
熊野寮居住記|南沢想
2021年4月から2024年3月まで在寮していた京都大学の自治寮・熊野寮での生活について書いてみたい。自治寮という場所は、そこに住んだことのない人からすれば実態のよく分からない場所だろう。時計台占拠やガサなど非常時のイベントについては知っている人もいるかもしれないが、500人近くがいっしょくたに暮らす生活の実態についてはイメージがわかないのではないだろうか。
あくまでいち学生の個人的な体験ではあるが、自治寮という空間の実情を知るひとつのきっかけとしてこの居住記を読んでもらえれば幸いである。
【衝撃の居室】
生まれてから18年間、私は横浜の外れのマンションに家族4人で住んできた。古いマンションではあるが、引っ越しを機に大規模なリフォームを行ったこともあり、住環境に関して不満を感じたことは全くない。そんな私にとって、自治寮での共同生活は今まで味わったことのない刺激的な毎日であった。
私がまず入居したのは、あるブロック1の4人部屋である。ここは10畳(うち入口2畳分ほどは土間になっている)に机4つ、2段ベッド1つ、棚1つがぎちぎちに詰まった熊野寮でもかなり狭い部屋であった。
この文章を注意深く読んでいただいている方は、ここで少し疑問に思ったかもしれない。
4人部屋で2階建てベッドが1つ。なんと、あとの2人は押入れの上下で寝るのである。
私が入ったときは、ベッドの下段と押入れの下段がそれぞれ空いており、同じ新入寮生のAちゃんとどちらを選ぶか決めなければいけなかった。
「どっちがいい…?」
おそるおそる、(その日会ったばかりの)Aちゃんに聞いてみる。
「わたし、押入れがいい!楽しそう!」
同居人が迷わず押し入れを選ぶ子で良かった、と思った。Aちゃんはとても真面目で気が良い子なのだが、時々不思議な感性を発揮するところがあった。しかし後から考えてみると、私があまりにも「ベッドで寝たい!」というオーラを出しすぎていたのかもしれない。
【くらい・あつい・さむい・せまい】
かくして私はベッドで寝る権利を得たのであるが、この後1年間、部屋の過酷な環境に苦しむことになる。
まず、この部屋はほとんど日が入らない。南向きに窓がついているものの、日夜問わずカーテンが閉め切られているのである。
これは先住の寮生で、私の上のベッドで寝ていたBさん、そして押入れの上の段で寝ていたCさんの気遣いによる。博士課程に在籍していた彼女たちは、朝7時に家を出て、20時に帰宅、23時には就寝、という規則正しい生活を送っていたのだが、遅くに起きる私を気づかい、朝はカーテンを閉めたまま準備してくれていたのだ。しかしやはり朝日というのは人体にとって大切なもので、スマホのアラームで無理に目を覚ましても、体が起きた感じがしないのである。また熊野寮の部屋にはトイレや洗面台がついていないので、寝起きのひどい顔で外に出なければならない。幸いこの部屋は水場に一番近い部屋であったが、それでもいちいちサンダルをつっかけて外に出るのは難儀なことだった。
次に、冷房・暖房がない。熊野寮は1965年竣工時には建物に張り巡らされた配管に熱湯を流すことで部屋を温める「セントラルヒーティングシステム」が採用されていたが、電化が進められた今は当然動いておらず、管だけがその名残として壁に残されている。それゆえ、多くの部屋ではクーラーやヒーター・こたつを住人たちが購入し、部屋の共有財産として使用していく。
しかし、私の部屋はなぜか冷房器具も暖房器具もなかった。たしか古びた扇風機が1台あるだけだったように思う。先住人のBさんCさんは優しいけれどあまり交流を求めているような雰囲気でもなく、入寮したばかりの私から、みんなでお金を出して冷暖房器具を買いましょうとは言えなかった。
ある冬の日、バイト終わりにシャワーを浴びて部屋に帰り、ヘアオイルをつけようとしてそれが凍っていることに気づいたとき、体から力が抜けて泣き出したい気持ちになったことを覚えている。入寮以来色んな人に囲まれて暮らしてきたせいでホームシックなど全く感じなかったのに、このときばかりは横浜のマンションが懐かしくなった。
最後に、この部屋にはほとんど個人のスペースがない。共同生活を営む以上プライバシーが確保されづらいのは仕方ないことではあるが、この部屋は、寮の中でも特に個人のスペースが狭い部屋であった。熊野寮は基本的に16畳4人部屋もしくは8畳2人部屋なのだが、私たちは10畳に4人で暮らしていたのである。
熊野寮では数部屋を勉強部屋、リビング、寝室などに分けて6-10人で住む、といった変則的な部屋の利用も行われている。この女子部屋は、以前は2室(それぞれ8畳・10畳)を4人で使っており、8畳のほうをリビング、10畳のほうを寝室としていたのだが、諸事情により私が入寮したタイミングで リビングが男子部屋化し、10畳に4人で住むことになってしまったのだ。
2回生後期の住居計画学で自身の部屋を記録していたので、その写真を添えておく。私個人に与えられたスペースは事務机1つ、椅子1つ、棚1つが置かれた約2畳分。私の右隣には同居人Aちゃんの机、そして2人が寝る押入れがあったので、食事をするにも本を読むにも手狭であった。
【部屋を捨てよ、街へ出よう】
つらつらと恨み言ばかりを言ってしまったが、居住部屋の暮らしづらさは私の生活を外へ押し広げてくれるきっかけになった。
私の部屋のちょうど上には「談話室」2と呼ばれるブロックの住民共有のリビングのような部屋があり、寝るとき以外は多くの時間をそこで過ごしていた。この部屋にはクーラーや扇風機、こたつなどが設置されており、自室よりかなり快適であったためである。
寮に住み始めた2021年はコロナ禍だったこともあり、みんなでこたつに刺さりながらオンライン授業を受けていた。隣ではアニメを見ている人もいれば格闘ゲームで負けて叫んでいる人もいて、今思えば学習に適した環境ではなかったかもしれない。
12時に授業が終わった後、食堂へ行き寮食(昼食260円!)を食べる。食べ終わったらみんなでまたぞろぞろと談話室へ帰り、午後の授業を受けたり、バイトへ出かけたり、睡魔に負けて昼寝したりする。17時になるとまた食堂で寮食(夕食390円!)を食べる。寮食のない休日は料理の上手い先輩が炊き出しをしてくれることもあった。夜はその場の思いつきで映画を観たり飲み会を始めたり、会議のあとに木屋町までラーメンを食べに行ったり、深夜にぽつぽつと身の上話をしたり、寮に入らなければ出会っていなかったような、年も性別も所属もばらばらな人たちと過ごす日常はとても新鮮だった。
私が最も好きな時間は、みんなで銭湯に行くことだった。寮にはシャワーしかないので大きな湯船につかることができるのも嬉しかったが、みんなで街へ出て、一緒に風呂へ入って、また家へ帰る、という行為自体が非常に豊かな時間に思えたのである。
昔ながらの銭湯で寮生や近所の人たちと肩を並べて湯につかり、帰りはコンビニでアイスを買い、湯気のたった体を並べてぽつぽつと街灯のつく夜道を歩く。こういうとき、私は小さな2.5畳に住んでいるのではなく、寮という大きな空間に、さらには京都というまち自体に住んでいる、という気持ちがした。
―――
1985年から2年間東京大学駒場寮に居住していた五十嵐太郎氏は、当時の生活を「意図せざる居住実験」と評し、「ハコがあって、それをどう使うかは、前提さえ変われば、いくらでも自由になりうるということを、筆者は建築を学ぶ前に刷り込まれた。」3と記述しているが、これは当時居住者が減り始めたことで空き部屋が増え、柔軟な部屋の利用が可能になっていた駒場寮ならではの状況であるように思う。
私が入寮した2021年頃の熊野寮には定員422人に対し500人弱が暮らしていた上、年々入寮希望者が増えていた。なんとか全員を入寮させようと本来居室ではない部屋を居室化したり、一部の寮生が廊下や屋外に暮らし始めたりと、とにかくもはやハコはパンク状態なのである。前述の通り私の居室が過酷な環境であったのも、本来4人で使っていた2室を、各部屋2人と4人で使うようになったためであった。
寮生たちはトイレも風呂も冷暖房もプライバシーもない小さなハコを出て、談話室や食堂のような、より大きなハコで集まり始める。ときには寮の外まで出てしまって、他の学生や地域の人たちを巻き込んで空間を使っていく。
京大本部キャンパスの時計台前で行われたコンパの様子。テントと畳で場をつくっている。寮生・寮外生が共にこたつで鍋をつつき、麻雀に興じる。
【終わりに】
もちろん寮生活には、ここには書ききれない大変さや生きづらさもある。私は寮の生活自体を過度に美化するつもりはないし、この生活様式がそのまま社会に適用可能であるとは考えていない。空間の大部分を共用する生活は、住民のほとんどが境遇の似た学生たちであり、なおかつ水・電気・労働力などの本来有限な資源を月4300円という破格の維持費でほとんど制限なく利用可能であるといった特殊な状況ゆえに成り立つ部分も大きい。
しかし、家を出て、遠く離れた土地で建築を学び始めたときに熊野寮で生活できたことは、私にとってとても大切な経験だったと思う。横浜の家には全てが揃っていて、たとえば食事をしたり、風呂へ行ったり、テレビを観たりといった行為を、家の外で、家族や友人以外の人とするなどと考えたこともなかったのである。本来「住む」とは、私が暮らしてきた3LDKのマンションには収まりきらない事象なのだった。家とは何も個人あるいは家族の居室だけを指すのではないし、生活は部屋を越えて街に広がっていく。
熊野寮での生活は、私に「住む」ことの可能性に対する確信を与えてくれたのである。
1熊野寮はA,B,C棟の3棟からなり、フロアごとに「ブロック」と呼ばれるクラスのようなもので分けられている。(例えばA棟の1階のブロックは「A1(エーワン)」。ただしC棟1-2階「C12(シーワンツー)」のように、2フロア分まとめてブロックがつくられているところもある。新入寮生が入る部屋は、各ブロックの寮生が選ぶ。入寮前に「入寮面談」なるものがあり、そこで生活リズムや趣味、好きなものについて書類に記入する。その書類を見て、部屋に空きがある既住寮生がどの新入寮生を自分の部屋に入れたいか決めていく。
2談話室は各ブロックに1つ設置されており、大体10畳ほどの部屋にこたつ数台、テレビ数台、ゲーム機、漫画棚、麻雀卓、ソファ、酒、食器類などが置かれている。ブロックによって巨大な映画用スクリーンがあったり、レトロゲームが多かったりなどといった特徴がある。団らんだけではなく、月2回のブロック住民による会議にも使用される。
3五十嵐太郎. “戦後日本における集合住宅の風景”. 10+1 website. 2014-08, https://www.10plus1.jp/monthly/2014/08/issue-02.php (参照2024-11-01)