建築家・米澤隆|笑い顔、怒り顔、泣き顔、多義的な顔を持つ建築のゆくえ
聞き手=角田 悠衣、河合 容子、菱田 吾朗
2018.7.7 米澤隆建築設計事務所にて
traverse19で6回目を迎えるリレーインタビュー企画。
「彼は言葉を大切にしています。自身の思考をものすごいスピードで言葉にして発します。言葉が顔をつくる。そして顔が思考を表し、建築をつくる」
という推薦文を添えて、五十嵐淳氏が米澤隆氏にたすきをつなぎました。「同時多発的」「多義性」「拡張身体」などの言葉をもちいて様々なファクターから、
自身のプロジェクトを再解釈しつつ「建築と顔」について語っていただきました。
― 飛び込んだら広がった建築の世界
—建築の道を志したきっかけや学生時代について教えてください。
米澤—祖父が大工だったこともあり大学の建築学科に進学を決めました。けれども本当に建築にのめり込んでいくのは大学に入ってからですね。大学時代はたくさんの人を巻き込みながら、様々なイベントを企画していました。そこでは彼らのキャラクターが生きるような関係性をデザインし、面白い状況をつくろうとしていたのです。設計行為とは喜怒哀楽といった人々の状況に寄り添い、豊かな環境をつくっていくことといえます。つまりそれは様々な表情を引き出していくことですね。振り返れば、あの頃やっていたことと、今、建築の設計を通してなそうとしていることは連続しているように思います。
転機は大学4年生のとき。知り合いの大工さんから住宅の設計をやってみないかとお話をいただいたんです。必死に頑張ってなんとか竣工を迎え、それが処女作となりました。そうしたら工事をしてくれていた職人さんから二作目を、それを見た近所の人から三作目をというかたちで実施設計の依頼が続いていったんですね。修士1年生の頃には五つくらいプロジェクトが並行していて、僕だけの手には負えない状況になっていたこともあり、後輩を巻き込んで勉強会形式で取り組むことにしました。それが後に「米ゼミ」と呼ばれるようになった自主勉強会です。そうやって設計活動に勤しんでいると修士2年生のときにSDレビューに入選しまして、建築家として本格的に活動していこうと腹をくくりました。現在も、設計事務所を主宰すると同時に、大学での研究活動と「米ゼミ」を継続しています。そういったことがきっかけで、まちづくりや建築雑誌の編集にも携わるなど活動領域や関心はさらに拡張していっています。
― 「拡張身体」としての建築
—米澤さんの作品を見ていて、「顔」という言葉に対してつながる部分はたくさんあると思っています。
米澤—紹介してくれた五十嵐さんはそういうところを見てくれたのかな。最初「顔」というテーマを聞いて、ファサード、外観、景観という言い方ではないところに、「おおっ」と思いました。顔とはある種のメタファーで、どこか哲学的なテーマですよね。そのことも踏まえつつ僕がどういう建築を設計しているかということを話していこうと思いますが、ちょっと昨年の五十嵐淳さんに倣って始めてみますか。皆さんは、顔についてどのように考えていますか。
—レヴィナスの顔という概念から、建築における顔というテーマに入りました。簡単に建築に当てはめてみると、ファサードのように分かりやすいところに着地すると思います。それから建築の象徴性やアイデンティティが現れるという点も顔という言葉の範疇ではないかと感じていて、それは米澤さんの建築の特徴的な屋根の形や外形ともつながってくるように思います。また、コミュニケーションのインターフェースとして顔は非常に重要な場所で、そのように米澤さんは建築とまちとのインターフェースの設計を意識していらっしゃるのではないかと感じています。
米澤—なるほど。「顔」という言葉は一般的に生物に対して使われるものですが、建築にもちいると擬人化されて、ファサードや景観という言葉よりも人の「拡張身体」としての建築といった意味合いが強くなるのではないでしょうか。つまり建築を、即物的にではなく、身体の延長として捉えなおしてみるということです。こう考えられるのは、いくら建築が環境や生物のためにつくられていたとしても、結局人の暮らしを第一に考えざるを得ないからです。建築は人のためのもの以上でも以下でもないのです。建築を「拡張身体」と捉え顔という観点から考えると、ある一つのジレンマにぶつかりますね。生物において顔は表情を伴うことでコミュニケーションのインターフェースになりますが、建築の場合、一般的に生物のそれと比較して固定的にならざるを得ません。ですが、内部の実態が表情としてあらわれてくることが理想的だと思います。季節や長期的なライフスタイルの変化に合わせて、どうすれば建築の顔も変化し続けていけるのでしょう。実はこのことは僕もずっと考え続けてきたので、後で詳しくお話ししますね。
さらに「建築と顔」に関してもう一つ言えることは、建築において何を顔であると捉え、どのように設計するかによって、その建築がコミュニケーションをとろうとしている対象が逆説的に浮かび上がるということです。例えば、近年の住宅設計では内部空間が重視され外観のしつらえが軽視される傾向がありますよね。それは現代社会における近隣との関係性の希薄さを象徴しているように思うし、そういった内向きな顔づくりがビルディングタイプとなったものがショッピングモールとも言えるのではないでしょうか。
個人か、家族か、近隣の人々か、まちか、それともさらに広く社会なのか、つながりが重視される現代において、建築の顔がコミュニケーションをとる対象自体をどうデザインするかがとても重要なのではないかと思います。僕の事務所にインターンとして来たフィンランド出身の学生が非常に象徴的なことを言っていました。「フィンランドでは建築物一つひとつは強いレギュレーションのなかにあり均質であるが、まちという単位で見るとアイデンティティがある。日本は逆で、建築物一つひとつには個性があるが、まちには個性がない」と。
― 多義的な顔のあり方
米澤—他にもう一つ顔の話をすると、最近は物理的な顔だけでなくて、facebookに象徴されるように、ネット空間にも顔が拡張していっていますね。一個人が一つの顔を持つだけでは事足りず、物理空間やネット空間に、多数のデザインされた顔を持たざるを得ない時代が来ていると思います。様々な顔が多層化され一人の人間として構成される現代において、建築が一つの顔しか持たないのはナンセンスで、多種多様で豊かな顔を備えておくべきではないかと考えています。これは現代に限った話ではなく、複数の顔を持つということは実は昔からやっています。例えば、京都における本音と建前といった顔を使い分ける文化や、関西におけるボケとツッコミといった両極の視点でバランスをとりながら話を展開させていくといった文化が挙げられます。このように、いくつもの顔を合わせ持つからこそ、TPOに合わせ顔を変えながら、柔軟にコミュニケーションを繰り広げてきたのです。
僕は「同時多発的建築」という言葉を理念として掲げています。建築空間と人のふるまいがインタラクティブな関係をもつ「流動性」と、異なる性質をもつ建築空間が共存する「異種共存性」が合わさったような建築のあり方です。それを実現するためには多様な解釈を許容し、様々な事象を結び付けるハブとなる「多義性」が必要であると考えています。多義性というのは、受け取る人によって意味合いが多様に変化する性質のことです。例えば仏の半眼は、鑑賞者によって悲しんでいるようにも怒っているようにも微笑んでいるようにも見えますよね。博士論文でも取り組みましたが、建築において関係性をつくるものが、多義性なのだと考えています。
― 建築と生活のインタラクティブな関係
米澤—先ほど、無生物である建築は多様な表情を獲得できるのかという話をしましたが、処女作である『生きている建築』という住宅建築がその探求の始まりでした。この建築には、中央に吹抜けの大きな空間があります。その一面には格子状の木フレームにスライド式の表皮と呼ばれる建具を取り付けた、棚の機能を有する壁を設けました。夏は表皮を開け放って風を通しますが、冬はそれらを閉じることで断熱層をつくりだします。またこの表皮は半透明の素材でできているため外部の光を通し、内部の光を漏らすのです。僕はこれを「呼吸する壁」と名付けました。開口部というのは人が建築の状態を変えることができる部分であり、それを利用して建築と人のインタラクティブな関係を引き出すことができます。そうして住人を無意識的に建築行為に加担させることで、建築の表情を変えることができるのです。この建築では、こうした住人との流動的な関係が、建築の表情となって現れ、光、風、音、匂いをまちに滲み出させました。
この建築が立地する地域は空き巣が多く、生活感を漏らさないようにと近隣の家々はカーテンや雨戸を閉めきり、いわば無表情な顔をつくっていたのですが、そのことがかえって人通りを少なくし悪循環に陥っていました。そこで接道する一階部分をRCの堅強な台座としメインの生活空間を上部に設けることで、防犯性を高めつつも堂々と生活の雰囲気を漏らしてやろうと考えました。そうして建築が表情豊かに生きている状態をつくりだしました。
また、設計者が意図してつくる建築の魅力と、住人の暮らし方によってうまれる魅力が融合した、「つくる」と「うまれる」のどちらにも捉えられるような豊かさをこの建築に持たせられないかとも考えました。生き生きとした表情を持つ建築だからこそ、まちとのコミュニケーションが成立しており、今では近所の人が遊びに来たり、夕食をともにしたりしているそうです。