未完結の美|竹山 聖
― イオンの状態
あくまでもメタフォアであるが、イオン化傾向の高さ、ということに、当時の私は建築の可能性を見ていた。イオン化傾向の高い建築。あるいは建築的エレメント。それは完結した状態でなく、未完結な状態であるべきだ、と。一つひとつの建築的エレメントが未完結であれば、それを補完するべく関係の触手とでもいった引力斥力の作用状況が生み出され、ひいてはそれが都市における建築の予定調和なき調和、実り多い関係のネットワークが生まれるのではないか、と。一つひとつが完結した建築が、ブツ切れで立ち並ぶ風景でなく、お互いに関係の触手を伸ばしあって、あるいは余白を共有しあって、緩やかな連帯を、それも各自の自由は保持されたままの連帯を、実現しうるのではないか、と。
他者と他者が共存しうるのは、さらには結びつき合えるのは、お互いに欠落があればこそだ。原子が結びついて分子となるには、原子が一つ二つ電子を失ったり得たりして不安定な状態になるからであり、その電気的なプラスとマイナスによって結びつく。イオンの状態となってはじめて比較的安定した関係が生まれる。単体の建築は、欠落を持たねばならない。あるいは大規模な建築は、欠落や余白によって関係づけられねばならない。どこにも属さぬ場所、領域を超える場所によって結び合わされる部分の集積、重合としての総体、「超領域構想」はそうした空間認識から生み出されたものだった。槇文彦の「グループフォーム」を知ったのもそのころで、意を強くしたものだ。そして私は私で1989年に東京の「ギャラリー間」で開いた個展において、「不連続都市ゲーム」という模型によるプロジェクトを製作して、都市における、変わるもの/変わらないもの、移動するもの/とどまるもの、の関係を構想してみた(図1不連続都市ゲーム)。たとえばベース、ボディ、トップという三つの建築的エレメントにより構成された建築模型が、マグネットにより鉄板の地にくっつけられる。それらは移動可能で、いわば変わるもの、移動するもの、だ。それらを載せる大地は、緑と水という自然的エレメントによってあらかじめ条件づけられ、そこに大規模な土木的スケールの建築的エレメントが介入し、分割されつつ連結される。鉄板に転写された下図は東京中心部を切り取ったものだったから、その分割は山の手と下町であったり、連結は隅田川の西と東であったりする。自然的エレメントは、変わらないもの、とどまるもの、だ。海沿い川沿い緑沿い。
円という完璧な形をあえてスライスして用いる、という試みもそのような仮説的な展望に根ざした設計であって、OXY(1987)や D-Hotel(1989)など、初期の作品の多くに見られる。2003年に完成した北野高校の同窓会館では、円どころか球体をスライスする、という立体的な試みを行っている。
欠けた月への想像力を暗示するような「未完結なオブジェ」と題されたコンセプトモデルは、円という完璧な形への憧れと断念、むしろ積極的な断念を表現している(図2未完結なオブジェ)。欠落に、余白に、想像力は感応する。
― 抵抗の形式
建築は世界を構想したり収容したりすることができるスケールを有するメディアだが、そこを訪れる他者の介在は排斥できない。というよりむしろ積極的に導入すべきであるし、応答すべきでもある。他者の訪れを祝福するところにこそ、建築の喜びは、ある。
この他者というのは自然である。光であり風であり雨であり雪であり、月であり花であり、そして地形である。建築は他者に対する抵抗の形式だ。いうまでもなく、この抵抗というのは、電気回路の抵抗のようなもので、主体は流れる電気である。建築の場合、自然的エレメントであり、光、風、水、風景であって、さらには人だ。建築はそうした流れを制御する抵抗の回路だ。そのような意味で抵抗の形式、と言っている。排除の形式では、さらさらない。
そうした他者たちを喜びをもって受け入れるためには、欠落が要る。孔が、開口部が、窓が、扉が要る。呼吸が止まれば生命体は死ぬ。建築は生命体ではないけれど、生命体のメタフォアは意味があると思う。生命体のような建築でありたいとも思う。そして、生命体は、他者との関係を絶たれれば、死ぬしかないのだ。
生命は循環の中にあってはじめて生存する。循環が絶たれれば、死だ。流れのなかにあって、生命活動は継続する。生命体を維持し、形成する諸器官は、流れに対する抵抗の形式として働く。食道は咀嚼された食べ物を方向づけつつ運び、胃はこれを一定期間とどめつつ消化に努める。小腸、大腸などを経て、最終的に排泄される流れは、それがすみやかにすこやかに遂行されてはじめて、活力は維持される。見事な建築群ではないか。血液や神経系を走る情報や、呼吸器系なども、同様。生命体もまた、流れのなかにあってこれを整序する抵抗の形式である。流れるものととどまるものが一体となって生命現象を誘導している。
― 生命体
折に触れてコンセプトドローイングを描いてきた。2006年に東京の青山で個展を行なったときメインテーマを表すドローイングは、三つの不定形な孔の空いた青い形が互いの関係を意識しつつ浮遊している。展覧会は「WINWINWIN」と名づけられ、このドローイングは「WINWINWIN SUKITOORE」と命名された。孔は欠落である。孔が空いているから、孔は感覚器官でもあり管でもありうるから、つまり循環を促しているから、この形は生命体を表していて、ひとつがWIN、ふたつでWINWIN、みっつならWINWINWIN。それらが単体でなく集合して生存する。つまり他者との関係のさなかに競合と依存と連携を紡ぎ出す(図3WINWINWIN SUKITOORE)。つまるところ、世界は要素と関係でできている。要素の多彩と関係の無限とによって、世界の豊饒と多様がもたらされる。私たちの喜びと驚きの源泉である。
生命体が世界を認識し始めた時、その意識および無意識に投影された空間的欠落が運動を生み、心理的欠落が欲望を生み、生命体の物理的欠落が感覚を司り、循環をもたらし、成長を促した。世界は不均質な傾斜と変化に満ちていて、私たちはそのさなかに、そのつどなんらかの美のありようを見出しては心の安寧と生命の活力を得てきた。変容は常に訪れ、その都度私たちの祖先たちは新たな美学を見出してきたのだ。そのことによって歴史もまた可能となった。変化のないところに歴史はない。完璧な存在に歴史は必要ないのだ。
地球にとって人類という生命体がいてもいなくても、何らその存在形式は変わらないだろう。地球の営みは太陽の活動とエネルギーの放射によって、そして宇宙から訪れるさまざまな物体や波によって、決定されている。地球自体の質量と運動によって、その生涯は決定されている。人間はそんな地球のそこここを掘ったり削ったり積み上げたりしながら、鉄にせよ石にせよ木にせよ土にせよ、地球にある素材によって、自らの居場所を作っている。しかしそれは地球に欠落をもたらす行為ではない。そのようなおこがましいことはできない。
欠落を喜ぶのはむしろ人間である。生命である。生命体は常に傾斜のなかにあるからである。不均質の流れと傾きのなかにあるからである。気候の変動のなかにあるからである。
宇宙や地球という傾斜と変化と運動と不均質のさなかに、すなわち欠落の集積のさなかに、人間は生の営みを続けている。そのことの喜びと怖れと驚きをこそ刻み込み、味わう美学を、生み出してゆかねばならない。