「無何有」をめぐる建築論的考察|竹山聖

― 虚構/無為

 さて、ここで建築という行為に思いを馳せてみよう。先に少し触れたが、建築という行為は、この「存在」と「不在」と「虚構」を織り上げる作業だ。物によって、物を通して、そこに関係を、空間を、物語を紡ぎ出し織り上げてゆく。存在する物を組み上げながら、そこにある現実とは異なる可能性を模索し、あるいは存在し得ない場面をも想像しつつ、そしてときに虚構のシナリオに基づきもしながら、存在と不在と虚構をテクストのように織り上げてゆく。それは今こうして書いている状況がそうであるように、書くという行為に似ている。新たな言葉の到来を待ち受けながら、自らの無意識にダイヴしながら、思考を追いかけ、とりとめのない思考に秩序を与えながら、しかしいずこへと向かうかわからない思考に形を与えてゆく作業に似ている。
 だから建築という行為には時間がかかる。目的地が最初から与えられていないからだ。さしあたり与えられた目的地をはるか越えて進んでいく欲望に突き動かされているからだ。より豊かな生の可能性に向けてあらん限りの想像力を動員する行為だからだ。今ある状況を超えて新たな未来の可能性に賭ける行為だからだ。効率や合理を超えた思考の可能性を試みる場であるからだ。
 建築物は物であるから合理性・経済性の論理を通して生み出されるが、建築を設計するという行為は、作業効率や合理性・経済性でなく、喜びの次元にある。「不在」と「虚構」の世界に遊びつつ、「存在」の豊かさを目指すからであり、「無」と「何」を「有」へと転ずる行為だからである。これが建築的思考の現場である。なおのこと、書くという行為に似ているかもしれない。
 モーリス・ブランショは書くという行為に「無為désœuvrement」という言葉を重ね合わせている。この場合の「無為」は、何もしない自堕落なこと、というより、意図や計画をもち、確たる目的を持って行う仕事ではなく、いわば徒然なるままに、何かの為に、ではなく、何の為でも無く行う行為のことだ。東洋思想のいう「無為」とも通じる。何かのためではない。富のためでも名声のためでもない。たとえばこのように書く。
 「書くこと、それは営み・作品の不在(無為、営み・作品の解体désœuvrement)を産出することだ。あるいはこうも言える―書くこと、それは営み・作品を通じ、営み・作品を貫通して産出されるものとしての営み・作品の不在である、と。デズーヴルマンとして(この語の能動的意味において)書くこと、それはきちがいじみた賭け、正気と狂気の間での運任せなのである」(註12)
 ここで「営み・作品」と訳出されているのがœuvreである。英語ではworkにほぼ対応する。いわば、お仕事である。これにdésがついて、désœuvrement。「無為」ということになる。お仕事が無く暇で何もしないこと。このことを、荘子と同じく積極的にとって、ブランショはそこに創造性の根源を見ている。すなわち創造性は「きちがいじみた賭け、正気と狂気の間での運任せ」のさなかに発生する。
 さてあらためて考えてみよう。建築という行為を果たして書くという行為に重ね合わせることができるか。建築はもちろん目的を持っている。安全で心地よい空間を提供することだ。しかし「安全」にしても「心地よい」にしても、唯一の解答があるわけではない。さらにはそれを合理的に追求していくといっても、その社会的・経済的・政治的・文化的要求は時代や地域によって大きく変わり、合理性のあり方も変わる。書くことが、ある思想を伝えるという目的を、とりあえず持つとして、それが決して一義的に定まるわけでなく、レトリックもさまざま、なにより書くうちにその思想自体が深まり、言葉が言葉の論理を持って動き出してゆくように、建築もまた、設計という作業のさなかに胚胎されるイメージや着想や論理や倫理は、空間の論理によって思いもよらぬ方へと誘導される。むしろそのプロセスで生み出される思考の逡巡や挫折や突破や歓喜が建築の結果的な味わいを醸成する。より単純な解を得るために、幾多の思考を経、試行を繰り返さねばならない。
 そこに表れ出る思考の泡たちは、有為の時間にのみ宿るのでなく、無為の時間にこそ宿る場合もまた、多いのである。

12)モーリス・ブランショ「書物の不在」,『マラルメ論』,粟津則雄・清水徹訳, 筑摩叢書, p.166.

― 旅

 さて、この無為の時間を宿すために役立つ営みが旅であることは言を待つまい。役立つ、という言葉はこの文脈上ふさわしくはないかもしれない。旅は役に立つために行われるものではないのだから。そして、今年(2016年)のスタジオの秘められたテーマは旅である。
 「無何有」という何もないニュートラルな広がり。作為のない世界。「空」あるいは「コーラ」という作為と自然の間に出現するであろう世界生成の仕組み。「存在・不在・虚構」という言葉を持つ人間が生み出した想像力。「無為」という、制御されざる行為の可能性。建築という行為のあり方をめぐる思考の道程に、あえて旅の時間の空間化というテーマを置いてみる。
 「無何有」という言葉に発した思考の旅は、そのとりとめのなさ、非建築的(「建築的」をあえて「作為的」ととらえるならば)な響きに戸惑いつつも、何かしらの形をとることとなる。なぜなら、建築とは畢竟、世界に何らかの形を―知的な、美的な組み立てを―与えることだからだ。
 目的や虚構をたてつつ、あえてその「機能(目的)を持った関係」œuvreを外し、すなわち作るという道具的連関の世界œuvreを外れ、なお異なるものたちを結びつける論理ならざる論理―空:ともにあること―を見定めながら、どこにもない、どこにも属さない―無何有/無為:個としてあること―ことの空間的位相を追い求める。そんな旅が、建築という行為の中心にもまた、深く根ざしているからである。

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