芸術家/野又穫 | 空想が語るリアリティ

空想の建築を描き続ける画家、野又穫氏。彼の描く建築は、時に現実の建築以上に見る者を惹きつける。絵に込められた物語性や原風景を読み解きながら、その魅力を紐解いていく。
東日本大震災以降の感情の変化を経て、彼の建築は今何を語るのか。

― 煙突のある町

川本 野又さんが画家になった経緯を教えてください。

野又 生まれは東京都目黒区の東山で、実家は染物屋をやっていました。あのあたりは昔から染物屋や町工場が数多く点在していて、うちの祖父は浜松から一旗上げようと目黒にやって来たようです。子どもの頃は家で反物に囲まれ、外では毎日のように町中を自転車で走り回る子どもでした。家の向かい隣にある木型屋さんが休みの日の遊び場で、鉋とか鋸は使わせてもらえないんですけど、釘や端切れ、木の欠片はいくらでもあったので、いつも何か作っていました。絵心と工作心がそこで合致して、欲しいものは想像を廻らして何でも作るということが日常の楽しみになっていたんですね。また、隣のお風呂屋さんに焚き付け用の廃材が大量に積み上げられていたので、それを使って秘密基地を作ったりしました。知らず知らずのうちに空間的な趣味と、平面的な趣味がだんだん培われていたのだと思います。実家は染物屋だったので着物がたくさんあって、和服の色彩や形態、素材に触れることができたし、近所の小さな鋳物屋さん、お煎餅屋さんなどの工作機械を目にして、構造的なものにも関心を持つようになりました。ただ建築だけは、ほとんど興味が持てなかったんです。面白い建築があまり身の回りに無くて、隣のお風呂屋さんの煙突にはやけに心が惹かれていましたけど、建築というよりも未来的なイメージの方が心踊るという気がしていました。『ALWAYS 三丁目の夕日(2005)』という映画がありましたけど、ちょうど僕が生まれた時代は、まさにあの時代と合致していて、東京オリンピックの前でしたからあちこちで建物の工事をしていたんですよ。東京タワーが建ち上がったり、丹下さんの代々木の体育館が作られていたり、どんどん建物が建っていく中で、どんなものができるのかワクワクしながら工事中の風景を見ていたんですね。建築が出来上がるまでの期待感に満ちている、そんな時代を過ごしていました。僕が描いている工事中や煙突などのザワザワした原風景的なイメージは、この頃に植え付けられたという気がします。
 この時代の表現で一番感動したのは、亀倉雄策さんがデザインした東京オリンピックのポスターでした。初めて見たときに、見慣れた日本の旗があんなに新鮮に見えたことはないと思って。それまで日の丸は格好悪いものだと思っていたんですけど、あれがすごく心に響いて、グラフィックデザインへの興味が突然沸いてきたんです。初めは車のデザイナーになりたいとか思っていたんですが、それからは広告に興味を感じ始めてデザイナーになろうと。それで美大を目指して御茶ノ水にある予備校(御茶の水美術学院)に通ったんです。1年浪人して2年目に無事何とか東京藝術大学に入れました。でもいざ入ってみたら、芸大というところはデザインより美術の方が強いというか、油絵や彫刻の方がすごいな、と歴史の厚みを感じたんですね。

竹山 油絵とか彫刻専攻の方が偉そうなんでしょう。

野又 偉そうです。芸術やってるぞ、みたいなね。大学では、主に古典文様を学んだのですが、個人的には幾何学的な美術、オプティカルアートというものを知って、エッシャー(Maurits Cornelis Escher)のようなだまし絵や、直線でさまざまな表現をする世界に興味を持ちました。その延長線上で、自分の趣味的な部分、例えばバイクの空冷エンジンとか、メカニカルな造形がますます好きになっていって。そしてSFに出会うんですよ。文学にはあまり興味が無かったんですけど、たまたま『ブレードランナー(1982)』の原作者ディック(Philip K. Dick)の小説と出会ってから、SF小説ばかり読むようになりました。美術の歴史を背負った芸大というアカデミックな環境に身を置き、大人になったら空想もほどほどにしないとまずいんじゃないかと思い始めたときにディックを読んで、大人でも自由なことを考えて良いんだ、と思ったわけです。そうしてSFがどんどん自分の中に入り込んできて、空想で描いたり、実物は見ずに写真だけを見て制作の手掛かりにしたりすることへの罪悪感がなくなりました。美術への興味は増す一方でしたが、就職して食べていかなければならないので、広告代理店でアートディレクターとして働きました。

竹山 大きな広告代理店でしょうか。

野又 マッキャンエリクソン博報堂というところです。1クール3ヶ月で終わるテレビのCMとか、まさに広告という仕事をしていたんですが、やはり作品が残る仕事をしたいと思い始めて、絵を描きたいと考えるようになりました。そのときに、原風景としての煙突が自分の描きたいモチーフだと思ったんです。大井埠頭あたりをバイクで回って、写真をたくさん撮ってイメージを膨らませ、絵を描き始めました。チャールズ・シーラー(Charles Sheeler)註1というアメリカの画家が、自分の原風景と同じような煙突を描いていたのを学生時代から知っていたので、心強くもあり、迷うことなく描き進めました。しかし昼は広告、夜は美術という生活に我慢できなくなって、6年後に会社を辞めました。絵を40点ほど描きためた頃、運良く佐賀町エキジビット・スペース註2で初めての展覧会を開くことになりました。ちょうど30歳手前の頃です。それまでグループ展を一回しただけで個展の経験はなく、インスタレーションという言葉を聞くのも初めてでしたが、どのような展示空間にするか、自分なりに考えました。結局、絵を天井から肩くらいの高さに吊って、その間を歩けるようにしました。想像上の建築なので、存在感を薄くするために壁に掛けるのではなくて吊るすという形式を採用したんです。この展覧会が成功したことで、画家としての生活が始まりました。
 

図1 STILL -静かな庭園 – (佐賀町エキジビット・スペース/1986) 撮影:林 雅之

 

関連記事一覧