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建仁寺塔頭両足院 副住職・伊藤東凌 建築史家・井上章一|失われるもの、遺すもの

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1966年の七条通と下京一帯2)

 

建築史家 井上章一氏に聞く

 

― 日本の街並みの系譜

—現在と比べると近代以前には、例えば京都では京町家がずらっと並ぶような、統一感の強い街並みが維持されていましたが、これにはどのような要因があるのでしょうか。

井上—江戸時代には、家作制限という決まりがありました。幕府が設けていた、建築についての統制令です。まちによって若干差はあったと思いますが、多くのまちで街並みは事実上統制されていました。特にお商売をする町家や町方は、2階建てより高いものを建てることが認められませんでした。その2階も、表側では虫籠窓にすることを強いられました。侍を商人風情が見下ろすなどということはあってはならないという、一種の身分意識がそうさせました。

 例えば直轄地の江戸では、ここは商人の居住区、ここは武家の居住区と、街区が分けられたんですね。そのため、ひとつの居住区には、いくらかズレはあるけれども、だいたい同じデザインの建物が並ぶこととなります。幕府に美しい景観をつくろうという意欲があったと私は思いません。幕府にあったのは身分のわきまえを、身の程を知らせるということだったと思います。だから住友とか三井でもそういう制限の下で自分の店をこしらえたんですよ。今のまちなかでいちばん大きい建物を建てるのは間違えなくブルジョワジーです。金融オフィスなどがいちばん立派なビルをこしらえます。こんなこと、江戸時代ではあり得ないです。まちの金貸し風情がなにを傲慢な振る舞いに出ているのだ、と江戸幕府なら考えたでしょう。決定的なのは、明治維新の四民平等政策によって、身分秩序に関するこだわりがなくなったことです。そのおかげで商人たちは建築的な自意識に目覚めるんですよ。もう幕府の統制はない。自分はこんなふうに店を構えたい。そう考える商人たちによって、どんどん街並みの統一感は崩れていきます。このとき、ある種のブルジョワ革命が起こったんだと私は思っています。フランス革命の前後でこういう建築史の変化はありません。だからフランス革命以上に明治維新のほうが、少なくとも建築の見た目を見れば、変革は急進的だったと私は考えています。

 

—ヨーロッパの建物は石造が多いのに対し、日本の建物は木造が多く、メンテナンスの文化とともに残ってきた部分もあると思います。日本において建物の寿命が短い中でどう残していくかはやはり難しい問題だと思います。

井上—石造と木造の問題にお答えします。確かに木造は寿命が短いです。だけど20世紀に入った頃から、都道府県庁舎はどこでも、石かレンガでこしらえるようになっているんです。その初代の石かレンガの庁舎をいまだに使い続けている自治体はほぼないです。東京都庁は4代目か5代目じゃないかな。それはフィレンツェでパラッツォ=ヴェッキオを700年保っている人たちと全然違うと思います。イタリアではけっこう地震が起こります。他人事ながら心配でもあるんだけど、このあいだの地震でアマトリーチャのまちがほぼ全壊したんです。だけど、アマトリーチャの人たちは前と同じものをつくりだしているんですよ。風景が変わることを嫌がっているんだね。

 

—統一された街並みには、木造で低層のものしかつくれないというような、当時の技術的な未発達さも影響していたのではないかと考えているのですが、その点についてはどのようにお考えでしょうか。

井上—豊臣秀吉が制圧していた大阪には3階建ての町家がありましたし、比較的背の高い蔵がそう多くはないけどありました。豊臣秀吉は成長するブルジョワの勢いを無下にはねつけようとはしなかったんだと思います。しかし、身分秩序を押し付けたのは、江戸幕府です。技術的に3階建てや4階建ては可能だったと思います。安土城は7階建てです。明治10年代の終わり頃には、大阪に9階建の木造建築ができています。技術的に木造だから2階建て以下にしなければいけないわけではなかったと思います。もちろん鉄筋コンクリートほどの強さはないんだけれども、2階建てで抑えられてきた歴史を木造だからという事情だけで語るわけにはいかないと思います。

 

—西陣には織物のコミュニティがあるように、地域ごとに特色ある産業があって、ある程度生業が統一されていたことが、街並みの統一感にも関わっているのではないかと思いました。そのように当時は職人や商人の生業のためにあった町家が、現在は観光用にカフェやホテルなどに代わっていくことがよくあると思います。

井上—一般的ないわゆる町家は、お店を出すように想定されています。でも、僕には西陣の職人住宅と、中京区辺りにある商人の家とは、パッと外から見ただけでは区別しきれないです。もし職業によって、家屋が大きな影響を受けるところがあるとすれば、それは間取りじゃないかな。家の中に入れば、これは機織り機のためにこういうふうにしているな、というのが見えてくると思うんだけれども、外から見る限り、そう顕著には見えないように思います。というか、いまでも外観で中の仕事ぶりが分かる建物はそんなにないんじゃないのかな。パチンコ屋とラブホテルははっきり外側だけでわかるけれども、他に何かありますか。

 

― 京都人の精神性とまち

—井上さんが著書で述べられているような、京都人の精神性とまちづくりの関係についてお聞きします。近代には、番組小学校を住民でお金を出しあってつくっていたと聞きますし、三条通辺りにある近代建築なども、かなり上質なものをつくろうという精神が感じられるのですが、これについてはどのようにお考えですか。

井上—いまはだいぶ見る影がないと思うけど、1920、30年代くらいまで、京都のブルジョワは本当にお金を持っていたんですよ。よく大正時代にあんなものをこしらえたなあと思うんだけれども、室町通の明倫小学校には、音楽の授業用に、ペトロフのグランドピアノが置いてあったんですよ。私は京都の嵯峨の小学校を卒業しましたが、嵯峨小学校にはたぶん、オルガンはありましたけどアップライトのピアノもなかったような気がします。だからやはりお金を持っていたんだなと思います。町の会所に集まって、町のことを決めるという、市民自治の伝統はあったと思いますし、それが働いたんでしょうね。

 京都人の精神について、祇園祭を例にとってお話しします。江戸時代の祇園祭をイメージしてください。ダークなトーンの町家が並んでいます。その道の真ん中を、赤やら黄色やら緑やら、原色と金色に彩られた、鉾や山が通っていくわけです。いちばん背の高いものは鉾なんですよ。いちばんカラフルなものも鉾であり山なんですよ。だけどいま、いちばん背が高いのは周りのビルですよね。いちばんカラフルとまではいわないけれども、つるつるしたピカピカしたビルが周りに建っているわけです。かつてと風景が違う。町衆の人たちは、後の祭りを復活して、伝統により忠実にやろうという気構えを示しているけれども、もうあのビル街ができた時点で、かつての祇園祭と同じ祭礼ではないと私は考えます。鉾と山のいちばん輝いていた時代は偲べないわけじゃないですか。だけど、そのことを一切気にしていないらしい町衆にあるのは、やはり利潤を求めるブルジョワ精神なんだろうなと思います。保守精神、つまり伝統を守ろうという気構えは、鉾と山とパレードにだけは向かうんだけれども、舞台背景である街並みに関しては興味を持っていないと思いますね。

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祇園祭と四条通の街並み(写真提供:新 靖雄)

 

― 伝統の保存と更新

—江戸時代のものをそのままそっくり再現しても、現代では全く違うものになっているという話だと思いますが、文化財などの修復についても、そのまま残していくという冷凍保存的手法では、テーマパーク化、オブジェ化してしまう問題もあると思います。

井上—おっしゃるような部分はあると思いますね。いま、パリで問題になっているノートルダム寺院の焼ける前の姿だって、19世紀の終わりごろに改変されたものです。古くからのノートルダム寺院がそのまま残っているわけではないし、ヴィオレ=ル=デュクの思い描いた中世を投影している部分はあると思います。いまの祇園祭の鉾と山だって、最近よみがえらせたものもけっこうあるんだけれど、おそらくどれをとっても、江戸時代の鉾や山よりゴージャスになっていると思います。可能な範囲でいちばん立派そうなもの選んでいるんでしょう。だから、本当に数百年間冷凍保存するという保存のあり方はあり得ないですよね。そりゃ変わっていくもんだと思います。伊勢神宮だって、遷宮ごとに変更はあると思いますよ。

 京都の洛中の人たちは300年、400年続いた商いを保っていらっしゃいます。しきたりや習わしにうんざりすることもあるだろうし、近所づきあいも煩わしいでしょうね。古くからのお得意さんも扱いが大変なんです。そんな伝統にがんじがらめになっているのに、建築に関してはけっこう近代的なんです。うんざりした部分の捌け口が建築方面に出ているのかもしれません。まちなかの織屋の跡取りが高松伸に設計を依頼したり。あれは鬱憤晴らしなんじゃないかなと思います。結局、建築文化を侮っているんだろうね。

 ただ、京都にはお寺がたくさんあるし、裏千家や表千家をはじめとするお茶の家元もいらっしゃいます。例えば、壁をつくるときに、竹で小舞をつくって、練り土をこねていくという左官仕事は、京都があるから絶滅せずに済んでいるんですよ。いや、他のまちで絶滅したとは言わないけれども、こんな仕事を頼む施主はほぼいなくなっていると思います。忠実な技術の伝承は本当に難しいし、ありえないことだと思います。正確な伝承ではないにしろ、とりあえず補修をする職人や業者が仕事を続けていけるのは、寺や千家、御所、離宮なんかが京都にあるおかげだと思います。これは景観保存以上に、職人技術がかろうじて温存できるというような意味を持っている、と私は考えます。それが本質的に大事なことなのか、もっと介護老人施設を充実させるべきだといわれたら、私は勝つ自信がありません。それはもう建築方面の道楽でしかないといわれれば、そのとおりであると思います。でもかろうじていえることは、イタリアなんかは国を挙げてその道楽を続けているらしいよと、つぶやくぐらいですね。

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井上章一氏(左から2人目)を囲んで

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