線と境界|ダニエル研究室修士2回生 岩見歩昂

― 複層都市

 「街が立体交差している光景」が記憶にある人はいるだろうか。私が初めてその光景を発見した、もしくは気に留めたのは 2018 年秋-ちょうど大学二回生後期設計課題の敷地を自転車で探している時のことであった。京都の北大路通を走っていると道はやがて天神川と交わり、突如道の下に川と、別の道があらわれるのである。自分が地面だと思っていた場所、そのさらに下に地面があり、何事もないかのように家が建ち、いくつかの建物はあたかも北大路通の地面から建っているかに見えるのだ。ただの傾斜地や崖とも違う、道が複層的に交差している光景にひどく驚いたものだ。それからというもの、似たような光景を新宿、ジェノヴァ、ワルシャワ、ウィーンといった様々な都市で発見した。道が交わるというのは、現象としては道路と高速道路や電車の高架、もしくは道路と歩道橋、また水上の船と上に架かる橋、これらの関係性と同じである。

― 線

 抽象絵画の提唱者として知られるWassily・Kandinsky(ヴァシリー・カンディンスキー)は彼の著書、『点と線から面へ』において、氏の抽象絵画の構成要素である点、線、面についての抽象的かつ論理的分析を展開している。

[写真1]ヴァシリー・カンディンスキー『小さな赤い夢』.png

[写真 1]ヴァシリー・カンディンスキー『小さな赤い夢』

 カンディンスキーは線をその抽象的及び図形的特徴として「動く点の軌跡であり,その所産である。線は運動から生まれ,ーーーここに静止的なものから動的なものへの飛躍がある。」と述べている。スマートフォンで地図を開いてみる。広大な面である地に対して、なんと線の多いことか。都市が線で成立していることを目の当たりにできる。縦横無尽に張り巡らされた道、真っ直ぐに町を繋ぐ線路、集落や山をも分断する高速道路、隠された見かけの地下鉄。正確には、幾何学的な定義による、幅を持たない線ではなく、「線のような属性を持つもの」であるが、確かにこれら全ての線は、人の移動を目的とした要素であり、つまり線は運動から生まれている。

 ここで注意したいのは、線は必ず副次的に分断を生むということである。線はトンネルのように地点同士を繋ぐものでありながら(都市における線は接続を目的に道路として計画される)同時に性質として分断を孕まずにはいられないのだ。鴨川沿いを歩くと、言わずもがな東西岸は、南北を流れる川という線的要素によって分断されている。もし川に橋が一本もかかっていなければ、船という手段を人が有していなければ、この分断を超えられないのである。数キロに伸びる川に対して、橋というたかだか幅10m程度の、相対的にはもはやゼロに近似してしまえるかような要素によって、担保されている接続がある。高速道路や線路においてもそうである。もし高架になっていなければ人はくぐることができず、もし踏切が無ければ渡ることができない、分断された領域に到達できなくなるのだ。たった一本の線で面は分断され、またたった一本の線によって繋がることができる、それほどただの一本の線は強い意味を持つ。

 動きを伴わない線も、実世界には存在している。つまりは分断のみを有した線である。線と分断という観点において、分かりやすい例としてベルリンの壁が挙げられる。構築された線状の壁によって、まさにもともと一つの領域だった土地が分断される。一片の隙間も無く延々と続く分断(ベルリンの壁においては円状であるが)はその境界を横断する隙を与えない。図としては弱く、幾何学的にはその細さがゼロにすら近似されうる、そんな線が、面という二次元に与える影響はかくも強力なのである。

 このエッセイにおいては、カンディンスキーの分析に則った、道のように「動きが目的」とされその結果分断が生まれる線と、ベルリンの壁や城壁といった分断が目的とされる線を区別して、特に前者を述べる際に「動的な線」と記述する。この二つの線の違いは三次元的には、後者はマッシブなヴォリュームに目的があることに対し、前者は、高架の構造といったマッスを有していたとしても、あくまで動的な線のエリアである幅を持った面に目的があるということである。

― 境界

 Claude Parent(クロード・パラン)は「移動経路は囲まれた空間によって生まれる隙間の間に生成される」と述べている。​

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[写真 2]囲われた空間同士の隙間、としての移動空間『斜めにのびる建築』より

現代の都市においてはまず動的な線-道が計画され、添うようにして、囲まれた空間(建築)が建てられる構図になっているわけだが、この地と図が反転しても所謂「道」が動的な空間であることに変わりはない。写真2のように、境界としての囲まれた空間たち、それらから反転的に生成される空間=道、として移動経路が生成されているわけだ。つまり動的な空間ではあるもののその成因が動的な線ではなく、境界による分断を経た結果、動的な線のようなものが出来上がる構図を示唆している。

 勿論、前述のような種々の線により生まれる分断は自ずと境界となっているわけだが、現代では社会通念による、時として目に見えない物理的ではない境界も存在する。例えば日本の駅の改札は非常にシステム化された境界である。利用者が共通に認識する機械の前後で、ただの駅の「利用者」と電車の「乗客」として社会的属性、またチケットを介して資本的属性が変わるのである。ここで興味深いのはこと改札に関しては、改札という境界を抜けるために、改札をくぐるという方向で境界に交わる動きが生まれるということである。つまり境界は存在することによって、それと交わる境界を越えるための動的な線を促すのではないだろうか。

 ここまでの内容を整理すると、線からは分断が生まれ、それはつまり境界である。線には動的な線と、改札や城壁のような分断=境界を目的とした線が存在し、後者はそれに交わるような動的な線を誘発する。即ち動的な線と境界は同時発生的概念でありながら、また時にその目的を違にしながらも、常に相互的に影響し合い、概念を呼び起こし合うのだ。

― 高次元の世界

 カンディンスキーの抽象的分析を元に二次元における線と境界について記述してきたわけだが、ここからはそれらを元に、現実世界の建築における三次元的な解釈に発展させる。

 二次元的な線の分析と、我々が生きる実空間においての線の働きの違いは、我々が線を、主観的には線として知覚し難いということに起因する。ナスカの地上絵が地上にいては認識できないように、本来的には、地図のような俯瞰的な知識なしに道を(動的な)線だと知覚することは難しいのではないだろうか。「道路で遊ぶのは危険」と教わり、次第に社会通念的に道路は動的な線だと認識するのだが、無垢な子どもにとって、道路は境界ではなく、幅を持った面として知覚されるのである。また交差点や、高架と道路、といった動的な線の交差も三次元と二次元で異なる解釈を要する。線は交わることでしか分断された領域を横断できないと前述したが、道路もまさに交差点で交わることによってあらゆる座標に到達することを可能にしている。しかしながら、車社会の現代においては特に、動的な線は方向を持つが故に、それらが衝突した時、互いが互いを分断したことになるのである。二次元上においてはそれはただの領域の境界で構わないのであるが、現実ではその問題を、信号機といったシステムと社会通念を利用することで方向の流れの衝突を避ける、もしくは高架等にによって三次元的にずらすことで解決するのである。このように、動的な線は社会やスケールによっても意図した目的以外の知覚をされうる、また動的な線が衝突することは三次元下においては二次元と異なった意味を持つのである。

 さて、前述のとおり現代の都市は主に動的な線である道路に沿って建築が配置されており、この動的な線の描き方が都市の要であったのだろう。ただ、それは多くの場合二次元的な線の扱いの領域を出ていない。線で点をつなぎ、交わってしまうところは仕方なくシステムや三次元化によって解決する。それは恐らく現代の動的な線の主体が自動車であることも大きな要因だろう。

 かつて主体が人間だった頃、動的な線が持つ方向の力が弱いが故、つまり道がそれほど強い分断ではないが故に、人はより簡単に道を横断できたであろう。あくまで道は動的な線よりも、囲まれた空間(建築)同士を緩衝する境界として機能していたのではないだろうか。そこには現代とは異なる境界の概念、動的空間が流れていたに違いない。

 この先、動的な線の主体が変化することで、それに起因する線の幅や方向の強さ、線としての成立条件(自動車の場合回転半径など)も変化していくことであろう。また、敷地や内部外部といった境界のあり方も変化していくことであろう。線を描いた結果境界が生まれているのか、それとも境界を描いた後に線が浮かび上がってくるのか、この順序は時代における動的な線の主体や、建築、都市システムによって互いに影響を及ぼし合う。線が持つ、裏に隠れた無意識的な力を把握し、境界との相互的な関係を理解することが、根源的に新しい定義を持った都市を形成していく上で必要なのではないだろうか。

【参考文献】

​1) ヴァシリー・カンディンスキー著 , 宮島久雄訳 ,『点と線から面へ』, ちくま学芸文庫 ,2017

2) クロード・パラン著 , 戸田穣訳 ,『斜めにのびる建築』, 青土社 ,2008

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