大興城( 隋唐長安) の設計図-中国都城モデルA|布野修司

(2)街路体系と街路幅員


 通説によれば、街区(坊)の形状と規模には5 種類ある。これは隋『三礼図』に「朱雀街第一坊東西三百五十歩。第二坊、東西四百五十歩。次東三坊、東西各六百五十歩。朱雀街西准此。皇城之南九坊、南北各三百五十歩。皇城左右四坊、従南第一、第二坊、南北各五百五十歩。第三坊、第四坊、南北各四百歩。両市各方六百歩、四面街各広百歩。」とあることを根拠にしており、復元の前提となっている。

 この5 種類の街区(坊)を前提とし、さらに傳熹年(2001)の復元図の実測値を基にする復元案として王暉(「日本古代都城城坊制度的演変及与隋唐長安里坊制的初歩比較」王貴祥(2008))の復元案がある。王暉案は、平岡同様、南北街路幅は全て100 歩とするが、皇城南街区の南北幅は350 歩とし、坊間街路幅を40 歩とする。図は『大元都市』に譲るが、東西街路幅の47 歩を不自然とみて、街路幅員として40 歩、60 歩、100 歩という完数(ラウンドナンバー)を想定する。しかし、この復元案では南北の全長は5790 歩となり、実測値に100 歩ほど足りない。そこで、王暉は、南北を実測値5885 歩に合わせ、実測図に合わせた修正を試みているが、街路幅は、29 歩、43 歩、73 歩…などてんでばらばらになる。設計街路幅について考えるのであれば、王暉の復元案を前提として、東西坊間街路幅を40 歩でなく50 歩とすれば、全長は90 歩増えて5880 歩となり、かなりすっきりとした体系になる。皇城・宮城の東西についても坊間街路幅は50 歩として復元案を示すことができるから、坊間街路の幅員は、南北街路については全て100 歩、東西街路は(東西のそれぞれ三門を繋ぐ三街(幅100 歩)を除いて)全て50 歩という案になる。まず、間違いないのではないか。

図 4 長安基準グリッド

 

図 5 長安街区と街路幅員布野案

Ⅳ 通説とされている復元案は、南北街路幅は100 歩、東西街路幅は六街(100 歩)を除いて50 歩であり、街区(坊)は、400 歩× 650 歩、550 歩× 650 歩、350 歩× 650 歩、350 歩× 450 歩、350 歩× 350 歩という5 種(『三礼図』)からなる。


 問題は、この通説の寸法と実測値が大きくずれていることである。街路幅員には大きなばらつきがある。南北街路幅が全て100 歩ということは想定できない。六街と他の街路との間には区別を設定したと考えられるし、実際、大街、小街のヒエラルキーがある。傳熹年(2001)によれば、宮城・皇城に接する東西横街、朱雀門街を除けば、坊間の南北街路幅は42 ~68m(28.6 ~ 46.3 歩)、東西街路幅は39 ~ 55m(26.5 ~ 37.4 歩)である。小街は大街の半分程度である。また、坊の大きさもまちまちで、以上の前提(Ⅳ)より総じて大きい。宮城の東西は、400 歩× 650 歩とされるが、483 歩× 694 歩~ 765 歩、皇城の東西は、550歩× 650 歩とされるが、508 歩~ 561 歩× 694 歩~ 765 歩である。さらに、皇城南、東西の街区は350 歩× 650 歩とされるが、340 歩~ 391 歩× 694 歩~ 765 歩、皇城直南の街区は、350 歩× 450 歩、350 歩× 350 歩とされるが、340 歩~ 391 歩× 465 歩~ 476 歩、340歩~ 391 歩× 380 歩~ 382 歩である。

Ⅴ 通説(Ⅳ)は、否定される。
基準グリットとして1000 歩、2000 歩、500 歩、750 歩といった1000 歩を2 分割、4 分割する極めて単純な寸法体系が設定されていると考えるのは、実測値にばらつきがあるからである。そこで、実測値に近い街路体系、街路幅員について試案を示すと以下のようになる。

Ⅵ 長安城の街路体系設計試案(図5)
①六街の幅員を100 歩とする。
そして、
②環塗と城壁を合わせて50 歩とする。
宮城・皇城の左右の街区の東西幅は2200 歩(2250 歩- 50 歩)となる。各坊の東西幅を700 歩とすれば、南北小街の幅員は50 歩となる(700 歩+ 50 歩+ 700 歩+ 50 歩+ 700 歩)。また、宮城皇城の南北幅は、450 歩+ 50 歩+ 450 歩+ 100 歩+ 550 歩+ 50 歩+ 550 歩+50 歩= 2250 歩に、すっきり分割できる。すなわち、
③宮城の東西の坊は450 歩× 700 歩、皇城の東西の坊は550 歩× 700 歩とする。
坊間街路幅は東西、南北とも50 歩とする。南北街路(小街)幅は、単純に朱雀門街など六街の半分という設定が行われたのではないかと考えられる。そこで、

④南北街路(小街)幅は全て50 歩とする。
皇城直南の東西幅は、100 歩+ 475 歩+ 50 歩+ 375 歩+ 100 歩+ 375 歩+ 50 歩+ 475歩+ 100 歩に分割される。皇城直南の坊の南北幅については、以下の坊の分割に関わる議論が必要であるが、通説に従って350 歩としよう。すなわち、
⑤皇城南の東西街路幅を25 歩とする。すなわち、
⑥皇城直南の坊は、350 歩× 475 歩、350 歩× 375 歩とする。
⑦皇城南東西の坊は、350 歩× 700 歩とする。


 問題は、基準グリッドと六街との接続をどう考えるかである。すなわち、皇城南に接する金光門-春明門を結ぶ東西大街(横街)、そして延平門-延興門を結ぶ東西大街と基準グリッドをどう重ねるか、という問題が残る。100 歩の幅を厳密に設定すると、基準線からのずれを、それぞれ、α= 37.5 歩、β= 75 歩とすればいい。なお、南北全長の実測値とのずれは、南端に残る(γ= 97.5 歩+ 50 歩)。

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