
【小林・落合研究室】traverse25 Project
比良山麓地域における水害・土砂災害に対する重層的な防御の仕組み(准教授 落合知帆)

近年,これまでの経験や想定をはるかに超えた降雨による洪水やそれに伴う土砂災害などが日本各地で発生している.日本における歴史的な災害対応に関しては,有形の土木や建築遺産が知られている.一方で,それらを維持管理してきた地域住民の工夫や努力といった無形の遺産も多くある.その地域特有の地形,地質,災害特性,社会構成などが把握され,人々の知識や知恵が反映されている歴史的資料を読み,古老たちの経験や語りに耳を傾ける必要がある.滋賀県大津市に位置する比良山麓地域は1000m級の山々を背後に有し,西にある琵琶湖までの中間に集落が形成されてきた.その一つ,荒川地区(かつては荒川村)を流れる大谷川は江戸時代から昭和初期にかけて幾度も護岸が決壊し集落に被害をもたらした.ゆえに地域住民たちは,そこで産出される花崗岩を活用し河川沿いに堤を築いただけでなく,多様な方法で地域を守る仕組みを作り次世代に伝えてきた.
集落内を流れる大谷川は,1600年代だけを見ても三度の「荒川出水」が記録されており,1873年(明治6年)に作成された地籍図には,大谷川に沿っていくつもの堤が描かれている.調べてみると湖西道路(湖西バイパス)より山側から大谷川沿いに約680mに渡り,地元では荒川堰堤と呼ばれる堤が残っていた.場所によって二段や三段の石積みになっており,高さは集落側で2m~7m,幅は確認できる範囲で1m~5mであり,場所によって石積みの工法や形態が異なっている.
堤の他にも,荒川堰堤と集落との間に広がる森林は保安林に指定されており,堤を超えて流れくる水や土砂を止める,またはその威力を抑える役割を果たしている.さらに,集落はシシ垣と呼ばれる猪対策の石垣によって囲まれている.比良山麓地域では1700年代後半から各村でシシ垣の築造が行われていたが,荒川村では1935年(昭和10年)の水害時に大谷川の破堤によって大量の水や土砂が集落に押し寄せ,シシ垣の一部も破損し集落内に土砂が流れ込む被害を受けた.このため,堤の再建工事と同時期に,集落の人々によってこのシシ垣を土砂災害にも耐えられるよう強固に作り直す工事が行われている.
また,当地では様々なソフト対策も行われてきた.例えば,「石もっこ」または「砂もっこ」という藁などで作られた石や砂の運搬用具を集落の小字ごとに作り,必ず正月の3日にその状態や総数を確認し災害時に備える「モッコシ」と呼ばれる習慣があった.さらに,かつては大きな雨が降った時には,「川原行き」といって男性は川原の様子を見に行き,女性や子供は集落の南側や浜側に逃げるように伝えられていた.集落内でも少し高い所にある寺院の鐘撞堂には,水害時の鐘の鳴らし方を示した板が残されており,これによって水害の危険を集落住民に知らせていた.堤が破堤した場所には竹生島宝嚴弁財天から分祀された弁財天を祭る湯島神社が1875年(明治8年)に建立され,年に一度お祭りが行われている.このように,当地の人々は,いつくるかも知れぬ水害・土砂災害に備えて重層的な防御の仕組みを築き,自らの家族や財産を守ってきた歴史がある.さらに忘れてはならないのは,災害をもたらす花崗岩や砂は一方で,この地域に石材産業の発展と美しい砂浜の形成といった石文化を形成した重要な要素でもあるということだ.

荒川堰堤の様子

シン垣の様子

砂モッコ

標高差を考慮した避難先
