【座談会】建築史家 倉方 俊輔/イオンモール(株)開発本部 企画開発部長 高須賀 大索/建築家 西澤 徹夫|商業建築の「顔」をなすもの
― 座談会に先駆けて「商業建築史」
明治以前ー 通りの延長とイメージの記号化
明治以前の商業建築史は町屋の歴史といえる。江戸時代初期の江戸では、町人向けの店前売りのために町屋は全面開口が主流だった。中期には上方から商工業者が移住し、新興商人が台頭すると、大通りに大店を構えるようになる。そして、中小規模の町屋も全面開口から前土間型へと進化し、さらに開口が広くなったため、一部庇から地面まで暖簾をかける店が出現した6,7)。このように、売り手と買い手の変化に伴い、当時の商業建築は通りの延長空間へと発展、町人が気軽に立ち寄れる公共性を帯びたものになったと推察される。また、当時の店に他との差異を明確に見出せる建築的特徴がない点にも注目したい。これはまちの中で各店に対する認識(コード)が共有されていたことで、差別化を図る必要がなかったからだと考えられる。そのため暖簾などにデザインされた記号、つまり屋号や業種を表す文字や紋章などが重要視されたのではないだろうか。
明治時代ー 個別性の誕生
明治時代に入ると建築意匠や技術が向上し、商業建築は暖簾などの仮設的なものに代わって建築的特徴で個を主張するようになる。明治14年には防火規制が布達され、急激に土蔵造の町屋が普及し、商業建築も土蔵造(店蔵)が主流となった。さらに、普段は商品を蔵にしまっておく「座売り方式」から店頭に商品を並べて客自ら品定めをする「陳列販売方式」へと販売方式が変化し、それに伴ってウィンドウショッピングという新たな習慣が誕生した9,10)。明治時代はまち・客・商品の関係性が大きく変化した商業建築史の転換点だといえるだろう。また、明治時代の商業建築には西洋建築の事例が少ないが、陳列販売方式の普及に加え、明治36年に日本初の百貨店といわれている三越百貨店が「デパートメントストア宣言」を発表したことで商業建築にも確実に西洋化の波が訪れていた9)。
大正・戦前ー 商品の開放とアノニマス
明治以後「陳列販売方式」が本格的に普及し、陳列窓の設置や土足のまま入店可能な店頭の設計、出入り口の角度の工夫など、商品に興味を持った通行人が自由に店内へと出入りできるような商店計画が推奨されるようになる11)。商品の開放に伴い外部(まち)とのハードな境界が必要となり、いかにまちと内部空間を繋げるか、いかに通行人の興味を引くかというインターフェースのデザインが重要視された。また、広告の普及によりブランドと商品の対応を流通させるようになった。こうした変化は鉄道の発達などで人々の移動範囲が拡大したことにより、それまでまちの中で完結していた店に対する認識(コード)を改める必要があったために生じたと考えられる。加えて、東京では大正12年の関東大震災により多くの町屋が焼失し、バラック商店街の形成を経て看板建築12)が建てられていった。このことも大正時代の商業建築における重要な特徴である。
戦後・60年代ー 仮面を被った商品と建築
戦後には、関東大震災後と同様に闇市、バラック商店、看板建築形成の流れを再び辿る。なかでも戦後に形成されたバラック商店の多くはのちに商店街となり、現在でもその名残が垣間見られる13)。また、インフラの発達によって遠方からの来訪者が増加し、店の業種や品揃えを彼らが把握できるよう、大正時代と同様にまちとのインターフェースが工夫された。一方、1960年代には、大量生産体制の確立により誕生した総合スーパー(GMS)が台頭する14)。GMSは商品のみならず建築も規格化し、看板やロゴマークによって徐々に国民の中にイメージを確立していくことで他との差別化を図った。つまり、GMSのブランドイメージが仮面となり、商品がその仮面を被って流通しているといえるのではないか。ここで重要なのは、不動産側が様々なブランドに一律に建築物を提供するために、商品やブランドとは関係なく商業建築の顔を作っていることである。
70・80年代ー ショッピングセンターの台頭
1969年に日本初のショッピングセンター「玉川高島屋」が開業して以降、70, 80年代はショッピングセンター(SC)、ショッピングモール(SM)の時代となる。その背景には、郊外に居住するニューファミリーが自家用車を持つことで一層移動しやすくなったこと、彼らのコミュニティ形成の場としてSC, SMが位置付けられたことがある16)。結果として、特定の商品を購入することではなく、商業施設に訪れること自体、つまり「ふらっと立ち寄る」ことに意味を見出すようになる。また、コミュニティの中心となるようなSC, SMには地上での内外の境界が曖昧なものが多く、バッファとしての広場的空間を持つことで、まちに対して多様な表情を帯びている。しかし、地上ではまちに開く一方で、2階以上や駐車場部分はまちに対して閉じており、ミクロスケールとマクロスケールでまちに対する顔のつくられ方が異なるのもこの時代の特徴といえる。
90・00年代ー郊外進出と巨大化
1994年の大店法の規制緩和により、90年代に新規開業したSC, SMの60%強が郊外地域に立地するなど、SC, SMに限らず商業施設全体の郊外進出が目立つようになる18)。加えて、郊外に立地した商業施設の巨大化が進行する。郊外のロードサイド店舗は都市と乖離しており、多くの客は車で訪れたのち駐車場から店舗内へとアクセスするため、商業建築の外観は重要視されず、ブランドイメージやロゴといったコードが人々の認識における顔としての役割を果たした。また、郊外につくられた巨大なSMやアウトレットは、建物内や敷地内に一種の都市空間を形成するようになる。それは従来の商業建築が都市の中で他との差別化を図ってきたのに対し、巨大な施設内に自らコードを設定し、自己演出的に複数の顔を内包するようになったということだと考えられる。
現在ー数の顔
現在の商業建築は駅や空港、オフィス、劇場、美術館など多様な施設と融合し、複合化と更なる巨大化の一途を辿っている。その結果、商業施設としての明確な姿は見えづらくなり、商品などの小さなスケールのものが顔としての役割を果たさざるを得ない状況だと推察できる。一方、商業建築が意図的に人々の通過点や観光地に付随して建てられたり商業建築そのものが観光地化したりするなど、都市の顔として商業建築が位置付けられるようになり、顔を作るコードのスケールが大きくなっているともいえる。つまり、小スケールと大スケールの顔は意識的に作られているが、その中間である、まちの通りからアクセスする人々との接点としての顔は設定されていないように思われる。また、GINZA SIXのDaniel BurenのアートやEXPOCITYの太陽の塔など、商業以外の要素が顔になる場合が多くなっているのも、複合化や観光地化の影響ではないだろうか。