脱色する空間|竹山聖

 建築は、合理性(論理、理性、ロゴス、etc.)と非合理性(情念、欲望、エロス/タナトス、etc.)の重ね合わせとして生み出される。だからこそ理性という言葉にどのような含意を込めるかには、注意を払うべきだ。因襲的な意識に捉えられた順応的理性では、新たな世界の構想の役には立つまい。マレーヴィチは「直観」という言葉を「新しい理性」と結びつけた。この「直観」こそが、合理性と非合理性の間をつなぐのではないか。設計のプロセスで決断がなされるとき、論理と同時に直観が働いている。「直観」は、ともすれば、いい加減な判断、根拠のない判断、として軽蔑、排斥されがちである。しかしそこに新しい理性の輝きが秘められてはいないか。
 建築は当為ではない。かといって恣意でもない。つまりこれしかない、というものでもなければ、なんだっていい、というものでもない。しかも喜びや驚きといった、ただ単なる論理を超えた期待の地平が隠れている。だからこそ、そこには合理の判断を超えたところの、ある非合理といってもいい決断の構造があるのである。
 建築という行為を、社会や資本への忖度やら、大衆への迎合やら、なにがしかのイメージ操作として遂行するのではなく、発見的で、非合理とすら呼んでもよい決断を促し、遂行してゆくには、どのような新しい理性のあり方が求められるのであろうか。問いかけは問いかけを呼ぶばかり。しかしこうした原理的な問いかけの向こうにしか、新たな建築は姿を現わすまい。未来の建築のありようを構想すること、このことを措いて建築論の課題はない。

 100年の時を経て、20世紀初頭の清新な精神に触れる。われわれは創造的に過去を振り返らねばならない。瑞々しい感性を持って、歴史を辿り直さねばならない。
 20世紀初頭から今日に至る、その壮大な実験の成果を、結果を、われわれはすでになにほどか手にしている。モダニズムもポストモダニズムもコンセプチュアリズムもコンテクスチュアリズムもコンピュータ・エイディド・バロックも。いまあらためてその時の流れに思いを馳せつつ、20世紀初頭の精神に再度立ち戻り、触れることが、おそらくはわれわれの思考に、善き、人間精神への信頼に満ちた、刺激を与えてくれる。
 「脱色」は、思考と感覚の大掃除であり、リセットでもある。

<参考文献>
1,2,3,4) J.E.ボウルト編著『ロシア・アヴァンギャルド芸術』川端香男里、望月哲男、西中村浩訳、岩波書店、1988。Russian Art of the Avant-Garde: Theory and Criticism 1902-1934, Edited and Translated by John E. Bowlt, The Viking Press New York, 1976.
5) 竹山聖「形式化の意志と醒めた爽やかな楽観:リチャード・マイヤー論」『現代建築を担う海外の建築家101人』鹿島出版会、1985。

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