試論―タイムズ・スクエア、エロティシズム|平野利樹

話は戻るが、ライザー・ウメモトでは高雄のフェリーターミナルの基本設計と実施設計に関わったfig22。これは台湾南部の港町である高雄が敷地として2010 年に行われたコンペで勝利したプロジェクトで、現在は工事が進んでいる。高雄フェリーターミナルはエロティシズムの建築として解釈ができる。つまり、このプロジェクトは四本に枝分かれしたチューブ状のオブジェクトが基壇の上に乗るという構成で、一見するとチューブと基壇という独立した自律性の高い要素の組み合わせのようであるが、チューブは底面が抜けて基壇の一部がそこに貫入し、また基壇自体も周辺のランドスケープへ部分的に溶け込んでいて、それぞれの要素は半自律的な存在として連続性への移行状態にある。チューブという端部が開放されたトポロジーの選択(四本のチューブの端部はそれぞれ湾、沿岸部、市街に向って開かれている)や、チューブの枝分かれ部分において滑らかに接続されている部分と折り目の部分が混在していることも各要素の半自律性を強調している。

fig22) ライザー・ウメモト「高雄フェリーターミナル」

網タイツを穿いた脚のもつエロティシズムは、網タイツの幾何学的なグリッドパターンと脚のなめらかな曲面が、それぞれの独立性を保ちながらもグリッドパターンは曲面によって歪められ、また曲面はグリッドパターンによって規定される(しかしグリッドは歪め「きられる」ことはなく、また曲面も規定され「きらない」)ことによる総体としての効果である。さらに皮膚を境界面とした身体からの内圧とタイツの外圧という二方向の力が溶解していることもエロティシズムを増幅させるfig23。ライザー・ウメモトの初めての大規模な実現作である、ドバイに建つオフィスタワー「O-14」fig24 では、そのような網タイツを穿いた脚と共通するエロティシズムを見出すことができる。「O-14」は無数の穴のあいたRC 壁体と、その中のガラスカーテンウォールで覆われたオフィス棟によって構成されている。RC 壁体には五種類のサイズを持つ穴が恣意的に配置されていて、全体のスケールの把握を困難にしている(目地が徹底して消去されていることや、白で塗装されていることもそれを助長している)。一方内部のオフィス棟は均等に階高4m でスラブが設けられ、またカーテンウォールも均一なグリッドを形成している。外部からは、壁体の穴から所々垣間見えるカーテンウォールのグリッド、スラブによって規定され(しかし規定され「きらない」)、そして内部ではグリッドはランダムな穴によって歪められる(しかし歪め「きられない」)ことによって総体としての効果を生み出している(ここでは網タイツと脚での外部と内部の関係が反転されている)。また各層のスラブは構想ビルのように中央のコアによってのみ支えられているのではなく、外側のRC 壁体とスラブは接続されており、部分的に荷重を負担している。つまり一見すると独立している壁体と内部の構造は溶解している。

fig23) 網タイツを穿いた脚

fig24) ライザー・ウメモト「O-14」 ​

fig25)「Times Square Re-imagined」アクソノメトリック分解図

「Times Square Re-imagined」にもエロティシズムは様々な構成で発現している。ここでは建築下部のそれぞれの「脚」にはエレベーターや階段などの垂直動線が収められており、建築上層部にゆくにしたがってスラブの面積が大きくなっているfig25。建築の形態はLEDと広告メディアのマテリアルとしての特性によって決定されていると先述した。しかし最終的な形態はそれらの要素のみによって規定され「きられ」てはいない。つまり、エレベーターや階段などの要素によって脚の位置は移動し、また床面積の確保のために上部は大きく膨らむ。そして、それらの機能的要素によって形態が規定され「きられ」ているわけでもない。これによって、映し出される映像と建築は、どちらか一方の要素に完全に従属するのではなく、それぞれ半自律的な要素として溶解する。また一枚の外皮内で異なる解像度の映像が同居し建築全体のスケール感を曖昧にしていることで、建築が硬直したオブジェクトになるのを避け、各要素の溶解が促進される。

 「O-14」について、ライザー・ウメモトは次のようなことを述べている。ウッディ・アレンの映画「カメレオンマン(原題:Zelig)」での主人公ゼリグは、彼の置かれた状況に対応して彼自身も変貌する(インディアンと接触しているときはインディアンに、ニュルンベルクではナチスの親衛隊にという具合に)。一方、ピーター・セラーズの「チャンス(原題:Being There)」での主人公の知的障害をもつ庭師であるチャンスは、何気ない発言を周囲の人間に好意的に曲解される(例えばチャンスは単に庭の手入れの話をしているだけなのに、実業家には経済政策についての示唆的な暗喩と受け取られる)。つまりゼリグは、おかれたコンテクストに応じて変化する存在であるのに対して、後者のチャンスは、自身は変化しない、周囲が自分達の理解を投影する対象として存在する。そして「O-14」は後者のチャンス的な建築であると彼らは主張している*17
 この周囲の見出した理解が投影される建築の様態は、ここまで度々記述したエロティシズムの「総体としての効果」と相通ずる。つまり総体としての効果―曖昧で移ろいゆく不定形な状態は、見る者それぞれの欲望を喚起しまた欲望が投影されることによって様々な様態に変質する(網タイツの脚は決して一義的な欲望を喚起するわけではないように)。それこそが、エロティシズムの建築によって単体の建築という不連続な存在が都市に溶出されることを可能にするのだ。

 タイムズ・スクエアとエロティシズムという二つの一見無関係なトピックからここまで書いてきた。そしてそれぞれのトピックの中にも雑多な個人的なエピソードや引用が入り組んでいる。確かにこれらは最初は僕にとっても全く無関係の、不連続な存在であったが、それらはいつしか溶解しはじめ、その姿を常に変容させ続ける不定形な総体となった。ちょうど、冒頭でベンヤミンが描写した、電光文字が水たまりに反射されてできた像のように。そこに何を見出し、投影するか。まだ始まったばかりである。

fig26) 内部ヴォイド空間

17) Reiser + Umemoto, O-14 Projection and Reception, AA Publications, 2012, p40-41

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