのほか面白いプロセスとなった。様々な立場や出自を持った人々が、
多数のエージェントとなってそれぞれの案の中に様々なニッチ(あるいはその可能性)を発見し、そうした観点でよりポテンシャルを持った案が、議論の中で浮かび上がっていくプロセスを共有したからだ。それは、人々の雲のような無数のつぶやきが、群れとして建築案とからまり合い、それを変成させていくプロセスだった。そしてその履歴は、箱の個数や配置、それに巻きつくスロープの配置といった建築の成り立ちの中に刻まれることになった。

 『太田市美術館・図書館』は、コンペによって決定された建築の形式(箱とそれを取り巻くスロープ)は保ったままで、あり得るバリエーションの選択をより拡張された場の中に投げ出しただけに過ぎないのかもしれない。しかし、ここで暗示されている、多数の人々の小さな思いの集合から、半ば自発的に浮かび上がってくるような秩序の可能性は、本質的ではないだろうか。20世紀におけるようなマスとしての群衆に向けた最大公約数的な建築とは異なる、多様な個の集合から浮かび上がる、21世紀の公共建築が示唆されている。

図6 太田市美術館・図書館


図7 太田市美術館・図書館  ワークショップ概念図

― 北大路プロジェクト

 次に平田研究室の学生が紹介する北大路プロジェクトは、建築学生のためのシェアハウス+活動拠点であり、設計者と住まい手、運営者と利用者が、おそらく他のプログラムではあり得ないくらい重なり合う、希有なプロジェクトである。

 そこには、上に述べたような形態論的/方法論的/主体論的な側面が、かつてなく興味深く交錯する可能性が秘められている。高次元に、生きている度合の高まった状態が、実現されることになるかもしれない。21世紀の公共建築のもとになるような考え方を、ある種の理想状態の下で、実験的に浮かび上がらせることができるかもしれない。一体どんな建築と活動が生まれることになるのだろうか。

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