アレクサンドロスの都市|布野修司

― エジプトのアレクサンドリア

 アレクサンドロスが13 歳になった時、父フィリッポスII 世が帝王教育のためにアリストテレスを教師に招いたことはよく知られる 註3。マケドニアの王になるのは20 歳の時であるが、それ以前、16 歳の時に、自らの名を冠した都市アレクサンドロポリスを建設している。アレクサンドロスが軍事に優れ、あらゆる技術に精通した政治家であり、さらに建築、都市計画の才があったことは疑いがない。先のリストに、マケドニアに設計したというアレクサンドロポリス(⓪)を加えると11 となる。アレクサンドロスの東征は、 紀元前334 年の遠征開始から紀元前330 年夏のダレイオスIII 世の死亡によってハカーマニシュ朝ペルシアが滅亡するまで(Ⅰ)、紀元前330 年秋の中央アジア侵攻から紀元前326 年にインダス川を越え、遠征を中止し反転を決定するまで(Ⅱ)、紀元前326 年末から紀元前323 年のその死まで(Ⅲ)の3 期に分けられる。

3)アリストテレスは、王位についたアレクサンドロスに『王たることについて』と『植民地の建設について』という諭説を送ったとされる。

図2 アレクサンドリア復元図 紀元前1 世紀~紀元1 世紀 出典:Wagner & Deves


図3 プトレマイオス朝のアレキサンドリア 所蔵:アレクサンドリア博物館


図4 ポンペイの塔  撮影:布野修司


図5 カタコンべ 撮影:布野修司

 Ⅰ期に建設されたのがエジプトのアレクサンドリアである(図2)。アンキュラ(現アンカラ)から南下、フェニキア地方の大半の都市を開城、ガザも破ってエジプトへ侵攻、さらに聖都ヘリオポリスを経てメンフィスに至り、川を下ってナイル・デルタの西端のカノボスに到達して都市建設を決定する。自ら計画図を引いたとされるが、選地などに神意を問うた占師としてアリスタンドロス、また、建築家の名としてディノクラテスが知られる註4 。紅海、地中海を繋ぐ絶好の場所に位置したアレクサンドリアは、ヘレニズム世界最大の都市に成長していくことになる。ただ、完成するのは、プトレマイオス朝になってからである(図3)註5。現在のアレクサンドリアは、点々と歴史的遺構(図4, 5)が残されているが、周辺地域を合わせれば1000 万人を超える、カイロに次ぐ大都市である(図6, 7)。

4)「彼は自分でも、アゴラは町のどのあたりに設けるべきか、神殿はいくつ程、それもどんな神々のために神殿を建立すべきか…、それにまた町をぐるりと囲むことになる周壁は、どのあたりに築いたらよいかなど、新しい町のためにみずから設計の図面を引くなどした。」そして、「これから築造される周壁のおおよその線引きを、自分の手で現場の技術者に残したいと考えたが、地面にその印をつけてゆく手段が身近になかった。そこで…大麦をあるだけ容器にとり集め、先に立ってゆく王が道々指示する場所には、その大麦を地面に撒いていく・・・」方法がとられた(アリアノス(2001)。そして、エジプトの最高神アモンAmon(アメンAmen)を祀る神殿のあるリビア砂漠のシーワ・オアシスに参詣、神託を受けた後、メンフィスに戻る途中にアレクサンドリアの起工式を行っている。

5)プトレマイオスⅠ世(紀元前323 年より太守。位:紀元前304 ~ 282 年)は、シーワ・オアシスのアモン神殿に運ばれるアレクサンドロスの遺体を略奪し、大十字路の交点に埋葬する。そして、学問、音楽、芸術の都とすべく大事業に着手する。プトレマイオスⅡ世(紀元前282 ~ 246 年)、Ⅲ世(紀元前246 ~ 221 年)と引き継がれて、アレクサンドリアは絶頂期を迎える。ファロス島の東端には高さ120m を超えるファロス大灯台が建設された。新都の位置を示すランドマークであり、監視塔であり要塞でもある。建築家としてソストラトスが知られるが、彼は、エラトステネスとユークリッドの同時代人である。西の沿海部に宮殿群、官庁群のコンプレックスとして王宮があり専用の港をもっていた。広大な敷地に図書館、観測所、動物園、講堂、研究所、食堂、講演などが建ち並ぶ学園ムセイオンは、カノポス通りとソマ通りの交点、アレクサンドロ大王の廟の向かい側にあったとされる。中心神殿であるセラピス神殿は南西部に建てられ、劇場と競馬場は王宮のある北東部にあった。ディノクラテスの設計計画は、1世紀かけて完成するのである。

図6 地中海に面するアレキサンドリアの街並み 撮影:布野修司



図7 アレキサンドリア図書館 撮影:布野修司

 アレクサンドロスは、紀元前331 年4月にエジプトを発ち、ダレイオスⅢ世をエクバタナに敗走させる。ユーフラテス川、ティグリス川を渡ってバビロンに入城、さらにスーサ、続いてペルセポリス(図8)を占領、帝国の財宝を略奪接収して、ペルセポリスに火をつけ、廃墟とする。

 以降、アレクサンドロス独自の進軍が開始される 註6。アレクサンドリアが各地に建設されるのはこれ以降である。その建設は一般に東西融合政策の一環とされるが、一方で、傭兵としてきたギリシャ兵の処遇が問題であり、植民都市建設の第一の目的は、彼らを住まわせ支配拠点とすることであった。アレクサンドリアの住民となったのは、地元住民の他、退役したマケドニア人、そしてギリシャ人傭兵であり、アレクサンドロスに反抗する不満分子を隔離する機能もあった。

6)東征開始からハカーマニシュ朝滅亡までの進軍経路において、アレクサンドロスの名に因む都市に、アレクサンドリア・ニア・イッサス( 後の時代にアレクサンドレッタと改称、イスケンデルン、トルコ)、そして、バグダードの南にあるイスカンダリア(イラク)がある。イスカンダル Iskandar は、アラビア語・ペルシア語で、もともとアリスカンダールAliskandar であったが、語頭のアルal- が定冠詞と勘違いされ、イスカンダルとなった。アラビア語では定冠詞をつけてアル・イスカンダル al-Iskandar と言うのが普通である。kとs が入れ替わった理由は不明とされる。この2 つの都市は命名のみで新たに建設されたものではない。

図8 ペルセポリス宮殿図 出典:森谷公俊(2000b)

― 最果てのアレクサンドリア

 紀元前330 年末、冬のヒンドゥークシュ山脈に入り、カーブルに到達して冬を越すが、この間建設したのがカウカソス(コーカサス)のアレクサンドリアである(⑤)。ハカーマニシュ朝ではカピサと呼ばれていた交通の要所にあった町を再建したとされる。アレクサンドリア・カピサは、後にグレコ・バクトリア王国、そしてクシャーナ朝の都となる。アリアノス(2001)は記述しないが、バクトリアのアレクサンドリアとされるのが、ヘラート註7(②) 、ファラー註8(③) 、カンダハル(④)である。ガズニーそしてバルフ(バクトラ)にもアレクサンドリアが建設されたとされるが、カンダハル、ヘラートも含めて、アレクサンドリアの当初の痕跡は残されていない。

 そうしたなかで、当初の様子がうかがえるのが、ヒンドゥークシュ山脈の北に位置し、アレクサンドリア・オクシアナ (Alexandria on the Oxus)(⑥)に比定されるアイ・ハヌム(Ai-Khanoum, Ay Khanum)遺跡である註9 。様々な工芸品や建築物、ギリシャ様式の劇場、ギュムナシオン、ポルティコに囲まれた中庭のあるギリシャ様式の住居の遺構などが見つかっている。 アレクサンドロスは、紀元前329 年春、カワク峠を越えてバクトリア地方に入り、ソグディアナへ向かい、タナイス(ヤクサルテス、現シルダリア)川に「アレクサンドリア・エスカテ(最果てのアレクサンドリア)(⑦)」を建設する。シルダリア川は当時アジアの果てと考えられていた。現在のタジキスタンのホジェンドに比定される註10

 最果てのアレクサンドリアの後、アレクサンドロスはインドに向かう。紀元前326 年にインダス川渡ってタキシラに入り、川の両岸にニカイア(現モング付近)とブケバラ(現ジャラルプール)という2 つの都市を建設する。これがアケシネス河畔のアレクサンドリア(⑧)である。そしてさらに進軍するが、部下に造反され、ついに進軍を断念、退却する。インダス川を河口まで大船団を仕立てて下り、デルタの先端部のパタラに着いたのが紀元前325 年、ここからはネアルコスを指揮官とする沿岸探索航海 註11 を別立てとし、自らの本隊は沿岸を陸行し、アレクサンドリア・オレイタイ註12(⑨) を建設したとされる。アレクサンドロスは、紀元前324 年1 月ペルシア帝国の旧都パサルガダイ註13 に到着、さらにスーサに至る。スーサ南部にもアレクサンドドリア(⑩)を建設したとされるが詳細は不明である。帰還したアレクサンドロスは、帝国をペルシア、マケドニア、ギリシャ(コリントス同盟)の3 地域に再編し、同君連合の形をとる。そして、アラビア半島周航を目前に熱病に倒れたのであった。

7)ハライヴァと呼ばれていたヘラートの地に建てられたのはアレクサンドリア・アレイアである。ハライヴァはギリシャ語でアレイアAreia、ラテン語でアーリヤAria である。セレウコス朝の支配下になり、パルティアを経て、サーサーン朝ペルシアに併合される。

8)アレクサンドリア・ドランギアナ(フラダ:現ファラー)は、ヘラートからカンダハルへ回り込む道筋に位置するが、遺構の詳細は不明である。カンダハルの名前は、アレクサンドロスAlexandoros のxandoros が転訛したとの説がある。ペルシア帝国の属州アラコシアに建設され(アレクサンドロス・アラコシア)、分裂後セレウコス朝の支配下に入り、マウリヤ朝のチャンドラグプタに割譲された。アショカ王在位紀元前268 ~前232 年)の法勅碑文も残され、クシャーナ朝のもとで仏教文化が栄えるが、7世紀にはイスラームの支配下に入る。9 世紀から12 世紀にかけて、サッファール朝、ガズナ朝、ゴール朝に支配され、1222 年にはチンギス・カンによって大モンゴルウルスの版図に組み入れられる。1383 年以降、ティムール帝国に支配下に入るが、16 世紀初頭にティムール朝の王子バーブルが南下してきて、カーブルを拠点とするムガル帝国を建てると、サファヴィー朝との抗争の最前線となる。18 世紀末サファヴィー朝に変わってアフシャール朝が建つと、アレクサンドロス以来のカンダハルは徹底的に破壊される。18 世紀半ば、ドゥッラーニー朝が建って、旧市の東5km 離れた位置に新たな城塞都市が建設され、18 世紀末にカーブルに移るまでドゥッラーニー朝の首都として使われた。

9)アイ・ハヌムは,長さ約3km の城壁に囲われており、中央の丘に城砦と塔が建っていた。また、数千人収容可能な直径約84mの円形劇場があり、ペルシアの宮殿を思わせる巨大な宮殿があった。ギュムナシオンも100m 四方の巨大なものであった。セレウコス朝とグレコ・バクトリアの主要都市として存続したが、紀元前145 年ごろに破壊され、その後再建されなかった。1964 年から1978 年までアフガニスタン考古学フランス調査団が発掘し、ロシアの科学者も発掘を行ってきたが、アフガニスタン戦争で発掘は中断し、その地は戦場と化したために遺跡はほとんど原形をとどめていない。

10)その後、8 世紀にイスラーム化され、ホジェンドと呼ばれるようになる。10 世紀には、中央アジアでも有数の都市となったが、大モンゴルウルスの版図に入り、14 世紀にはティムール朝の支配を受けた。

11)この探検航海によりこの地方の地理が明らかになると同時に、ネアルコスの残した資料は後世散逸したもののストラボンなどに引用され、貴重な記録となっている。

12)アレクサンドロスⅢ世が、当時のオレイタイ地方にあった大集落ランバキアを拡充させ,アレクサンドリアと命名したとされる。ランバキアの所在地は不明である。

13)ペルセポリスの北東87 キロメートルに位置する,ハカーマニシュ朝ペルシアの最初の首都であり,キュロスによって紀元前546年に建設された。キュロスⅡ世の墓と伝えられる建造物,丘の近くにそびえるタレ・タフト要塞,そして2 つの庭園から構成される。建造物は2004 年,庭園は2011 年,世界文化遺産に登録された。

図9 シルカップの寸法体系 作図:M.M.Pant

 紀元前5 世紀には確立していたギリシャのグリッド都市の伝統は、アレクサンドロス大王の長征によって東方に伝えられた。その具体的な形態は知られないが、ギリシャ風の都市計画、すなわちヒッポダミアン・プランが伝えられたことは大いに想定される。中央を幹線大路が南北に走り、それに直交して東西に小路を設ける魚骨(フィッシュ・ボ-ン)型の街路構成をとるパキスタンのタキシラにある都市遺構としてシルカップ(図9)が知られるが、ヘレニズム期に属し、ギリシャ人の影響のもとに建設されたとされている。グリッド都市は敵国の領土に新たな都市を短期間に建設するのに適した形式であり、軍事都市の性格をもっていたアレクサンドリアは、おそらくシルカップのモデルとされたのである。

<参考文献>

1. アッリアノス(2001),『アレクサンドロス大王東征記』上下, 大牟田章訳, 岩波文庫.

2. N.G.L.Hammond(1981), “Alexander the Great; King, Commander and Stateman”, London.

3. P.M. Fraser(1996), “Cities of Alexander the Great”, Clarendon press Oxford.

4. 森谷公俊(2000a),『アレクサンドロス大王 「世界征服者」の虚像と実像』, 講談社選書メチエ.

5. 森谷公俊(2000b),『王宮炎上 アレクサンドロス大王とペルセポリス』, 吉川弘文館.

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