大興城( 隋唐長安) の設計図-中国都城モデルA|布野修司

Plan of Chang’an – A Model of Chinese Capital

『大元都市-中国都城の理念と空間構造、そしてその変遷』“Dà Yuán City The Idea、SpatialFormation and Transformation of Chinese Capital Cities”(京都大学学術出版会、2015 年2 月)を上梓することができた。「おわりに」に記したけれど、本書のきっかけになっているのは、村田治郎先生の『中国の帝都』(村田治郎(1981))である。その現代版をまとめることが最低限の目的であった。1991 年9 月に京都大学に赴任した時に与えられた部屋に村田治郎先生の様々な資料が残されていた。廃棄された資料のようであったけれど、直筆のゲラや写真など興味深いものが少なくなかった。1995 年に「世界建築史Ⅱ」(「東洋建築史」を改称。Ⅰは西欧建築、Ⅱは非西欧建築)を担当することになって(~ 2004 年)、村田先生の仕事についてにわか勉強することになった。まさか本書を上梓することになるとは夢にも思わなかったが、その最初のきっかけは村田先生の雑然と積まれた資料であった。最低限の目標は果たせたと思う。『大元都市』には、いくつかの新たな視点を盛り込んだが、ここでは、平安京など日本の都城のモデルとなったとされる隋唐長安の設計計画について独自の案を提起したい。誰が設計したのか、ほとんど知られていない。宇文愷という。天才建築家である。そのドラフトマンになったつもりで、復元案をつくった。批判を乞う。

 

― はじめに

隋の文帝(楊堅)(位581 ~ 604 年)が北周の後を承けて帝位につくと、開皇2(582)年、高潁、宇文愷等に命じて新都を築き、大興城と号した。建設は、まず全体計画が立てられ、宮城、皇城、郭城の順に行われた。中国都城の建設がこれほど計画的に、白紙に図面を引くかたちでそのまま実施に移された例は大興城以前にはない。鄴にしても、北魏平城にしても、北魏洛陽の外郭城にしても、それぞれ作成されてきた復元図は、むしろ実際に建設された長安(あるいは平城京、平安京)をモデルとして、それを当て嵌めた理念図である。 『隋書』巻68「宇文愷伝」は「及遷都。上以愷有巧思。詔領営新都副官。高熲雖総大綱。凡所規画。皆出於愷。」という。すなわち、宇文愷は、新都造営の副官として巧みな構想(「巧思」)を持っており、あらゆる所を計画し(「凡所規画」)、全ては宇文愷から出たものである(「皆出於愷」)。大袈裟ではないであろう。

 文帝は転輪聖王(チャクラヴァルティン) を任じたという。クビライ、洪武帝、乾隆帝…みな転輪聖王を認じた。いずれも、優れた建築家であった。都城建設について文帝には明確な理念があったと考えられる。北方遊牧集団である鮮卑拓跋部のそれまでの都城建設経験を踏まえ、その理念型を具体化することである。すなわち、漢化政策をとった北魏孝文帝の平城の改造、北魏洛陽再建の経験を踏まえて、理想の国土「中国」の核となる都城を建設しようとした。その永遠の仏国土の設計をゆだねられたのが宇文愷である 2

 大興城は、宇文愷(555 ~ 612 年)という一人の建築家の頭脳の中で設計された。そして、
ほぼその設計図通りに建設された、中国都城史上類例のない事例である。

1 古代インドの理想的帝王を「転輪聖王」(チャクラヴァルティン Cakravartin あるいはチャクラヴァルティラージャ Cakravartirāja)という。この王が世に現れるときには天のチャクラ(車輪)が出現し、王はそれを転がすことによって武力を用いずに、すなわち法という武器によって、全世界を平定するという。「転輪聖王」は、七宝を有し、32 相を備えているとされる。32 相と言えば釈尊がそうであるが、その誕生に際し、出家すれば仏となり、俗世にあれば「転輪聖王」になるという予言を受けたという話はよく知られる。
2 隋大興城, 東京城の設計とそれを建設した宇文愷をはじめとする建築家たちについては、田中淡(1995)「第三篇 隋朝建築家の設計と考証」がある。この詳細な論考にほとんど何もつけ加えることはないが、田中淡(1995)は明堂復興計画を中心とする建築設計に重点を置いている。

 

― 1. 宇文愷

 宇文愷(字安楽)は、西魏恭帝の元廓2(555)年に代々武将の名門の家に生まれた 3。宇文氏は、もともとは北朝胡族、鮮卑系に属するが、西魏=北周を起こした宇文氏とは別系統に属しており、文帝が即位して宇文氏を誅した際には、愷自身も危うく死罪を免れている。宇文愷は、文帝のもとで官僚建築家としての道を歩むことになる。まず、宗廟造営の際に、営宗廟副監、太子庶子、大興建設に関して営新都副監を拝せられている。続いて、広通渠開鑿を総督した後、萊州刺史を拝せられ、仁寿宮建設に当たって検校将作大匠に任ぜられる。煬帝による東都建設に当たっては、営東都副監をつとめ、ついには工部尚書を拝せられるに至る。

 隋朝は2 代わずか37 年にすぎないが、この間の土木建築工事は、煬帝の大運河の開鑿が象徴するように大規模で広範に及ぶ。長城の修築、広通渠・山陽瀆の開鑿、通済渠の開鑿、御道(馳道)の建設などのインフラストラクチャーの整備と並ぶ造営事業となったのが、大興城の造営、そして東都の造営である。そして、その2 つの都城の設計を行ったのが宇文愷である。 隋唐長安城の設計については続いてみることとして、宇文愷の設計活動(A ~ K)を順にみていくと、以下のようになる。圧巻は、H 大張、I 観風行殿、J 観文殿の三つに見られる、奇想天外ともいうべき建築家の才である。

A 北周旧長安城・宗廟
 開皇元(581)年2 月乙丑、すなわち、大興城営造に先立って、宇文愷は、北周旧長安城に宗廟の設計を命じられる。その形式についてはわかっていない。


B 大興城宮殿
 開皇2(582)年6 月丙申に営造の詔を下し、左僕射高熲、将作大匠劉龍、鉅鹿郡公賀婁子幹、太府少卿高龍叉等に命じて新都を創造し、10 月辛卯、営新都副監の賀婁子幹を工部尚書とし、12 月丙子に新都を大興城と命名する(『隋書』巻1 高祖帝紀)。宇文愷の名はここにはないが、宗敏求『長安志』巻6「宮室・唐上」には、左僕射高熲が総領し、太子左庶子宇文愷が制度や規模を創造したとある。また、中心的役割を果たしたのが宇文愷であったことは、上述のように『隋書』宇文愷伝に記されている。太子左庶子宇文愷が、宮城、皇城の主要な建築の設計に関与したことは間違いないが、その詳細はわかっていない。玄都観の配置、苑池の設定、禅定寺の木塔の設計、官署の門などが知られる。


C 明堂復元案
 文帝は、大興城建設に際して、皇城前方、左(東)に宗廟、右(西)に社稷壇を造営する。宗廟は、同規模の4 つの親廟(皇高祖・太原府君廟、皇曽祖・康王廟、皇祖・献王廟、皇考・太祖武元皇帝廟)によって構成されていた。文帝は、即位後祭祀制度の整備を行い、南郊に円丘、北郊に方丘、五郊に壇を築く。そして、明堂の復元計画に当たったのが宇文愷である。宇文愷は、『東都図紀』20 巻、『明堂図議』2 巻、『釈疑』1 巻を撰著し(『隋書』宇文愷伝)、『東宮典記』70 巻を著した(『隋書』経籍志2)とされるがいずれも残されていない。文帝の勅命に対して、宇文愷は明堂の木様(木造模型)を提出したが議論に決着がつかず建設に至らなかった。そして、大業年間に至って、宇文愷は再び『明堂議』と木様を造って上奏している。煬帝はその評議を命じたが結局は沙汰やみになる(『隋書』礼儀志)。

D 太陵
 仁寿2(602)年、独孤皇后が死去すると、文帝は宇文愷・楊素らに命じてその陵墓の設計を命じている。


E 広通渠
 開皇4(584)年6 月壬子、大興と黄河を結ぶ広通渠が、開皇7(587)年4 月庚戌、淮河と長江を結ぶ山陽瀆(山陽―揚子)が開鑿された。渭水を黄河に連絡する広通渠開鑿工事の現場監督者として郭衍が知られるが(『隋書』郭衍田)、文帝が宇文愷に広通渠の建設を命じたことが記録されている(『隋書』宇文愷伝、食貨志)。


F 仁寿宮
 開皇13(593)年2 月丙子、文帝は、大興城の西北に仁寿宮を造営している(595 年竣工)。この建築物の設計にも、総督楊素のもと、宇文愷が検校将作大匠として関わっている(『隋書』宇文愷伝、『資治通鑑』)。


G 東京城宮殿
 仁寿四(604)年7 月、文帝が崩御し、即位した煬帝は洛陽へ行幸、11 月癸丑、新都建設を表明、直ちに長塹を掘らせている。翌大業元(605)年3 月丁未、予(洛)州旧城下の住民を移し、同月戊申、新都東京営造の詔を発して天下の富商・大賈数万戸を東京に移させた。大業2(606)年正月辛酉に完成、5 月丙子、東都と改称された。宇文愷は、東都の造営に営都副官として関わり、乾陽殿、顕仁殿など主要な宮殿の設計を行っている。
 以上の他に、煬帝は、宇文愷に命じて、「大張」を設計させている(「令愷為大帳」)。

H 大張
 「大張」は、巨大な天幕建築で数千人が座ることができた(「其下坐数千人」)。北方巡行の際に、戎狄に誇示するために(「時帝北巡。欲誇戎狄。」『隋書』宇文愷伝)というから、移動式、組立式の大規模なゲルとみていい。大業3(607)年、城東に「大帳」を建て、突の啓民可汗と部落3,500 人を招いて宴会をしたという記事がある(『隋書』煬帝紀城)。
 宇文愷はまた「観風行殿」なる建築を設計している。


I 観風行殿
 「又造観風行殿。上容侍衛者数百人。離合為之。下施輪軸。推移倏忽。有若神功。戎狄見之。莫不驚駭。帝弥悦焉。前後賞賚不可勝紀。」(『隋書』宇文愷伝)という。「上容侍衛者数百人。離合為之。下施輪軸。」とはどういう建築か。上に数百人が居て、下の輪軸で回るのである。他に、間口3間で、両方に厦(庇)があり、1日で建て挙げられたという記事(『大業雑記』3年)がある。回転式スカイラウンジである。回り舞台のような人力あるいは畜力を利用した仕掛けは想像できるにしても、数百人を乗せたまま回転するというのは、しかも1 日で組み立てられるというのは、相当の仕掛けである。大業5(609)年に、高昌国の王を「観風行殿」に招き、30 国以上の蛮夷の出席を得て宴を行った記事がある(『隋書』煬帝紀上)。
 「大張」「観風行殿」は、『太平広記』に、それぞれ「七宝張」「大行殿」として引かれており、煬帝の奢侈と不祥の兆しとして触れられている。そして、組立、機械装置による建築として、もう1 つ宇文愷設計になるとされるのが観文殿である。


J  観文殿
 「観文殿」は、宮廷の書室すなわち図書館であるが、自動扉、自動開閉式の書架を装備して
いたという(『太平広記』引『大業拾遺記』)。

K 浮橋
 宇文愷は、煬帝の高麗遠征の第1 次出兵(大業8(611)年)に従軍、遼水を渡る際に三本の浮橋を造っている。ただ、ここで煬帝は高麗軍に大敗している。宇文愷はこの7 ヶ月後に死去している。


 以上のように、宇文愷は、あたかもルネサンスのダ・ヴィンチやミケランジェロのような万能人にも比すべき存在のように思える。與服制度や車輦制度にも関わり、漏刻(水時計)の製作にも参画している(大業2(606)年、『隋書』煬帝伝上)。

3 以下『隋書』宇文愷伝をもとにした田中淡(1995)による。

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