都市の相貌/建築の顔|竹山 聖

― ヴェネチア

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 たとえばヴェネチア。誰もがすぐにその相貌を思い浮かべることができる。海に浮かんだ洲と干潟に築かれた都市。運河が走り水路がめぐり、タクシーもバスも船だ。ゴンドラはもう一つの顔。カナル・グランデが逆S字に街を分かち、両端にある鉄道駅とサン・マルコ広場を結んでいる。カナル・グランデを渡るには駅前の橋とリアルト橋しかない。橋も道も歩行者専用だ。自動車の姿は一切ない。

 カナル・グランデに面しては見事なパラッツォが並び、華やかな栄光を偲ばせる。サン・マルコ広場はサン・マルコ寺院と塔がその焦点となっていて、寺院に隣接するパラッツォ・ドゥカーレが小広場と海とに面している。大広場と小広場を囲み、あるいは海に向かう建築がみな各々の顔を持ちながら、独特のハーモニーを奏でる。この海と空に開かれた一帯の景観がまさしく都市ヴェネチアの顔である。あとは秘めやかな迷路。歩き回っても水路に行き当たっては行き止まり、迷い迷って方向感覚を失う。明るい日差しに照らされた意識の場を支える暗がり、無意識の場。祝祭と官能という、合理では決して割り切れない都市。

 2018年の夏の終わりにヴェネチアを訪れた。香港パビリオンから招待されて参加したビエンナーレの出品作を確認するために。その前の一週間をスイスの山間部で過ごした。アルプスの谷間、ヴァレー地方の中心都市の一つ、マルティニからさらに山奥に入ったルシャーブルの街で開かれた建築・音楽・環境会議Rencontre Architecture Musique Ecoligieに参加するためだ。そのあと、特急列車ユーロシティで行政区の首都シオンからヴェネチアに移動した。

 スイスはすでに秋の気配だったが、アルプスに穿たれたシンプロン・トンネルを抜けてイタリアに入ると急に日差しが強まり、景色の明るさが増した。車内も大きな声とジェスチャーで騒がしくなった。スイスの田舎の牧歌的な風景が一転し、樹木の色も変わる。列車はいくつもの都市の点在する平原を通過する。ミラノ、ブレシア、ヴェローナ,ヴィチェンツァ、・・・、やがて海に浮かぶ特異な都市の相貌が現れる。ヴェネチアである。長くまっすぐな橋の先、街の際の港に巨大な客船が二隻停泊しているのが見える。細やかな建築のスケールに比べてあまりに大きい。列車はやがて終点サンタルチア駅に滑り込む。

 交易を都市活動の中心に置いて発展したこの街は、莫大な富を集めた。それを防御と美観に投入した。東地中海を席巻する強力な海軍を持つ都市国家、という点で、古代ギリシアのアテネなどと共通している。古代ギリシア都市もまた、人々を惹きつける美観を形成した。都市は、とりわけ広範な地域との交易をその活動の中心とする都市は、魅力的な都市景観を持つ。景観的プレゼンテーションを行う。比喩的に言うなら、いわば美しい花を咲かせるのである。富をもたらす虫たちを集めるために。そこが、安心して交易を行うことのできる平和領域である、ということを示すために。平和領域の形成のため、美しい衣装のうしろにはつねに、強固な鎧が隠れている。

― ファサード

 ヨーロッパの建築の歴史はファサードの歴史である。そう言い切ってもいいほどに、顔の形成に重きを置いて来た。都市に美しい顔が必要であったように、都市を形成する建築にも顔が要求された。広場が商業と政治の中心であったから、広場に面する建築にはとりわけ権威ある顔が必要とされた。

 地中海沿岸では、言語もまた、公共の場で話される政治の言葉として発達した。屋外でもしっかりと聞き取ることができるよう、アーティキュレーションが明快で、論理構造も明快な言語となった。1996年のミラノ・トリエンナーレに日本パビリオンのコミッショナーとして参加したときに、下院議長の若い女性が真っ白なスーツで現れて開会のスピーチを行ったのだが、イタリア語はほとんど理解できないものの、その音楽のように豊かなイントネーションを持つ言語の響きに、これはまさしく広場で演説をするために鍛えられた言葉だと思った。狭い室内でこそこそ密談するために発達した言葉とは、まったく違う。

 すなわち表に面してはっきり自己を主張する言葉と建築を、ヨーロッパは鍛え上げて来た。日本では建築は基本的に都市から切れていて、表に姿を見せない。顔を持つ必要がない。社寺は奥まっているし、邸宅は塀に囲まれている。いわば、退く美学、である。自己を主張することは、ない。言葉も主語を必要としない。近世に発達した京町家にファサードがあるといえばいえぬこともない。もちろん商売の建築であるから表に面した顔はある。しかし、一つ一つが別々の顔を持ち自己を主張する類の建築ではない。表は化粧して街並みを作っても、強い自己主張はなく、隣近所と建築的要素を共有して都市の文脈に溶け込み、むしろ文化的関心は奥のニワやハナレにあって、市中の山居をその理想としている。

― 宮殿

 宮殿は、ヨーロッパでは外に対する顔をもっとも強く主張する建築類型だが、日本ではひっそりと奥まって立てられる。25年ほど前、ギリシアの建築家を桂離宮に案内したときのこと。最近でこそKatsura Villaと訳されているが、Katsura Palaceとされていた時代もあった。Palace、つまり宮殿である。彼は笑いながら、その秘めやかで清楚な佇まいを前にして、Where is the palace?と言って笑った。

 もちろん桂離宮のことは知っており、ブルーノ・タウトやグロピウスによる、透明で軽やかでシンメトリーから脱し正面を持たない近代建築の形式の先取り、との評価も把握していた。だからこそ、宮殿はどこだ?と冗談を言ったのである。宮殿なら決まって持っているはずの威厳やら押し出しやら、なにより「顔」がないじゃないか、と。そう、日本の建築には、基本的に「顔」がない。そのような都市の文脈と「退く」美学を形成して来たのだ。建築においても言語においても、文化一般においても。日本社会はベルサイユ宮殿や壮麗な都市景観をめざすバロック都市計画を必要とはしなかった。

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