大興城( 隋唐長安) の設計図-中国都城モデルA|布野修司
― 2. 大興城
大興城の規模、門、里、市の数については、『隋書』巻29 地理志京兆郡条には「東西一八里一百一十五歩。南北十五里一百七十五歩。東面通北春明延興三門。南面啓夏明徳安化三門。西面延平金光開遠三門。北面光化一門。里百六。市二」とあるのみである。大興城を踏襲した長安城については、韋述(生年不祥~至德2(757)年)『両京新記』(722)、宋敏求『長安志』(1079)、呂大防(1027 ~ 1097 年)『長安図碑題記』(1080)、程大昌撰『雍録』(1165 ~ 89)、李好文撰『長安志図』(1344 ~ 46)などの史料があり、それらを元にした徐松(1781 年~ 1848 年))『唐両京城坊攷』の考証がある。徐松は、『全唐文』の編纂(1809~ 14)に携わる中で『永楽大典』(1408)の中に「河南志図」を発見、散逸してしまった宋敏求の『河南志』の図であることを突き止め、関係資料を拾い出して『元河南志』を編纂するとともに、『唐両京城坊攷』を著したのである。長安の形態については、以上のような史資料をもとにした多くの論考が積み重ねられている。隋唐長安をめぐる研究史については、妹尾達彦に委ねたい 4。
『唐両京城坊攷』の記述に従って、主な施設の配置と寸法関係に着目して大まかにその形態を確認すると以下の様である。宮城、皇城の内部構成に関わる記述は省略する。
宮城の規模は、東西4里、南北2里270 歩、城周13 里180 歩、城高3丈5尺とされる。北は御苑、南は皇城、東に東宮、西に棭庭宮が配置される。南に5門、北に2門、東に1門、西に2 門開かれている。宮城の正殿は太極殿で、正門である嘉徳門、殿門である太極門を経て太極殿に至る。太極殿の両廊に左右延明門があり、左に門下省、右に中書省が配置される。中央軸線上には、太極殿の北には、朱明門、両儀門を経て両儀殿が置かれ、さらにその北には甘露門を経て甘露殿が配される。甘露門の前には東西に横街が走る。甘露殿の北には、延嘉殿、さらに承香殿があり、玄武門に至る。承天門以南が外朝、太極殿が中朝、両儀殿が内朝という三朝構成である。
皇城の規模は「東西五里百十五歩、南北三里百四十歩、周十七里百五十歩」とされる。南面に3門、東西は、それぞれ2門ある。宮城との間に横街が走り、宮城へ5門が開かれている。皇城内は、「城中南北五街、東西七街」という。南北5街というのは、皇城南面の含光門(西)、朱雀門(中央)、安上門(東)と宮城南面の広運門(西)、承天門(中央)、長楽門(東)をそれぞれ結ぶ3 街と東西城壁沿いの環塗2 街である。全体は東西4 ×南北6 = 24 街区に分割される。横街は幅300 歩、その他は全て幅100 歩とされる。「左宗廟、右社稷」、東南隅に宗廟、西南隅に社稷が割り当てられ、皇城には、百官の官署、6省、9 寺、1 台、4 監、18 衙が配置される。東宮の官署は、1 府、3 坊、3 寺、10 率府である。
大明宮は、太極宮後苑の射殿のあった龍首山丘陵に貞観18(644)年に永安宮として建設され、その名に改称された。規模は「南北五里、東西三里」という。南面には5 門が開かれており、正南門は丹鳳門である。東面には2 門、西面には3 門、北面には3 門が開かれた。丹鳳門内の正殿を含元殿といい、その東西に翔鶯閣とその棲鳳閣があり、閣下に東西朝堂が置かれる。
興慶宮は、外郭城の東壁に接し、皇城南の横大路東門、春明門の北に位置する。規模は1坊分あり、南に2 門、西に2 門、北に3 門が開かれている。
御苑は、3 苑あり、いずれも都城の北に置かれている。宮城の北に接する北苑は、南北1 里、東西は宮城と同じ4 里である。東内苑は、東内(大明宮)の東北隅にあり、南北2 里、東西は1 坊分の幅がある。禁苑(隋・大興苑)は、東西27 里、南北22 里、周囲120 里、南は都城と接し、北は渭水、東は滻水に境界づけられ、西は前漢長安城を含み込んでいる。
外郭城の立地について、前(南)は子午谷に当り、後(北)は龍首山を枕とし、左(東)は灞水に臨み、右(西)は澧水に至る、と徐松(「巻2 西京」)は述べる。規模について、「東西一八里一一五歩、南北一五里一七五歩、城周六七里、城高一丈八尺」という。続いて、南面に3 門、東面に3 門、西面に3 門、北面に3 門、門名が列挙される。外郭城内には、東西大街が14 本、南北大街が11 本あり、皇城の正南面の朱雀門から延びる南北大街、朱雀大街の幅は100 歩で、朱雀大街によって、東西は、万年県と長安県に分かれ、それぞれ54 坊と市を管轄する。計108 坊と2 市からなることになるが、『隋書』は「里百六。市二。」としていた。市は2 坊分占めるから必ずしも計算は合ってはいない。
坊数は、万年県、長安県、それぞれ9 × 2 + 13 × 3 = 57 坊(区画)となる。東市、西市それぞれ2 坊分を占めるから、それを引けば各県55 坊(区画)である。計110 坊であるが、東南の2 坊が曲江・芙蓉園となって欠けているから、坊は108 坊(万年県53 坊、長安県55 坊)である。また、大明宮の重修(662)に伴い、丹鳳門から南に丹鳳門街が造られ、大明宮前の善坊と永昌坊の2 坊は東西に分割される。すなわち、東街は結果的に55 坊になっている。
愛宕元(徐松撰・愛宕元訳注(1994))は、城内を108 坊に区画したのは、中国全土を意
味する「九州」と、秩序正しい時間の繰り返しである1 年12 月の9 × 12 から得られる数で
ある。つまり統一帝国としての全空間と時間を支配する皇帝の居所としての都城を象徴する
数字である。また、宮城・皇城の東西では南北に13 坊が配されるのは、1 年12 月と閏月を
加えた13 月を、皇城の南では東西4 列に坊が配されているのは、春夏秋冬の四季を、それぞ
れ象徴したものとされる。出典は不明であるが、上述のように、分割される坊数は110 であり、
108 という数字が予め意識されているのであれば、東南角が2 坊欠けることが前提されてい
たことになる。1 年12 月としながら、閏月を加えた13 という数字を問題にするのはちぐは
ぐでもある。
以上の情報と実測を踏まえて、設計図を復元しよう。
4 妹尾達彦「唐長安史研究と韋述『両京新期』」
(田村晃一編(2005))他。