【ワークショップ】タテカンに見る地域景観
ーワークショップに寄せてー
池田 剛介
提示された二つのプランは、現状のタテカンをめぐる問題点をよく把握しており、それを踏まえて出されたアイデアも、ある程度の実現可能性を持っているものだといえるでしょう。
タテカンラボというアイデアは、具体的なモノとして作られるタテカンを技術レベルで継承し発展させていくという意味で、タテカンを一つの文化として位置づけていく上でも、意義のある提案のように思いました。また災害時にタテカンを伝言板のように使用するというアイデアも魅力的に感じました。実際のところ、災害時に停電が起こったり回線がパンクするなどして、通常の情報網が機能不全に陥ることは十分に考えられます。その際に、モノとしてのタテカンが情報伝達のツールとして機能しうるというのは、意外な着眼点でした。
ところで今回タテカンが問題とされるきっかけとなった新景観条例(2007年制定)ですが、これはバブル期に京都の街中に高層建築が乱立していく状況であらわれた市民運動に端を発する側面を持っています(木村万平『京都破壊に抗して—市民運動20年の軌跡』、かもがわ出版)。この意味で京都の景観は、あくまでも市民の自発性によって、守られ形成されてきたものであり、その成果物である条例を行政の側が杓子定規に押し付けるということになれば本末転倒と言わざるを得ないでしょう。
京都には17世紀から続く町人文化があり、京大のタテカンや吉田寮も含め、それを単なる無秩序ではなく自治によって運営していくという精神は、十分に京都的な風土に通じていると思います。そしてタテカンに象徴される地域の特異性やディープさを尊重していくことの方が、観光客向けの「京都」イメージで一元化するよりも、実のところ京大のブランド性や観光資源としての価値にすら適っているのではないでしょうか。
今後、タテカンを残していく可能性を考えるとすれば、単にそれを保持していくというだけでなく、未来に向けた積極的な価値を議論していく必要があるだろう、そのようなことを考えさせられました。
大庭 哲治
京都市の屋外広告物条例に基づく行政指導を端緒とした、立て看板「タテカン」の強制撤去問題は、これまで多くのメディアを賑わしてきました。私は、この問題の発端であり、そして、解決の糸口となるのは、「京都大学という設置場所のあり方」、そして「設置による安全性の確保」、「関係者間による問題の本質的理解と合意形成」、さらには「それを依拠とする新たな制度設計」を具体的に検討することであるだろうと考えています。
そのようななか、2つのグループは、今回の問題とタテカン文化についての徹底的な下調べをもとにして、それぞれ異なる視点でありながらも、上記に挙げるような問題の本質に直接的にアプローチする、とても興味深い議論と提案を行っていました。
グループ1では、現在の条例に対する法令順守意識のもとで、安全性を技術的に解決しつつ、タテカン文化と質の高いタテカンを、展示場所・方法、管理方法さらには制作過程も含めて情報発信することを通じて、より多くの関係者へのタテカンの価値の認知・共有と合意形成を図る工夫が提案されています。
一方、グループ2では、現在の条例に対する制度内容自体の改善の必要性が提案されるとともに、芸術性を備えた質の高いタテカンが生産されるための工夫や、タテカン自体に更なる付加価値を持たせるためのユニークなアイデアを通じて、タテカンの必要性の認知・共有と地域愛着につなげる工夫が提案されています。
非固定型の屋外広告物であるタテカンが、単なる屋外広告物にとどまらず、京都大学独自の文化としてこれまで認知されている所以は、京大生発の強いメッセージ性とオリジナリティにあります。いずれの提案も、屋外広告物としてのタテカンの設置継続にとどまらず、このようなタテカン文化の価値をしっかり捉え、地域や市民と連携しながら更なる文化の発展可能性をも感じさせるような、問題解決につながる提案内容であったと私は感じています。ぜひ、柔軟で創造性のある、これらの提案内容の実現と今後の展開を期待したいと思います。
椿 昇
昭和4年頃の京都を撮った動画を見ると人間が生き生きしているんですよ。パブリック側の人間に、そこに住んでいる人にとって何が一番ハッピーなのかという視点が欠け落ちている。景観が先走ってしまっていて、四条通などは確かに綺麗になりましたけど、看板を取って醜いビルが現れただけなんです。看板を取っただけで京都なんですかということですね。同じように、百万遍の看板を取ってしまったことはそこを殺してしまったことになる。百万遍に看板が並んでいることは一つの人格だと思っていて、これがなくなるとただの通り過ぎる四つ辻になってしまう。京都大学が生きているという感じがするのはここと西部講堂の二つだけ。市民とのインターフェイスをつくる努力をしてこなかったから、看板がなくなると京都大学は見えないものになってしまう。
もう一つ大きな問題として考えてほしいのは、看板が綺麗でアーティスティックになることが果たしていいのかということ。下手だからこそ伝わるものがあって京大へのリスペクトがあった。ここに綺麗でクオリティの高い看板ができたとしても、まちにあるたくさんのデザインの中に同化してしまう。例えば、金鳥の蚊取り線香のロゴはあのレトロなものだから良くて、変にかっこよくなっても買わない。だからデザインというものは本当に難しい。変にデザインされたものが出てきても僕はインパクトがなくなっていくと思う。
最後に僕が提案したいのは、タテカンを商標登録して起業してしまうということ。出資者を募って、このコンテンツを利用してどのように皆さんが収益を上げていけるか。本当に頑張って収益モデルをつくったほうが良いと思う。せっかく京大なのだから、看板の絵がどうこうではなく、これをビジネスとしてどう成立させるかを考えるべき。OB・OGにもすごい人がいるのだから、そういった人たちから資金提供をもらったり広告収入も含めて、彼らが納得するようなモデルをつくり上げるしかない。市民と一緒に絵を描くといった小さなことではなくて、ちょっと違う収益モデルを考えてほしいですね。
富家 大器
学内関係者だけではなく市民からも広く関心の高い「看板撤去問題」。
今回、traverseの諸君からは、どちらか極端な立場からだけではなく、できるだけ客観的な視点を持ちつつ、一貫して丁寧に意見を拾い上げていこうとする姿勢が伺えた。そのことに敬意をあらわしたい。
さて、このことはあまり問題視されないが、立て看板の現状が、道路占有等明らかに「違法状態」なので、大学側や市も公平なルールに沿って撤去に向かっていると私は思うのだが、まあ何事にもおおらかだった以前に比べると「そんなに堅いこと言わなくても」とか「管理強化だ」とか、様々な反応があるようだ。
私など「こんな時代だから撤去もやむを得ない、看板の告知的な意味や役割もネットの時代到来とともにもう終わった。どうしても設置するのであればデザインの質的アップや、市民の合意形成も必要」というごく保守的な考えを(これは参加メンバーの顔ぶれから見てごく少数派ではなかったか)持ってワークショップに参加したのだが、予想通り割合ラジカルでフリーな意見の飛び交うテーブルではあって、興味深いものがあり、特に参加メンバーの学生で非建築系ながら「撤去反対運動に関わっています!」という学生さんからはナマな温度感のある意見も聞くことができ、意義深いことだった。
結果的に、もし残すならどんなふうにというにというテーマで、床下に設置してみるとか、モジュール化にするだとか、バス停と絡めて集えるスペースにして情報集約できるような「場を作る」等、意外と手垢のついたようなアイデアしか提供することができなかったかもしれないが、デザインアイデアの乗ってくるテーマは学生さんたちにとってはちょっとした刺激もあったようだった。そうだね、意外と「情報のもとに集う」というのは、あるかもしれない。ちょうど彼らが意味もなく百万遍の交差点に「コタツ」を出現させたように。それはおそらく崩壊した家族や自治やコミュニティの幻想の再構築的な残像なのだろう。と帰途美しくも激しい夕陽を見ながらそんなことを思っていた。
藤井 聡
「タテカン」は、戦後の現代日本を覆い尽くす、偽善と事なかれ主義に充ち満ちたうす甘い、気持ちの悪い「空気」に対する、京都大学からの「ツッコミ」の様なものだと思う。それは単なるツッコミなのだから、マジメな批評や議論でなく、単なるおふざけの「揶揄」の様なものだ。
ところがそのツッコミがこの度、突っ込まれる「現代日本の空気」側から無粋にも、にべもなく潰されてしまった。所詮学生がやること—と看過されてきたのだが、それだけの余裕が、「現代日本の空気」側に無くなったということなのだろう。あるいは、事なかれ主義がここまで行き着いたと言うことなのだとも言えるだろう。
とはいえ、「現代日本の空気」のうす甘い気持ちの悪さは、むしろ日々拡大しているのが実態だ。これに対して、「京都大学」という存在が、どういう「ツッコミ」を入れるのか—それこそが、「タテカン問題の本質」なのだと思う。
そういう視点で考えたとき、今回のWSでの学生提案は、必ずしもそういう問いに対する回答とはなっていなかったようにも—思う。
そもそも「ツッコミ」とは「ボケ」に対して行うものだ。「ボケ」とは、「常識」の視点から見たとき、どう考えても「オカシイ」「バカジャネ?」「自分アホなん?」としか思えぬ振る舞いを指す。そして、秀逸なツッコミとは、そのボケの「オバカさオカシさ」を「常識ある公衆に対して一瞬で分からせる力」を秘めていなければならない。その意味で「百万遍交差点こたつ」事件は、「良質な観客」にとっては良質なツッコミとなっていたのだが—如何せん、洒落がきつすぎると「現代日本」に一瞬で潰されてしまった。じゃあどうするか—これこそ、タテカン問題の本質なのだと思う。だとするなら、タテカン問題を「解く」には、もはやタテカンでなくてもいいのかもしれない。人形やコタツを用いた試みが展開されたのは、そうした構図に立つ無意識の試みだったと言えなくもない。
京大生のしっかりとした常識 common sense に裏打ちされた知性ある秀逸な、しかし、おバカでアホなツッコミを、密かに期待したいと思う。
藤本 英子
京都大学の顔はどこにあるのだろうか、学生の活動の顔、メディアで取り上げられる顔、そして外部から見える大学施設としての顔がある。「タテカン」というメディアのあり方を、京大の一つの公的な顔と捉えるとき、そのあり方について単に学生からの一方的な視点だけではなく、見る楽しみを持つ受け手側や、その景観を共有のものとする地域の人々の視点もトータルで考えるタイミングが来たのだろう。WSでの視点もこの点が重視されていて好感を持った。
吉田キャンパスの周辺景観は、当然大学のものだけではなく、日常的に通過する周辺生活者のものでもある。そのことを皆が把握し、そのあり方について意見を交わすべきであると考える。WSで提案された「タテカンラボ」は、タテカン文化を継承、発展、アーカイブする役割を持つ、それが京大だけではなく地域の文化として継承していく可能性を持つ点で面白い。
複数のものの景観を整える手法の一つに、サイズ、形状を揃えるものがある。タテカンが景観としても煩雑な印象にならないためには、そのサイズの統一、つけ方に規則性を持たせることも有効である。WS提案「タテカンストリート」にあるように、歩道沿いに共通の形式でベンチ設置も兼ねた整備は、新たなタテカン活用となるだろう。
今回の課題は、「表現の自由」と「景観政策」の対立に持ち込んでほしくない。現在発信媒体は、以前のようにマスメディアだけではなく、個人が個別に発信ができる時代が来ている。表現の自由はむしろタテカンのような不自由なメディアではなく、自由な表現の可能なメディアでの発信にシフトすべきではないか。
時代の変化に応じたタテカンの変化を恐れず、次のタテカン進化をぜひ有志の学生たちで実現していってほしい。学生たちの戦う相手は京都市ではない、京都市の景観政策は当初から「進化する景観政策」がテーマである。
新たな創造による「進化したタテカン」文化の誕生を期待している。