写真家/山岸剛|現像された都市 モノ語りを聴く

聞き手:加藤安珠、中筋晴子、西田造
2021.9.9 Zoomにて


「モノ」を通して、人工性と自然の力関係を読み解く写真家 山岸剛氏。

「写真はexpress(表現)ではない、世界を認識するための手段だ。」そう語る彼の目には何が写っているのだろうか。パンデミックを経て我々を取り巻く都市はどう変わるべきなのか。彼の写真作品を通して、そこに宿る哲学を紐解いていく。

2019 年9 月15 日、江東区海の森

 

建築写真との出会い

ーーまずはこれまでの経歴や、建築写真家になられたきっかけについてお聞かせください。

学歴としては早稲田大学政治経済学部経済学科を出て、少し間をおいて、同じく早稲田大学の芸術学校空間映像科に入学しました。当時は映画に関心があって、写真はやっていませんでした。写真術に惹きこまれ、本格的に始めたのは24、5歳くらいでしたでしょうか。なかでも建築を撮るようになったのは、もともとあった都市や風景への関心からだと思います。学生時代は旅が好きで、さまざまな場所を訪れました。観光地に行くというよりは、フラフラとまちを歩きまわっていました。その土地土地の風土というのか、風景の雰囲気を、飲んだり食ったりもふくめて堪能していく感じですね。今も変わりません(笑)そしてそうした風景というのは、簡単に言うと人間がつくったもの、つまり建築物と自然とから出来ていました。土木構築物などもふくめた人工物のいろいろなかたちと、自然物とが織り成されて風景が出来ている。そのことが、建築という人工性への興味を素朴に募らせました。まちを歩いて風景を眺め、その空気感を味わうなかで、建築物が粒立って見えてくるようになりました。

私が写真術に興味をもった当時は、日本では「私写真¹」的なものが世の中を席巻していました。しかし、私はまったく興味がありませんでした。自分自身の生活をセンチメンタルに、感傷たっぷりに眺めて撮影する行為にまるで共感できなかった。そういう状況のなかで写真術に手をそめ、どちらかというとはっきりとした「かたち」、またウェットなものよりドライなものが好きだという、自分の嗜好性も影響して、建築写真に進んでいったのだと思います。

建築家の鈴木了二²さんとの出会いも大きいです。私が入学した芸術学校の空間映像科は、鈴木先生が立ち上げた学科で、先生がやるならと、その一期生として入ったのです。在学中はいろいろと目をかけてもらって、先生の竣工したばかりの建築作品を撮影させてもらったりもしました。私にとっての、はじまりの建築写真です。写真や建築といったジャンルに関わらず、作品をつくり、それを世の中に発表していく。そのときの社会への態度や距離感なども含めて、先生からは大きな影響を今も受け続けています。だから鈴木了二という人は、自分にとってまさに先生、師匠であると考えています。

もちろん食い扶持としても意識しながら、こういったことが合流して、建築写真を撮るようになりました。卒業後は、建築だけでなく商業空間やインテリアなどの撮影も手がける商業写真事務所に3年ほど勤めたのち、独立しました。

 

ーー写真を本格的に始められていない段階からも、現在の作品に通じるような視点はもっておられましたか。

当時から、個々の建築物だけではなく、建築物と自然とが織り成されて生まれる雰囲気に興味がありました。当然ながら、風景は目に見えるフィジカルなかたちの組み合わせで出来ているわけですが、それと同時に、目には見えないその場の雰囲気というのも、自ずと生まれてきますよね。その場全体の感じ、空気感。風景というものを考えるとき、私にとってその両者は分離することのできないものでした。

しかし、ひっくり返すようですが、当時から「空気感」とか「空気」とかいう言葉遣いが嫌でなりませんでした。「空気感」なんてものは、写真には写らないからです。写真に撮れるのは目に見える具体的な個物、すなわち「かたち」だけです。ですから、個々の建築物のかたちに、この曰く言いがたい「空気感」とやらを、いかにして呼び込むか、それを考えなければいけませんでした。

 

形式性と写真の自由

ーー独立後はどのような活動をされていたのでしょうか。

独立してからは、写真事務所での修行でガチガチに身体化されてしまった建築写真の形式性、慣習みたいなものをときほぐす作業をしていました。たった3年弱ではありましたが、商業写真事務所で撮影をすることを通じて様式化された身体で、いわばフツーの、そこいらの風景を撮影したら、何というか、カチカチのこわばったものにしか仕上がらなくなっていた。それこそ先ほど言った「場の雰囲気」みたいなものがまるで写らなくなっていました。これはまずいと思って、三脚に大きなカメラを載せて撮影するやり方から、手持ちの中判カメラに持ち替えて、東京中を歩いて撮影することにしました。学んだ(=learn)ことを、学びほぐす(=unlearn)感じでしょうか。なにせ仕事なんてとんとなく、暇だけはありましたから、とにかくカメラを首にぶら下げてひたすら歩いていました。

皆さんもご存知のように、建築写真というのは、とても形式性の強い写真です。4×5(シノゴ)³などの大判カメラを三脚に据えて撮るのが通例です。水平性・垂直性であるとか、対象への光の当たり方、物体のヴォリューム感の出し方など、いろいろと約束事が多い写真だといえます。私は基本的に、こういった形式性をとてもポジティブに捉えています。絵画や建築の図面などが培ってきた技法のように、3次元のものを2次元に、空間を平面に変換してあらわすために必要な手順が、建築写真の形式性にも流れ着いているといえるからです。写真は若く、「古き良き」建築や絵画に較べると、個々の作品が属する系譜や伝統といったものはほとんどありません。さらに誰でもが撮ることができ、膨大な、今や天文学的な量の写真イメージが日々生み出されています。そうしたなかで建築写真というジャンルは、絵画や建築の知と技術の体系が注ぎ込まれた、つまり伝統と呼ばれるのにふさわしい蓄積が流れ込んでいる、ほとんど唯一の写真ジャンルではないかと考えているのです。

だから私はこうした形式性を信頼しています。伝統のなかで培われてきた形式性こそが、現代の雑多なものごとを一手に受けとめることのできる、豊かな、まさに現代的なものであるからです。でも今、そこここで見かける建築写真の形式性というのは、たんに生硬な、間口の狭いものになっているように見えます。画面の水平垂直さえだしておけば建築写真になる、とでもいうような安易さに、形式が堕しているように見える。建築というのはあらゆる雑多なものが寄せ集まって一つのかたちに結晶化するのに、このような凝り固まった形式性では、建築の限られた側面しかとらえることができないのではないか。いわば形式が目的化している状態。本来、形式というものはその先にあるものをこそ捉えるために要請されるのに、今の建築写真においては、形式性が自己目的化して終点になっている。そういう意味では、独立後の「学びほぐし」の時期は、形式というものが本来捕獲することのできる豊かさを、より多く呼び込めるような、そういう身体のあり方を模索していたのだと思います。

 

ーーそのような豊かな形式性をもった建築写真として、影響を受けた写真家の方はおられますか。

もちろんです。先ほどお話ししたように、いわゆる「私写真」が流行していた当時、私は見るべき写真などないと勘違いをして、美術館で絵画作品ばかり見ていました。しかし写真家の畠山直哉⁴さんの作品と、彼の非常に精緻で、同時にふくらみのある言葉は常に追いかけていました。

また、これはずっと後のことですが、建築写真家の二川幸夫⁵さんにも影響を受けました。二川さんには、日本建築学会の会誌『建築雑誌』の編集委員を拝命した際、お話を直接伺うことができました。二川さんの写真はそれこそ王道の建築写真といった感じ、というかその王道的なあり方を二川さんたちがつくりあげたわけですが、そこに写る建築の懐の深さが明らかにちがいます。個々の建築物を撮っているんだけれども、それを超えて、その背後にその建築物が抱え込んでいる、建築の歴史までも余さず捉えてしまう、そういう大きさ、偉大さ、英雄性といったら大げさかもしれませんが、そういうものがある。彼の建築写真は、建築物単体を撮っているのにそれが風景となっている、そんな感じもある。建築の後先というのか、建築物がそこに建ったあとに風景がどのように変わっていくのか、ということと、その建築物がその前に建築の歴史の何を背負ってやってきたのか、ということを同時に見てとることができるような、そういう射程の深さがあるように思います。

形式性ということに関連してもう一つ付け加えると、写真は「受けとる、受けとめる」メディアであると私は考えています。ですから、私にとって写真はexpress、すなわち表現行為ではありません。expressというのは自分の内なるものを外に押し出すわけですが、写真はカメラという箱を媒介にして、その向こうにあるものを受けとめ、それをフィルムに定着させるものです。それはカメラという機械による知覚が、人間的なそれではないからこそ可能になることでもあります。カメラは、人間の、行動にいたる知覚とは違って、何が役に立つのかという取捨選択をしません。カメラという箱、この小さな建築物に到来するすべてを平等に、意図しなかったもの、意図しえなかったものも含めてまるごとフィルムへ受けとめることができます。人間的な知覚に限定されることなく生け捕りにされた世界の在り様にまずは驚いて、そこから新しい、いかなる人間的な意味を見いだすことができるのか。こここそが、写真家である私の仕事場です。4月に『東京パンデミック』という本を出した時、ある写真評論家が「山岸の写真は表現じゃない、世界を認識するための手段だ」と評してくれました⁶が、まさにその通りです。

 

人工と自然の力関係ーモノ語りー

ーー山岸さんの近著『東京パンデミック』では「モノ語り」というキーワードが出てきます。モノから人の振る舞いを読み解くという意味で使われていたと思いますが、あらためて「モノ語り」についてお聞かせください。

まず前提として、人間とは関係のない、人間的な関係性に入る以前の世界の在り方に、カメラによる知覚はアクセスすることができると考えています。カメラというのはまずは、端的に言って機械なわけです。これは写真の黎明期から言われていることですが、やはりカメラで見るということは、人間が見るということとはまったくちがう。人間は何かをするために知覚し、行動します。ある有用性のもとで、末端で知覚し、それを中央つまり脳で組織化し、行動に至る。しかしカメラは本来、そういうものとは無関係です。機械的な知覚であって、末端で知覚してそれでおしまい、中央/末端の回路もありません。つまり非中枢的で非選択的、無用な知覚であるといっていい。

たとえばハリウッド映画などに代表される映画においては、このカメラによる、本来非中枢的な、断片化した知覚のイメージを、人間的な知覚に模していくようにして繋ぎ、編集することで一連の線的な時間をこしらえていく。非中枢的な知覚を、あたかも人間が見ているかのようにいわば擬装して、それを繋げることで一つの人間的な物語=ナラティヴをつくっていく。でもそもそもカメラによる知覚は、人間の知覚とか、人間の認識や行動とは何の関係もないものです。ただの機械ですから、もっと直接的で即物的。

だからカメラによる知覚を、人間的なものに飼い慣らしていく罠をくぐり抜ければ、(現在の)人間的なものに絡めとられる前の、もっと野生的で、酷薄な世界の在り方にアクセスできる。私の写真は「人がいない」とよく言われますが、それは人間をことさら意識して排除しているわけではなく、カメラによる知覚の形式そのままに、人間のみを特筆してとらえていないだけです。よく見れば人間もいますよ、主人公じゃないだけで。人間も、建築物や動物や昆虫やらと同等に写っていてほしい、というか少なくともカメラの前では当然にみな平等で、それぞれ異質で、それらがある関係をもって存在しているわけです。

私は、「モノ語り」の「モノ」を、「物質であって物質以上のもの」というニュアンスでカタカナを使っています。感傷的で思い入れたっぷりの、過剰にヒューマンな「物語」より、カメラが即物的に捉えた「モノ」としての風景が語る「モノ語り」の方が、よっぽど克明に、そして冷徹に、動物としてのヒトを、人間の内なる「自然」を見せてくれるのだと考えています。

 

ーー山岸さんの言う「モノ」とはどのようなものなのでしょうか。

物質であって物質以上のもの。物の怪(モノノケ)のモノ。幽霊じゃなくて妖怪だ、なんて書きましたが、いったい何でしょうね……(笑)

例えばこの写真【写真1】は『東京パンデミック』の冒頭に載せた写真ですが、これだと「モノ」の含意を言葉にしやすいかもしれません。これはいわゆる「寄り物」、漂流物ですね。城南島という東京湾の南端に浮ぶ人工島に、台風か何かで流れ着いた、それは見事な木の塊でした。異界から意図せずして届けられた、異物としての贈り物。海という自然、異界からやってきたモノが、ある日、人工の大地に贈り物として届けられた。それ自体はただの物質なんだけれども、人工性の集積である都市へ、自然という「向こう」側からやってきて、「向こう」側の何がしかを人間に伝える、たんなる物質以上の贈与物。

ちなみにこれは本にも書きましたが、「むこう」という言葉の語根には「むかし」、昔ですね、があるそうです。「むかし」は、物理的な過去をあらわす「いにしえ」とはちがって、まさに「向こう」からやってくる。夢やモノ語りや昔話のように、人間がコントロールするすることのできない「向こう」から、期せずしてやってくるものです。そういう意味では、モノというのは自然そのものである、と言っていいのかもしれません。人間の意図を超えた、人間がつくることのできないものとしての自然、その何たるかを人間に伝えるモノ。

写真1 2020 年1 月29 日
大田区城南島、城南島海浜公園

少し前に『東京パンデミック』の刊行記念イベントで、文化人類学者の今福龍太⁷さんと対話させていただきました。その時「モノ」について、今福さんがとても刺激的な話をして下さいました。今福さんが長年通われている、沖縄や奄美で聞き取りをされた時のお話です。われわれのように、概念語で考える習慣を身につけた人間は、「憲法(Constitution)」という言葉から何らかのイメージをつかむことができます。そしてこうした言葉から、たとえば「自由」や「平等」といった抽象的なことを考えたり、それをもとに行動することもできる。

しかし、沖縄や奄美の人々にとっては、もちろん十把一絡げにそういうのではありませんが、憲法という概念語は、端的に言って、生きられていない。自分たちの生活を左右するようなものとしては存在していない。そこで今福さんは、彼らにとって「憲法」に匹敵するものはあるのか、あるとすればそれは何なのかを尋ねてまわったそうです。いわば「憲法」を言い替えていく、すると何になるのかを聞いていった。そして、紆余曲折あって出てきた言葉が「ムン知らせ」という言葉だったそうです。「ムン」というのは沖縄では「モノ」という意味です。私たちも「ものの知らせ」と言いますが、ちょっとニュアンスはちがっていて、例えば「ムン知らせの水」とか「水のムン知らせ」とかいうように使われる。

河川のほとんどない奄美の島々では、降った水が大地に浸透して、地下の珊瑚層に溜まり、そこから水を汲み上げて生活する。だから水の存在は決定的に重要で、水のあるところに人が集まり、集落が出来る。水は恵みをもたらすし、もちろん悪さもする。悪さというのも、われわれが言うところの「災害」とは、やはり少しニュアンスがちがうと思います。そういう自分たちの生活する世界の秩序が書き込まれたムンすなわちモノとして、水があるというのです。それを「ムン知らせの水」とか「水のムン知らせ」とかいう。人間だけにとどまらない、世界全体を律する理(ことわり)が書き込まれた、抽象かつ具体のモノ=ムン。憲法を言い替えていくとモノになる、というのは、聞いて私も興奮しました。「憲法」がわれわれにとっていかなるものであるべきかを、強く考えさせます。

だから、この流れ着いた木の塊も受けとめ方によっては、まさにそのような「モノ」となりうる。もっといえば、建築物という人間がつくったものでさえも、たとえば使い込んでいくなかで、あるいは廃墟になって、ある閾(いき)を超えて、そういった「モノ」になる、それこそ化けていく可能性があるのだと私は思っています。それは、物質であって物質以上で、そこには自分たちの生活を律してくれる筋道が書き込まれている。だから「モノ語り」というのは、人間が主体的に、声高に主張するものではさらさらなく、「ムン」あるいは「モノ」を受けとめて、そこに書き込まれている理(ことわり)を謙虚に読み取り、書き出していくべきものだと思います。そしてそれは半ば以上は受動的な事態で、先ほどの写真というメディウムの特質とも響き合うものではないかと思います。

 

ーー建築物でさえも自然を媒介する「モノ」となりうる、ということですが、山岸さんにとっての建築とはどのようなものでしょうか。

建築が撮れた、という強い実感をもつに至った写真を2点挙げます。

写真2 2011 年5 月1 日、岩手県宮古市田老野原

これは2011年5月に東北で撮った写真です【写真2】。津波被災後間もない岩手の沿岸部、宮古市の田老という場所です。東北地方太平洋沿岸部を継続的に撮影する以前は、主に東京で仕事をしていました。当時、建築写真や建築そのもののあり方に強い疑問をもっていました。東京にはあらゆる種類の建築物が林立していますが、それらの人工物は「人工性のための人工性」のなかで自閉していると思われてなりませんでした。そんなときにこの写真にあるような光景に出会って、何か吹っ切れたような、清々しいような気持ちになった。建築という人工性が、それが真に向かうべきもの、すなわち「自然」と正しく向かい合っている。植物が太陽に向かうように、建築という人工性が自然に向かっている。その底の抜けたような健康さに感動しました。この写真がなければ、その後の9年間、東北に通いつづけることはなかったと断言できます。

写真3 2010 年4 月6 日、「森山邸」

もう一枚は2010年に撮った、西沢立衛⁸さん設計の「森山邸」の写真です【写真3】。これは「田老」の写真より以前に撮影したものですし、いわば「平時」の写真ですが、この2つの写真は相通ずるというか、たがいに響き合うものとして私にはあります。

基本的に建築というのは統合していくというか、コントロールしていく技術だと思うのですが、この「森山邸」という建築物はむしろ逆に、場をアナーキーなものに開いていくというか、コントロールできないものを露わにするというか、そんな野生的な、ほとんど獰猛といっていい感じがあります。誤解なきように急いで付け加えますが、もちろんこの建築はきわめて秩序立った作品であって、ここに佇んで時を過ごすと、私はいつも身体全体で多幸感さえ覚えます。だからこの建築作品が統合されてないとかそういう意味ではまったくありません。そうではなく、アナーキーなものに場を開くとか、コントロールできないものを露わにするというのは、私の言葉でいえば「自然」ということです。「森山邸」という一つの建築すなわち人工物が、東京において、人工物で埋め尽くされた東京において、「東京の自然」をあたらしく創り出した。「人工性のための人工性」のなかで自閉しているかの東京に、この建築物が置かれることで、あたらしく「都市の自然」という概念を創造した。その感じが、この写真で撮れた、というかこの写真を見て、そんなことを考えるに至りました。これも私にとって、とても大切な写真です。

 

ーー山岸さんはこのようないわゆる建築スケールの写真だけでなく、ディテールレベルから、都市スケールまで幅広いスケールで写真を撮られています。「人工的な力と自然の力関係」を撮ることと、山岸さんの作品のなかに様々なスケールがあらわれることは関係しているのでしょうか。

私はすべての写真において「人工性と自然の力の関係性」、その界面をこそ扱っているつもりです。写真をはじめたころは、いわゆる風景写真を撮っていたわけです。そういう写真って、前景中景後景じゃないけど、画面のなかに距離感のレイヤーがあるわけですね。一方でいわゆる建築写真のような写真は、これを撮ってます、という明白な対象すなわちオブジェクトがはっきりしている。だから距離感が一定している、あるいは単一です。そうしたスケールの異なる二種類の写真は、両立できないのだと考えていました。つまり、例えば展示をするときなど、両者を並べても共存しない、やっぱりスケールがちがう写真はどちらか一方を外さないと上手くいかないのだと考えていた。でも風景を受けとめる実感からすれば、成立しないのはやはり自分の写真がおかしいのだ、とも考えていた。

建築物単体、土木的な風景、都市の全体、人間のいる近景など、ことなるスケールの写真を同じ写真として等価に扱えるようになったのは、やはり2011年の震災以降だと思います。その時に自分は風景そのものというより、一段抽象度の高い、力の関係性こそを見ているのだと気付きました。つまり「被災」とか「復興」ではなくて、風景にあらわれる人工性と自然の力の関係性ですね。こういった「関係」性からすれば、遠いも近いも、大きいも小さいも問題ではなくなって、いわばスケールレスになる。写真の見方が、写真に写っているものそのものというより、その力の「関係」という、ロジカルタイプの一つ高い話になる。だから実際写っているもののスケールは背景に退く。

 

建築空間をどのように撮るのか

ーー建築写真家として建築家と共に仕事をする際に、意識していることはありますか。

建築家と協働する上では、もちろん、まずは建築家の設計の意図を尊重します。その上で、建築物は建築家の意図のみで出来上がるのではないし、ある特定の個別具体的な場所に建ち上がるものですから、そうした設計意図以外のものもひっくるめて写真に定着させたいと思っています。あらゆる意図や要素を、どれか一つだけ突出させることのないやり方で、建築のかたちも、かたちに流れ込むものも、そこから生ずる場の雰囲気もまるごと写真に定着できたら素晴らしいですね。そしてそんな写真を建築家に見せて、これこそ自分が設計した建築だ、と言ってくれたら嬉しいですね。もちろん「建築写真」なんだけれども、撮った写真を例えば建築業界の外にいる人に見せても驚いてもらえるような、そういう写真になるよう心がけています。「カッコいい建築の写真だね、キレイだね」だけでは、私としては満足できないですね。

その上で、建築家が設計した建築作品を撮る場合は、その建築での空間経験とパラレルな、平行するような「イメージの経験」を、写真作品としてつくりあげたいとも考えています。

 

ーー建築空間と同じような経験を写真で構築するということですが、そのように撮影された作品をご紹介いただけますか。

これは西片建築設計事務所⁹による「淡路町の家」を撮った写真【写真4】です。敷地面積八坪の、とても小さなこの住宅では、建物の真ん中にある階段室を介して、各層2部屋、計8つの小さな部屋が積層しています。各部屋はおおよそ同じ大きさ、同じ仕様でデザインされながら、開口部の位置や壁の傾き、天井の高さなどによって明確に差異づけられています。一つの主題が8回、ズレを孕みながら変奏されていくようにして設計されている。

だからこの建築作品の空間経験においては、ある部屋にいると、そこにある差異=しるしに導かれて、かつていた他の部屋が想起されてきて、意識の上での行ったり来たりをくりかえすことになる。設計者は「同時に行けない場所」と、とても興味深い言い方をしていましたが、「同時に行けない」からこそ意識の上で反省的に、空間の経験的な「広がり」が形成され、それは実際の部屋の「広さ」の感覚を超えていく。

これらの写真は、設計者がしるしづけた、そうしたかたちのルールをそのままなぞるようにして撮影しています。そしてそれら一つひとつの部屋を、一挙に全体として撮るのではなく、差異=しるしづけられた特徴的な部分を、断片として撮っています。つまりよくあるように狭い部屋を超広角レンズでひと息に見せるというやり方ではありません。「部分以上、空間未満」くらいの断片を二枚一組にし、さらにその二枚組と他の二枚組を照らし合わせていく……というようなかたちで写真作品として提示しました。

今回、二枚組の写真を5セット用意しましたが、このように個々の組み合わせを、そして組み合わせの組み合わせを眺めていくと、たとえば額縁が開口部のように見えてきたり、テキスタイルが窓外の緑と連動するように見えてきます。設計者の意図したしるしに導かれて、建物の外部や居住者の家具調度や装飾までもが重なり合い、その重なりのイメージ経験と、空間の経験がパラレルに進行していく。そんな写真作品を目指しました。

写真4 「淡路町の家」(設計:西片建築設計事務所)

2つ目の例が鈴木了二さんの住宅です。

ーーこの写真をはじめ、山岸さんの建築写真にはパノラマが多く用いられていますよね。

はい。実はこの住宅は2回撮影しています。この写真【写真5】は2回目のものです。最初はこの住宅を4×5(シノゴ)のフォーマットで撮影していたのですが、どうもうまくいかなかった。この建築は、あけっぴろげともいえるような漠とした大きさと繊細につくりこまれた細部、あるいは漠たる大きさゆえのフラットな明るさと暗闇、のような通常相容れないものが同時に存在していて、撮影しているときの一方の実感がのちのち裏切られていくような、曰く言いがたい空間経験でした。ぼやっとしてつかみどころがないと同時に細部が際立ってくる。あるいは体を包み込むような過剰な明るさに、差し込んでくるような暗さが、ふいにやってくる。

そんなわけで通常フォーマットのフィルムで撮影した1回目は、なんだかたんにぼやっとした、つかみどころのない写真になってしまった。で、いろいろ考えた挙句、6×12(ロクイチニ)というパノラマフォーマットのフィルムで撮影してみることにしました。このフォーマットだと画面の上下が暴力的にカットされてしまうわけですが、すると茫漠たる空間の手前に唐突にディテールが大きくあらわれたり、満面の明るさの一隅に漆黒の暗部が明滅するようにして見えてきた。いってみれば、反省的な意識の上でのみ同時に存在したものが、フィルムの上でもきちんと存在できるようになった。これで撮れるな、とすぐに分かりましたね。

写真5 「物質試行48 西麻布の住宅」(設計:鈴木了二建築計画事務所)

 

ーー山岸さんは建築写真を撮っていて、どのような建築が面白いと感じていますか?

うーん、難しいですね……。基本的には今言ったように、個々の建築物に即してしかお答えできません。ただ、いみじくも2つのご質問に2つのやり方で、具体例を挙げてお答えしたように、私の建築写真には2つの系列があるのではないかとも思っています。

先の「田老」や「森山邸」などの写真は、まさに「人工性と自然の力関係」を扱う系列。やり取りされるエネルギーが大きい。対「世界」といっていいかもしれません。

もう一方は、それに対して、対「社会」的なもの。制度的なものを扱う系列というのか、建築なのか建築家なのか分かりませんが、それらの制度、社会的なものの平面の上で、そのゲームを組み替えていくようなやり方。エネルギーの移動は、前者に比較して、さほど大きくない。

対「世界」とか対「社会」とかいうのは、画家のポール・セザンヌをモデルにしてよく考えるからです。セザンヌは一方でルーヴル美術館にひたすら通いつめて、それまでの巨匠たちが築きあげた絵画の約束事、形式的なことを猛勉強する。しかしもう一方で彼にはサント・ヴィクトワール山という、彼にとってはどうにもいかんともしがたい、動かしようのない山すなわち「自然」が厳然と在る。その「異質さ」に挑むようにして、彼はひたすらもがきながら、それを描きつづける。セザンヌにとってルーヴルが「社会」だとすれば、サント・ヴィクトワール山は「世界」。前者が水平軸でのやり取りだとすると、後者は垂直軸的といえる。

対「世界」と対「社会」は、両方共になければならないものです。ただ、現在は「社会」的なものがやけに声高ですから、「世界」的なものに振り切ってしまいたい、そうすべきだという思いもある。また、さきほどお話したカメラというものは、対「世界」にこそ有効だという気もします。

ほとんど思いつきの比喩です。答えにまったくなっていなくてすいません……。

 

ーー建築家のつくる建築を撮るときに、他に意識されていることはありますか?

その建築について知り過ぎないことでしょうか。もちろん、図面を見たり、下見したりもしますが、作品へのリテラシーを事前に、過度にもたないようにはしています。それこそ建築家の設計意図を把握し過ぎると、それをイラストレートするだけの写真になりかねない。一方で建築家の意図を読めないと、それはそれで仕事になりません。半分理解して、半分白紙のような体勢で、現場で向き合ったときの感じ方や身体の反応を大切にしています。どちらかといえばアタマより、カラダのほうを、感覚を信頼しています。

 

ーーそのような態度は『東京パンデミック』でも書かれていた、「都市に対してストレンジャーでありたい」という態度とリンクしているのでしょうか。

そう思います。東京という都市に対しては特にそうですね。私にとっては、もう中学生のころから、さんざん見知ったまちですから、ストレンジャーあるいは「異人になる」とも書きましたが、そういう立ち位置に意識的に身を置かない限り、東京で写真を撮るなんてことは難しいと思っています。実際、ほとんど撮れません(笑)

同じように個々の建築物についても、設計のこととか、建築家をめぐるリテラシーが突出してしまうと、どれも同じような写真にしかならないのではないかと思っています。以前、2010年から2年間、日本建築学会の会誌である『建築雑誌』の編集委員を、会員でもないのに、恐れ多くも拝命しました。そのとき、一つの建築物に、人間の学と術の膨大な蓄積がいかに流れ込んでいるかを垣間見て、圧倒されました。それまでは私自身も、やはり「建築=建築家」的な等式で考えていたように思います。編集委員長の中谷礼仁先生が、建築というのは雑多なものをあまねく受けとめる器である、というようなことをおっしゃってました。まさにそうしたものをまるごとごっそり生け捕りし、見る人がそこから、建築の豊かさを様々に読み込むことができるような、そうした建築写真でありたいと思います。

 

東京を撮っていてーオリンピックとパンデミックー

ーーコロナ禍によって写真の撮り方などに変化はありましたか。

基本的に変化はありません。さきほども申しましたが、写真はやはり具体的な個物を、あるいはモノに即してしか撮ることができません。もちろん震災、原発事故そしてパンデミック以後、同じ写真が以前とはちがう読まれ方をされるということは大いにありえますが。

写真6 2021 年6 月25 日、中央区築地、築地市場跡、東京都築地ワクチン接種センター

『東京パンデミック』刊行以後、引き続き取り組んでいる東京の写真をご紹介します。まずこれは2021年6月25日に撮影した築地の写真です【写真6】。この写真の画面左手をさらに南下していくと、オリンピック選手村に行き着きます。選手村と都心部を直線でつなぐべく、築地市場は取り壊されたわけです。当時、この築地市場跡の巨大な空き地は、新型コロナウイルスのワクチンの大規模接種会場になっていました。先の本でも「東京オリンピック・パラリンピック」に「パンデミック」を添えて、「トーキョー、オリンピック、パラリンピック、パンデミック」と韻を踏むようにして書きましたが、まさにこの写真では、オリンピックという祝祭とパンデミックという疫病が、トーキョーという都市で出会っている。

私が本でそんな風に韻を踏んで読んだのは、2020年の8月に品川の「日本財団パラアリーナ」という東京オリンピック関連施設の駐車場が、コロナ感染者の療養用のプレファブ小屋で埋め尽くされている光景を見てのことでした。このとき私は、オリンピックに関するさしたる背景知識もなく直観で、このように韻を踏んで言葉にしたわけです。しかし、これも先の今福龍太さんと対談した時に教えていただいたのですが、古代ギリシャにおいて、都市アテネで原初、オリンピックという祝祭が執り行われた背景には、トロイア戦争の戦没者を弔うと共に、どうやら疫病すなわちパンデミックがあったということでした。つまり都市において、オリンピックとパンデミックが出会うのは、ほとんど必然と言ってもいいのではないか。トーキョーで、オリンピックとパンデミックは2021年、出会うべくして出会ったのではないか。東京オリンピックをひと月後に控えたこのとき、築地市場跡を見下ろす駐車場の最上階でこの光景を見て、私は思わず身震いしました。今ここの、この東京が、都市というものの根源的な、ほとんど神話的な時間に触れているのを目にしているようで、思わず震えたのです。

その意味では、この「トーキョー、オリンピック、パラリンピック、パンデミック」に決定的に欠けているのは死者たちであるといえます。2011年3月の震災であるとか、新型コロナのパンデミックによる死者の追悼という卑近かつ具体的なことをいっているのではありません。東京という、すべてをコントロールし尽くそうとする都市には、死者という他者あるいは死という自然が欠落しているように思われるのです。

写真7 2021 年5 月29 日、江東区海の森

もう一枚のこの写真【写真7】は、東京を南の端から見返した、いわば東京の全景です。画面奥に林立する東京の建築群の手前の、この海の面(おもて)のざわめきとひしめきを見てください。これこそが「モノ」だと思います。この波立つ表面、この震えに目を凝らすと、この都市が排除してきた死者たちの声が聞こえてくるように思われるのです。これこそが「モノ語り」を聴く、ということだと思います。この二枚の写真は、11月から、東京の赤坂で大きくプリントして展示¹⁰する予定ですので、ぜひ実物を見てください。

 

ーーどちらの写真も震えるような光景です。このような体験は肉眼では得られませんよね。

私もこの写真を仕上げて、紙にプリントした時には思わず息を呑みました。写真はexpressではないと言いましたが、写真はやはり、あとで驚くんですね。もちろん撮影をしているときはこの光景に反応して夢中で撮るんですが、そのあとで、プリントして、写真をモノとして眺めたとき、そこに在るものに、はじめてのように驚きます。

 

都市の自然、コントロールされる都市

ーー昨今、環境技術が発展して、緑化をした建築などもよく見かけるようになりました。それらもある意味では自然といえるのでしょうか。山岸さんにとっての自然とはどのようなものか、お聞かせください。

専門的なことは分かりません。たしかにオフィスビルや商業施設で植物や植栽が溢れ返っているのをよく見かけます。だけどこれらはすべて、人間によってつくられたもの、人間のためにつくられたものですよね。つまり、人間のための自然。人間によって、人間が意図して、人間が計画してつくった自然。既に馴致された、コントロールされた自然です。その意味では、都市ではあらゆるものがことごとく人工物であって、自然でさえも人間がつくったものだといえる。だから反対に「自然とは何か」と問われたら、山川草木といった文字通りの自然物ではもはやなく、人間が意図してつくったのではないもの、人間が意識的につくったのではないもの、計画してつくられたのではないもの、それを「自然」というべきではないでしょうか。

人工性と自然の力関係を撮る、なんて言ってたら、東京に自然なんてないわけです。自然でさえも、人間によってつくられていた。すべて、あらゆるものが、人間が目的をもって、意図してつくったものになっていた。それしか存在していない、というか存在を許されないような場所になっていた。だから、いわゆる山川草木といった「自然」ではないようなやり方で、「自然」を定義し直さなければならないと思っています。

 

ーー人工性のための自然というと、庭園のようにコントロールされた自然は昔からありますよね。そのようなものに対してはどうお考えですか。

もちろん、自然をコントロールすることすべてを否定するわけではありません。それを否定したら、人間の生活はそもそも成り立ちません。建築物に植物がたくさんあるのも素晴らしいことだと思います。私自身、植物が大好きで、自宅でたくさん丹精込めて愛でています(笑)。だから大事なのは、人工性と自然の力関係、そのバランス、つまり力の「均衡点」ではないでしょうか。おっしゃった庭園がいいものだと感じるとしたら、それはそこでの人工性と自然の力関係、その力の「均衡点」がいい具合になっている、だから心地いい、ということなのだと思います。そしてさまざまな場所で、その場特有の「均衡点」があるのだし、もっといえば、その「均衡点」はフィックスしたものではなく、動いていくものなのだと思います。

植物でてんこ盛りの商業施設などを含む、今の東京の風景は、その均衡点が「人工性」に振り切れているように思います。つまりすべてを人工的にコントロールし尽くそうとしていて、それが私にはとても窮屈に感じます。そういう意味では、今私が東京中を車で走り回って風景を精査しているのは、この力の「均衡点」を動かしていくような、よりいいところに動かしていくような、そうした可能性を孕んだ風景を見いだすべく仕事をしているのだと思いました。

 

ーー他の都市、例えば京都はどうでしょうか。

以前京都に滞在したとき、友人のお宅にしばらく泊めてもらいました。時間があるときはそこから周辺をずいぶん散歩しました。すると住宅地で唐突に、名前を聞いたこともないような、かつての天皇のお墓に出食わしたんですね。それもけっこうな数で出食わした。さらにそれは具体的な死者ですらなく、ほとんど神話的な人物が埋葬されている墓なわけです。まちをフラフラしていると、いきなり「古代的」なものがヌッとあらわれて、面食らった。今の東京じゃちょっと考えられない。東京の風景ががんじがらめにコントロールされていて窮屈だと言いましたが、この京都の天皇の墓から考えると、東京にはひたすら「現在」しかない、ともいえるかもしれません。なんだかわけの分からないもの、手の届かないもの、さきほどの「向こう=むかし」じゃないですが、そういったものの手触りがあるほうが、やはりまちとして健康だと思います。

 

ーーそのような自然との良いバランスを築くためには、どのように都市と付き合っていくべきなのでしょうか。

地震や津波、目下のパンデミックといったいわゆる非常時でなくとも、平時の日常的な風景のなかに、さきほど言った意味での「自然」は在るのだと思います。

写真8 2020 年7 月12 日、江東区海の森

この写真【写真8】では、ごく日常的な風景のなかに、不定形な塊が転がっています。実際には、ただのアスファルトの残骸です。人間の意図で隙間なく、計画にあまねく貫かれたこの都市に、意図のまるでない、目的のない、「できちゃった」アモルフな、無意識の塊がゴロンと投げ出されるようにして在る。なんてことはない光景です。たいした写真とも思えない。が、私たちはこうしたモノに、今さらのように驚いて、目を瞠るべきだと思います。「自然」に意図はありません。目的もない。ただ、存在している。でもそれが、面白い。いま人間がつくるものより、よっぽど面白い。そしてそうしたモノが世界にはごまんと在ることを、都市はほとんど忘れようとしている。そうしたモノに驚き、さらにいえば、ある程度それを放ってお​く。コントロールし尽くそうとしない。そのくらいの度量の大きさ、もっとおおらかな「構え」みたいなもの。ある種の「諦念」といってもいい。そうしたものを取り戻す必要があるのではないでしょうか。

よくよく考えれば、人間も自然そのものなわけです。どうしたって病気になるし、自分の身体は自分ではいかんともしがたい。自分の身体は自分で意図してつくれない。自分の身体は、結果「できちゃった」ものなわけです。そして、どうあがいたって死ぬ。私はかつて、人工性と自然が「対峙する」という言い方をしていましたが、浅はかでした。そんな風に截然(せつぜん)と分けられるものではない。人工性と自然の力関係を見極めながら、その界面を探りながら、目を凝らさなければいけないのは、人間の「内なる自然」であると考えています。

【注釈】
  1. 私写真 : 撮影者の私生活を題材として、プライヴェートな出来事を感傷的に写す写真のこと。荒木経惟の『センチメンタルな旅』(1971)などに代表される。
  2. 鈴木了二 : 建築家。主な建築作品に「佐木島プロジェクト」(1996、日本建築学会賞)、「金刀比羅宮プロジェクト」(2004、村野藤吾賞)など。
  3. 4×5(シノゴ): 4インチ×5インチのシートフィルムを用いた大判カメラ。大判カメラの中でも最も一般的に使用される。
  4. 畠山直哉 :写真家。 自然・都市・写真の関わり合いに主眼をおいた作品を製作。代表作に、『LIME WORKS』(1996)など。
  5. 二川幸夫 : 建築写真家、建築批評家。出版社「A.D.A.EDITA Tokyo」を設立し、建築専門誌『GA JAPAN』などを発行。
  6. 論評 : https://www.tokyo-np.co.jp/article/105852
  7. 今福龍太: 文化人類学者、批評家。クレオール文化研究の第一人者。著書に『群島―世界論』(2008)『小さな夜をこえて』(2019)など多数。
  8. 西沢立衛: 建築家。妹島和世とのユニットSANAAとしてプリツカー賞受賞(2010)。代表作「森山邸」(2005)、「豊島美術館」(2010)など。
  9. 西片建築設計事務所: 2000年、小野弘人・西尾玲子・森昌樹によって東京に設立された建築設計事務所。
  10. 東京赤坂にて出版記念展示を開催中: https://littlehouse.tokyo/exhibition.html

山岸剛 Takeshi YAMAGISHI

Takeshi YAMAGISHI, born in 1976, is an architectural photographer. He studied at the Faculty of Political Science and Economics and the Department of Spatial Imaging at Waseda University. He reflects upon human nature through architectural photography, by observing and recording the power struggle between buildings as the manifestation of artificiality, and the nature which confronts it. He was a member of the Editorial Committee of the Journal of Architecture and Building Science and the Journal of the Architectural Institute of Japan (2010-11), and was the photography director of the Japanese Pavilion Team at the 14th International Architecture Exhibition of the Venice Biennale in 2014. He is the author of “Tohoku Lost, Left, Found” (LIXIL Publishing). His recent publications include “Tokyo Pandemic: The Rise and Fall of a City Captured by Photography” (Waseda University Press).

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