
た、いる、そう|大槻 一貴
Kazuki OHTSUKI | English Title: Coming Soon
惹かれたもの、惹かれているもの、惹かれそうなもの。この3点から建築や日常、私の将来を俯瞰したいと思う。何かと自己軸を貫きたい私は、私の内側を出発点として物事を考えたくなるようになった。卒業設計「ちいさな一歩のかさねかた」では、初めて自分に問いを投げかけた私、正解のない問いに対して進んでいこうとする私がいた。この二人の私をみている現在の私、今ここに3人の私がいる。惹かれるものに突き動かされる時、私は私でないような感覚があると思う。
卒業設計で「日常に潜むちいさな輝き」を無意識に拾い集めていた。民主主義国家である今の日本で生きていると、何が民主的なのか分からない。あくまで個人の意見だが、社会の大半の人をどうしても「生きている存在」というより、「生かされている存在」のように感じてしまう場面が多い。この違いは一体何であろうか。
「惹かれるもの」から物事を考えてみることの欠如、これが回答であり、今回のエッセイのテーマだ。惹かれるものを考えることがテーマであるが、惹かれるものから考えること、つまり私を導いてくれる存在の後を追っかけてみること。必要なのは何気ないちいさな光の輝きを見失わないことで、大事なのは、ちいさな輝きから未来を想像してみることだ。なので惹かれるものを問い直すところから将来を想像するところまでを今回書いていこうと思う。
た
-日常の地の存在-
卒業設計で惹かれたもの「日常の地の存在」は意識的に撮影した集合ではない。スマホを持たずに徒歩で京都を歩いた旅の中で、ふと無意識的にカメラで撮影した1000枚の写真だ。スマホがないので、頼りになるのは私の今を生きる意識、どこへでも連れて行ってくれる私の方向感覚、会話を生む私の声、全て内在的な私の一部が京都を案内してくれる。
誰も案内人はいないけれども、至る所で声をかけられる。パンを食べるために座った大徳寺のベンチ、パン屋さんのオレンジ色の扉、居酒屋の洗濯物、そして4つの枕。いつだって気づくわけではない。たまたま気づいただけだ。だけどその偶然の出会いを大切にしようと思えるようになった瞬間で、かつて私が惹かれたものは目を向けようと意識をしていた対象ではなく、偶然の対象である。
街中に当たり前に散らかっている風景はよくみてみると、当たり前の産物ではないようなものが多い。スマホから得られる情報が全てになってしまう人間にはなりたくない。惹かれるものが都市にはたくさん落ちていることを教えてもらった貴重な経験が私の卒業設計だった。しかも面白いのが捉え方が一意に定まらないことで、誰が見るかによって捉え方が変わるのはもちろん、いつ見るか、誰とみるかなどタイミングも重要である。だから街歩きは楽しいと思うし、これからもどんな都市に行っても趣味として、何も考えずに眺める時間を大事にしたい。

-惹かれたものと自分を繋ぐ謎の力「rapport./間」-
卒業設計の内容を補足する形で「rapport/間」に対する思いをここで書きたいと思う。当時はただ日常で惹かれるものと私を繋ぐ役割をしている関係性のことをrapportと呼んでいた。とりあえず結論じみたことを言いたくて、rapportの設計性についてまとめたつもりだ。しかし、あれからrapportについて考えてみると、もっと広く物事を捉えられる枠組みのような体系であることに気づいた。
私は建築以外にもそれなりに興味があって、建築を深めることができなかったし、今も建築だけに専念するのがとても怖い。分業が進む中で、より深い専門性を持つことに意味があることも十分承知だ。だけどそのほかの興味、例えば、広義的なデザインと建築や、ビジネスと建築、最近の興味は持続可能性と建築など、建築が分離問わず、どことでも関連を持っている存在であることが私にとって救いだった。
何かを極めるのができないなら、私が惹かれる色々なものとの融合を試みて、色々な領域に足を突っ込みながら建築がしたい。そしてその関係性こそrapportなのだと私は思う。見えない関係性、共有し難い感覚をカタチにするのは難しいけれど、rapportと出会ってから思考するハードルが下がったように感じる。
建築がもつ余白はどんなものをも許容する。そして、日常に潜む小さな輝きも同様に余白がある。だから、その余白を繋ぐ役割がrapportであり、日本風にいうならば「間」であろう。きっとこの感覚は日本人特有のアジアの感覚であろうし、日本人として大切にしたい。松岡正剛の本で紹介されていた長谷川等伯の「松林図屏風」はこの間を体現した水墨画である。「間が存在する建築とは一体どんなものだろうか」という問いに対して、これから建築設計をする者として視点を広く持ちつつ、臨んでいきたいと思う。
実際rapportの直訳は「交感」を意味する。要は興奮状態やストレスを感じている状態のことを指す。つまり何かにドライブさせられている状態を指し、まさに私を表す言葉としても相応しい気がする。私の出発点は基本的に誰かとの比較から始まる。そしていずれ自分の軸に乗るとそこからは私ですら止められないほどに暴走する。ここで役立つのが「副交感」であり、落ち着く力である。rapportが意味するのは、とある対象を指すのではなく、AとBの間を指している。つまり私は常に私の外にいるおかげで自分を見失わずにいることができる。以上が学部4年生の時に惹かれたものとそこから考えたrapportである。
いる
惹かれているものをここでは、ただ美しいと思えるものと言い換えてみよう。継続的にふと美しいと思ったものを写真に撮り、Instagramにあげているが、誰かに見てもらいたいという思いはない。私がただ本当に美しいと思えるものをあげているだけだから。
今もそうだが、昔から物事に理由を持って「好き」「美しい」と思えないことを密かに悩んでいる。そのせいで、好奇心があっても、何かを本気で好きになることを諦めていたし怖かった。
「これいいよね、なんでかはわからないけど」
そう思うことすら辞めていたこともある。だけど、最近分かったのは「なぜ好きなのか」「なぜ美しいか」という理由よりも、「これいい!」と思える感覚が大切で、きっとこの先、生きていく中で必要になるのはその感覚ではないかと思うようになった。だからその中から一つ紹介したい。
-空-
大学院に入学して設計演習を履修しなかったことで、圧倒的に自分時間が増えた。設計によるoutputがないので、エッセイやnoteの言葉でのoutputに変わり、本を読む時間、散歩する時間、自転車に乗る時間、語学のinput時間、建築から離れないようにするための一級建築士試験の勉強時間など様々なことに時間を費やすことができ、学部時代よりものびのびとやれている実感がある。
このおかげで大きな変化として、夕方に街中を歩く時間が増えたことが私を大きく変えた。御幸町高辻にあるバイト先、鴨川、堀川通など屋外にいてそこから見える空は、かつて私が見てきた空とはまるで違っていた。白く光る朝の空に起こされ、雲がもくもくと出た空に不安を駆られ、ピンク色に染まる夕方の空との別れを惜しみ、マンションの前で見る澄んだ星空で一日が終わる。

「私の前に広がる空は一度も変わらない、そして私も変わってはいない。変わるのはお互いの表情だ。」 大学院修士1年の大きな収穫はこの空との出会いである。何も私の感情で空が変わるのではないけど、空の表情で私の感情は変化することもある。しかし、私の感情の鏡とも言える空は私と一心同体のような感覚がある。「空と私のrapport」即ち、空間(そらあい)は一体どんなものだろうか。偶然にも「そらあい」と「くうかん」の漢字が同じだから、きっと何か関係性があるような気がする。もう少し踏み込んで惹かれているもの「空」について考えていきたい。
そう
かつての私・現在の私を惹くものは「間・空」である。これからの私が惹かれそうなものは何であろうか。ここでは惹かれそうというより、自ら進んでいきそうな方向の提示をしておきたい。なぜなら、私は自己軸で生きていく中で、エンジンはどうしても他人であり、その漂泊の途中にある道草が惹かれるものだからだ。建築学科に入ったのには大した理由はない。建築が好きだった訳でも、ものづくりが好きだった訳でもない。しかし建築の中を漂泊する中で、間・空という道草が私を惹いていた。
そして後期からの北欧3カ国の留学では「持続可能性」という大海原でどのような道草を食べるかが楽しみだ。社会的な意味を探索してみたい気持ちと、もう少しだけ私の感覚を大切にしたい気持ちが葛藤する中で、このエッセイを執筆することで一旦後者に折り合いをつけるきっかけをもらうことができた。ここには書けなかったが、文化人類学や経営学、哲学、エンジニア、デザインなど幅広い興味をこれからも探求していきたい。間違いなくヒントは「間」であり、日本文化や日本建築、京都という土地性など最大限活用して、社会に還元していきたい。自分のうちから出る感覚を大切にこれからも生きていきたい。
大槻 一貴(おおつき・かずき)
京都大学大学院工学研究科建築学専攻田路研究室修士1年。卒業設計「ちいさな一歩のかさねかた」では日常に潜むちいさな輝きに焦点を当てて、日常のあり方を再解釈すると同時に、設計論と建築論に敷衍する。今回のエッセイでは、卒業設計で定義したrapport/ 間から惹かれるものについて気ままに考える。感想や意見はDMください。 instagram: @___kbgm