大興城( 隋唐長安) の設計図-中国都城モデルA|布野修司

― 3. 長安の設計図

 長安城の設計図については、平岡武夫(1956)の開元・天宝年間の盛唐期を中心とする復元があって定説とされてきた(図1) 5。平岡武夫は、東西6600 歩(9702m)、南北5575 歩(8195.25m)を前提として、1 歩= 146.9cm = 5 尺(1 尺= 29.4cm)という尺度換算をもとにして復元図を示した。中国でもその復元図は影響力を持ってきた。

 復元案は、街区(坊)の形状・規模に5 種あるとする。東西方向の街区(坊)幅は、650 歩、450 歩、350 歩の3 種、南北方向の街区(坊)幅は、400 歩、550 歩、325 歩の3 種である。そして、街路幅員については、南北大街は環塗も含めて全て100 歩幅、東西街路(街道)については、皇城南は全て47 歩幅、宮城・皇城の東西は、横街に繋がる開遠門 - 安福門・延喜門 - 通化門の東西大街は100 歩幅、他は環塗を含めて60 歩幅とする。そして、市については600 歩四方、東西の坊との距離すなわち市に接する東西の大街の幅は125 歩、南に接する大街の幅は100 歩とする。

 この復元案については、東西街路幅が47 歩というのがすっきりしない。また、南北街路が全て幅100 歩というのも疑問である。さらに、南北325 歩というのは、『三礼図』の記述にはない。そして実際、その後の発掘調査によると、南北の全長が実際は315 歩ほど長く、坊間幅は平岡の想定(47 歩)より短い。また、南北街路の幅員の大半は50 歩前後である。全長を考えると、皇城南の坊は、南北350 歩とした方が寸法的にも合う。

 街区の規模と形については、徐松撰・愛宕元訳注(1994)は、400 歩× 650 歩、550 歩× 650 歩、350 歩(一部325 歩)× 650 歩、 350 歩(一部325 歩)× 450 歩、350 歩(一部325 歩)× 350 歩の5 種としている。陝西省文物管理委員会 6・中国科学院考古研究所西安唐城発掘隊 7 は、東西9721m(6617.43 歩= 33087.1 尺)、南北8651.7m(5885.51 歩=29447.6 尺)とする。そして宿白 8 らによって復元図がつくられている(図2)。復元案の中で、各部分の寸法を示しているのが傳熹年(2001)である(図3)。この復元図に示される実測値を出発点としよう。

5 平岡武夫編(1956)『長安と洛陽・地図』唐代研究のしおり第七,京都大学人文研究所。これには北宋・呂大防「長安城図」(残図)も含まれている。
6  陝西省文物管理委員会「唐長安城地基初歩探則」(『考古研究』3 期,1958 年)
7 中国科学院考古研究所西安唐城発掘隊「唐代長安城考古記略」(『考古』第11 期,1963 年)
8 宿白「隋唐長安城和洛陽城」『考古』1978 年

図1 長安城図平岡武夫



図2 唐長安復元図



図3 隋唐長安傳

(1)基準グリッド-設計寸法

 傳熹年(2001)の復元図からは、直ちには明快な街区寸法、街路幅員の体系は窺えないが、注目すべきは、宮城・皇城の左右(東西)の東西幅(B)が等しく(左右対称)、また、皇城・宮城の南北幅(B)に等しいこと、さらに、皇城南の街区の南北はこの皇城宮城・宮城の南北幅(B)の1.5 倍(3 × 1/2B)という指摘である。
 第1 に手掛かりとなるのが、宮城の東西幅(A)である。『唐両京城坊攷』は、宮城は東西4 里(1440 歩)、南北は2 里270 歩(990 歩)。そして、皇城(子城)は東西5 里115 歩(1915歩)、南北3 里140 歩(1120 歩)という。宮城・皇城合わせた区域の東西は1915 歩、南北は2210 歩となる。実測値は、宮城皇城の東西長さ(A)は内法で2820.3 m= 1918.6 歩である。そして、宮城・皇城合わせた南北長さ(B)は、3335.7m = 2269.2 歩である。また宮城部分の南北幅は1492.1 m= 1015.0 歩である。因みに、平岡武夫(叶驍軍(1986))は、東西幅を1900 歩、南北幅を宮城960 歩+皇城幅1220 歩(横街300 歩含む)= 2180 歩とする。

 こうした寸法は、芯々制(シングル・グリッド)をとるか、内法制(ダブル・グリッド)をとるかで大きく異なる。また、歩を単位とすることは前提であるとしても、実測値(メートル)の歩への換算単位次第で異なる。歩の値も時代や地域によって異なる。傳熹年(2001)の実測図をもとにした復元図には、街路の幅員と街区(坊)の規模が分けて記されており、内法制が前提とされているようにみえる。しかし、その数値にはかなりのバラつきがあり、一定の体系は直ちには見いだせない。傳熹年が見出したのは、上述のように、A,B という単位である。ということは、設計計画にあたって、まず、大きな区画が単位として設定されていたことを推測させる。
 そこで宮城の寸法を見てみると、南北幅は960 歩~ 1015 歩、東西幅は1900 歩~ 1950歩である。1000 歩× 2000 歩が予め設定されたのではないか。両端に接する南北大街の幅を100 歩とすれば、芯々で2000 歩という寸法となるからである。そして、宮城・皇城の左右の街区の東西幅を見ると、傳熹年(2001)の実測図に基づけば、3334.2 ~ 3458.5m(2268.2~ 2352.7 歩)(2268.8 歩(3335.7 m=B))である。3 分割されることから、750 歩× 3 =2250 歩という設計寸法が考えられる。環塗と城壁部分を50 歩として加えると2300 歩となる。東西全長は6600 歩で実測値に合致する。

 そもそも傳熹年のB = 2268.8 歩は、宮城・皇城の南北長さである。『唐両京城坊攷』は2210 歩(宮城:南北2 里270 歩(990 歩)+皇城:3 里140 歩(1220 歩))というから、これも2250 歩が設定寸法であると推定される。すなわち、傳熹年(2001)が示唆するように、宮城・皇城区域の左右街区の全体については2250 歩× 2250 歩という寸法が設定されていたと思われる。宮城と皇城の間に横街があり、その幅を250 歩とすれば(叶驍軍(1986)は300 歩としている)、宮城、皇城とも南北長さは1000 歩となるのである。皇城南の街区について見ると、傳熹年(2001)の想定によれば、南北の長さは3375 歩(1.5B)である。南北は9 分割されるから、均等に分けるとすると、芯々375 歩(750/2)の坊に区分される。すなわち、宇文愷は、基準グリットとして1000 歩、2000 歩、500 歩、750 歩といった1000歩を2 分割、4 分割する極めて単純な寸法体系を設定したことが明らかになる(図4)。ただ問題がある。南北の全長が実測値と合わないのである。以上の単純グリッドだと、南北長さは2250 歩+ 3375 歩= 5625 歩となるが、南北の環塗・城壁分50 歩× 2 = 100 歩加えても、実測値5889.52 歩より164.52 歩短いのである。この差は無視しえない。
 そこで第2 の手掛かりとなるのが、建設プロセスである。妹尾達彦(2001)によれば、
最初に、
①南北の中軸線(朱雀門街)と宮城の位置を決め、
②宮城を囲む禁苑と皇城をつくる、合わせて
③宮城を基点に、外郭城に6 つの主要道路、六街をつくる、そして、
④六街を基準に、六街を含む東西12、南北9 の街路をつくる、最後に、
⑤外郭城の城壁をつくる、
というのが建設プロセスである。

 もちろん、建設プロセスであって、予め全体計画はなされていたことは前提である。 注目すべきは③である。六街とは、中軸線となる朱雀門街と宮城東西に接する南北大街、そして東西の主要門を繋ぐ3 つの東西大街である。城外へ通ずる街路と門の位置はまず設定されたと考えられるのである。すなわち、皇城南に接する金光門-春明門を結ぶ東西大街(横街)、そして、延平門 - 延興門を結ぶ東西大街が予め設定されることで、皇城南の街区は北の四街と南の五街が分けて設計されたことが考えられる。すなわち、そこでも基準線が南にずらされた可能性がある。六街の幅員を100 歩とすると、75 歩ほどずらして設定された可能性がある。さらに、実測図を見て気がつくのは、最南端の街区(坊)の南北長さのみが長いことである。南城壁の建設に関わって拡張された可能性が考えられる。

 以上、確認したのは、
Ⅰ 基準グリットとして1000 歩、2000 歩、500 歩、750 歩といった1000 歩を2 分割、4分割する極めて単純な寸法体系が設定されている、すなわち、
Ⅱ 街区(坊)には、芯々で500 歩× 750 歩(A)、625 歩× 750 歩(B)、375 歩× 750 歩(C)、375 歩× 550 歩(D)、375 歩× 450 歩(E)の5 種がある。すなわち、長安城は宮城、皇城とA ~ E の街区(坊群)および東西市からなる、そして、
Ⅲ 南北は大きく2 ないし3 つの区域に分けて計画されている、
ことである。

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