殺風景の日本―東京風景戦争―|布野修司
― 日本橋:日本の臍
東京オリンピック2020 が決まった。東京オリンピック1964 から丁度半世紀の時が流れた。振り返れば、東京の風景が一変したのは東京オリンピック1964 が契機であった。東京に高架の高速道路(首都高速道路)が建設されたのは東京オリンピック1964開催のためである。そして、霞ヶ関ビル(1965 年3 月起工、67 年4 月上棟、68 年4月オープン)を嚆矢として、日本にいわゆる超高層建築が建設され始めるのが1960 年代末である。
10 年ほど前、竣工まもないソウルの清渓川再生事業を視察した小池百合子環境相の報告を受けた小泉純一郎首相が、高速道路の下に埋もれてしまった日本橋周辺の景観は醜い、高速道路を撤去したらどうかと発言、マスコミが大きく取り上げて大騒ぎになった(2005 年12 月)。日本橋の上に架かる高速道路を撤去するということは、清渓川再生事業と同じように、半世紀前の景観を取り戻す、ということである。
1603(慶長8)年に架けられた日本橋は、まさに日本の臍である。完工翌年、全国里程の原点と定められ、東海道、中仙道など五街道の起点となり、現在も日本国道路元票がその袂にある。また、日本橋の中央のまさにその原点の真上の空中に高速道路を跨ぐかたちで元票が浮いている(図1)。
実際、江戸時代の日本橋は、人や物資の集散によって活況を呈した。日本橋川など運河には、魚、米、塩、材木などの河岸が並び、近江商人や伊勢商人などの大店が軒を連ねた。各種問屋、金座、銀座とともに市村座、中村座などの芝居小屋、遊里吉原も立地した(図2)。
明治に入っても、日本橋は東京の臍であり続けた。1878 年の郡区町村編制法によって東京市15 区の1 区となった日本橋区は、兜町に東京証券取引所を中心に証券会社が、室町から本石町にかけては日本銀行をはじめとする金融機関が集中して日本のウォール街と呼ばれた。中央通り沿いに三越、高島屋、東急日本橋店などの百貨店が並ぶ、東京駅八重洲口にも近い地区、また、江戸時代以来の問屋が建並ぶ地区として、日本経済の中心であり続けるのである。
しかし、戦災を受け一帯が灰燼に帰した後、戦災復興から高度経済成長へ向かう過程で、東京は急激に膨張し始め、大きく変貌する。その象徴が、東京オリンピック1964を契機とする高速道路網の建設である。東京の重心は西へと移動し、新宿に高層ビルが林立し始めた。日本橋界隈は、高速道路で空を塞がれるとともに、日本の臍としての地位を失っていくことになる。
現在のアーチ型石橋は1911 年に架けられたもので、長さ49 メートル、幅27 メートル、妻木頼黄2 の設計による。すぐれた意匠として評価が高いが、船運を意識したその意匠はモータリゼーション万能の今日となっては見る影もない(図3)。かつての日本の近代化、西洋化の象徴としての意匠も、高速道路の現代性に道を譲らざるをえなかった。川の上なら用地買収の手間暇、費用がからないことが優先されたのである。
日本橋界隈では、清渓川再生事業以前から様々な再生計画が取り沙汰されてきた。東京都は、1994 年に『日本橋川再生整備計画への考え方』をまとめ、長期的な抜本対策として、①高速道路の地下化、②超高架化などをうたっている。また、「東京都心における首都高速道路のあり方委員会」(国土交通省・東京都・首都高速道路公団)も、提言(2002 年4 月)において、日本橋付近の都心環状線の再構築案として、いくつかの地下案とともに高架案をまとめている。取りまとめに当たったのは、中村良夫、篠原修といった土木分野における景観工学の大家である。
大都市にも自然が欲しい、かつての景観が蘇って欲しい、という素朴な声も次第に大きくなりつつあった。地元では、「日本橋地域ルネッサンス一〇〇年計画委員会」「日本橋保存会」などいくつかのまちづくり団体が活動を続け、それらを統合するかたちで設けられた「日本橋みちと景観を考える懇談会」が独自にアイディア・コンペを行うなど、いくつかの提案を試みてきた。
しかし、事業が容易でないことはいうまでもない。日本橋川の上に架かる高速道路の場合、清渓川に沿うだけの単線の高架道路とは違い、いくつかの路線が交差するから、交通計画上、代替案の作成が困難である。そして、清渓川再生がまさにそうであったように、景観ばかりではなく、まちづくり、防災性の向上、環境整備など、様々な課題が複合したプロジェクトとなる。実現への手順、スケジュール、費用対効果、地域づくりの協力体制など、検討すべきことが山のようにある。都市計画に関わる法制度の検討も必要である。様々な権利関係を調整するためには、土地や建物の広さや容積を移転することが必要になるが、その権利変換をコーディネートする役割・仕組みが鍵になる。そして、地域内の合意形成が同じように決め手となることは見えているのである。
日本橋プロジェクトは、「高度成長期のまちづくりから品格のある上級なまちづくりへの転換―経済効率優先・車中心・無秩序な景観(従前)から伝統・文化・歴史の尊重、賑わい空間の創出(今後)へ」を高らかにうたった。そして、「新しいまちづくりを日本橋から全国に広げていくための第一歩―全国の都市再生・国土再生のマイルストーン」を目指す、と宣言した。確かに、日本橋が日本の新たな臍として再生に向かうとすれば、日本の都市景観の帰趨を大きく方向づけることになる筈であった。
それから10 年、東日本大震災が東北のみならず東京をも直撃した。超高層建築の揺れ、膨大な帰宅困難者の出現、計画停電…首都東京の拠って立つ基盤の脆弱性が露わとなった。
そして、東京オリンピック2020 が決まった。
主題とされるのは、首都東京の強靭化である。例えば、東京オリンピック1964 のために建設した高速道路網の補修、補強が急がれることになる。東京オリンピック2020の招致委員会が、既存施設の最大限の利用をアピールしたように、東京オリンピック1964 の時のように新たな施設をどんどん建てる余裕はいまの日本にはない。ましてや東日本大震災からの復興という最大の課題がある。東京は既存の都市構造を補修強化することのみであるとすれば、この半世紀は一体何だったのかということになる。
東京オリンピック2020 が決まって、せめて日本橋の上の高速道路だけでも撤去できないか、という動きがある。問題を先送りするのではなく、日本橋プロジェクトがうたったような日本橋を日本の臍として再生する機会とできるかどうかが問われている。
2 1859 ~ 1916。ジョサイア・コンドルに学んだ、日本の近代建築の草創期の建築家のひとりである。工部大学校造家学科、コーネル大学建築科を経て、東京府に勤務、のちに議院(国会議事堂)建設のための組織である(内閣)臨時建築局に勤めた。日本の官庁建築家の先駆である。主な現存する作品に他に日本勧業銀行(1899、現千葉トヨペット)、横浜正金銀行本店(1904、現神奈川県立歴史博物館)、山口県庁舎(1916)などがある。
― 丸の内:美観論争
東京駅前丸の内に、現在の新丸ビルから見下ろされるように、いささか場違いに思える赤茶けた煉瓦色の迫力ある東京海上ビルディング(現・東京海上日動ビルディング)が建っている(図4)。
日本の近代建築をリードし続けた建築家、前川國男3 によるこの東京海上ビルディングは、霞ヶ関ビルに先駆けて、日本最初の超高層建築となる筈であった。しかし、そうはならなかった。建設をめぐって、時の政権(首相佐藤栄作)を巻き込む大論争が起こるのである。
ことの発端は1963 年に遡る。この年、戦前期より長い間決められてきた、建物の高さを100 尺(31 メートル)以内に制限する規定が撤廃されるのである。31 メートルというとせいぜい10 階建ての建物だ。10 階建ての建造物であれば、今では日本全国の都市に林立していて珍しくもないが、「超高層」建築というと、当初は31 メートルを超えた建物を言った。そうした意味では、この1963 年は、日本の都市景観を大きく変えるきっかけとなった年として記憶されていい。
翌1964 年は東京オリンピックの開催された年であり、東京―新大阪間に新幹線が開通した年である。上述のように、東京も日本もこの頃を期に大きく変貌していく。東京オリンピックの興奮さめやらぬ1965 年1 月に設計依頼を受けた前川國男の案は、地上32 階、高さ130 メートルの「超高層」建築案であった。高さ制限から容積制限へ移行したことを踏まえ、超高層化によって、敷地の3 分の2 を公共広場として開放するというねらいをもっていた。この手法は、後の「総合設計制度」4 に基づく「公開空地」の先駆けとして評価されるが、後述のように、この総合設計制度は、それまでに形成されてきた日本の都市景観を大きく変える動因となる。
案は、設計図書にまとめられ、1966 年10 月に建築確認申請5 の手続きが取られた。そして、騒動が起こった。「皇居を見下ろすビルは美観上認めない」という判断を東京都が下したのである。知事は美濃部亮吉6、革新都政の時代である。後に「美観論争」と呼ばれることになる、この出来事の顛末はおよそ以下のようであった。
美観上の理由で(美観条例を設けて)東京都が建築確認を拒否する一方で、建築基準法上の手続きは進められた。1967 年1 月、(財)日本建築センターの構造審査会(建築基準法の規定にない特別な建築物の審査を行う機関)は、構造耐力上支障はないとの判断を下している。技術的な認可を得て、法的には準備が整ったことになる。しかし、東京都がなおも建築確認を拒否し続けたことから、建主である東京海上はこれを不服として東京都建築審査会に審査請求を提出、9 月に至って審査会は東京都の処分を取り消すという裁定を下した。
1967 年10 月、構造審査会の報告に基づく大臣認定の手続きが東京都から建設省に送られた。問題は、自治体から国へと移ったことになる。この間、マスコミがこの問題を大々的に取り上げ、国民的話題となった。そして、ついには政治問題化する。時の佐藤栄作首相が「皇居を直接見下ろすようなビルは「不敬」に当る。国民感情からしても好ましくない」と発言するのである。また、実際に東京海上に対して「超高層」ビルの自粛を要請したのであった。
結局、基準階の平面計画(プラン)は変えず、自主的に地上25 階、軒高100 メートル以下に高さを削ることで認可が下りることになった。1970 年のことである。1971 年12 月に着工した東京海上ビルは、計画開始よりほぼ10 年を経た1974 年3月に竣工する。
「皇居を見下ろす」という政治的問題を除いてみると、ここには、全国各地で勃発した風景戦争の構図をほぼそっくりそのままみることができる。すなわち、高層建築の計画提案、高層化反対のキャンペーン、条例の制定、適法の確認、高さ低減(階数削減)による決着というパターンである。
東京海上ビル建設に伴う美観論争が、建築界にしこりのように残っているのは、超高層建築を推進する側に、建築界の「良心」とされてきた前川國男がいたことである。
東京海上ビルの前身は、1918 年に建てられたものである( 曾禰7・中條8 設計事務所、内田祥三9( 構造設計))。丸の内、すなわち江戸城の御曲輪内と呼ばれた一帯には、明治以後、司法省、大審院、東京裁判所、警視庁などの官庁の他、陸軍省や騎兵隊、工兵隊の兵営、操練場、東京府立勧工場( 辰ノ口勧工場) が置かれたが、その内の陸軍用地は、1890 年に至って、三菱に払い下げられた。日本橋が「三井村」と呼ばれたのに対して「三菱ヶ原」と呼ばれた。
三菱は1894 年からイギリスの経済の中心地ロンドンのロンバート街10 をモデルとしたオフィス街の建設に着手、J. コンドルの設計で1 号館を建設し、1914 年までに21 号に及ぶ赤煉瓦造の三菱館を建てた。1914 年には東京駅が建てられ、東京海上ビルの後、23 年には丸ビルが落成する。丸の内一帯は「一丁倫敦」と呼ばれ、日本橋に対抗する日本のビジネス街として急速に発展していくことになった(図5)。
この丸の内に建てられた大部分の建物は、第二次世界大戦による被災を免れた。1952 年に完成した新丸ビルは、従って、百尺の建築制限を守って建てられることになったのである。
日本の近代都市計画の起源とされる東京市区改正条例11(1888 年)はこの一丁倫敦と呼ばれた街並みが東京の中央市区に広がっていくことを想像していた。この想像図の世界はやがて実現していくことになる。
前川國男が求められたのは、この100 尺にきれいにそろったビルの景観とは異なった新たな景観の秩序である。それ以前にモデルとされていたのは、アメリカの大都市、とりわけニューヨークで一般的になっていた、地上の敷地面を目一杯使って中央部のみ超高層とするいわゆる墓石型の超高層であった。超高層化によって公共広場(公開空地)を地上に設けるという前川國男の提案する超高層のモデルは、あえなく挫折したのである。
時代は下って、バブル華やかなりし頃、新宿副都心が超高層ビルの林立する街に変わり、ウォーターフロント開発が盛んに喧伝される中で、丸の内「マンハッタン計画」が打ち上げられた。「マンハッタン計画」というのは、日本産業の中枢としての地位をニューヨークのマンハッタンのように維持したいという命名であったが、原子爆弾開発のパンドラの箱を開けた「マンハッタン計画」を想い起こさせて暗示的であった。丸の内に容積率の歯止めが効かなくなるのである。
前川國男の挫折を墓碑銘として、一丁倫敦の記憶もかすかに残す丸の内であり続ける選択もあったのかもしれない。しかし、容積を増やせば増やすほど利潤を得ることのできる一等地を所有する大地主である三菱地所にその選択はなかった。公開空地を設ければ、容積率は1300 パーセントになる。さらに、歴史的建造物を復元保存すれば1700 パーセントになる。こうして一角に歴史的建造物を残して超高層として建て変えられた建物がある。
「平凡なるもの」という素晴らしいテレビ番組(富山テレビ)がつくられ、保存運動が展開されたが、日本の近代建築の傑作とされる丸の内南口に残る吉田鉄郎12 設計の中央郵便局は、中途半端にファサードの壁面を残して超高層ビルに建て替えられた。一方、東京駅は原形通りに保存復元された(2012 年完工)。
丸の内は、エアポケットのように残るわずかな歴史的建造物とともに超高層のビル群によって包囲されつつある。第三の景観層において新たに出現した歴史的建造物が新たにランク分けされ、あるものは解体建替え(死刑)、あるものは一部保存(執行猶予)、あるものは凍結保存(標本化)される。そして、それらを足元に歴史の痕跡として残しながら、ひたすら空に向かって空間を拡張する。これは、日本の第五の景観層である。日本の首都・東京の玄関口、東京駅を取り巻く景観は、日本の景観問題と景観層をそのまま表現している。
3 1905 ~ 1986。拙稿(1998)「Mr. 建築家-前川國男というラディカリズム」(『布野修司建築論集Ⅲ 国家・様式・テクノロジー-建築の昭和-』彰国社)所収参照。
4 公共の利用に開放した空地(公開空地)を設ければ、容積率(延床面積/敷地面積)や高さの規定などを緩和するという制度。1970 年に創設され、建築基準法第59 条の2 に規定されている。具体的にどういう条件でどこまで緩和を認めるかは、それぞれの許可権限を持つ特定行政庁で基準を定めている。
5 日本では全ての建築物(十平米未満のものを除く)の建設に際して建築確認の届出が必要とされる。各自治体に設けられた建築主事が統括する部署(建築課、土木事務所など)が届出を建築基準法等法令に照らして適合しているかどうか確認する。確認されれば建設が可能となる。わが国では自治体に建設の許可・不許可の権限を与える許可制をとっていない。
6 1904 ~ 1984。天皇機関説で著名な美濃部達吉の長男。東京帝国大学経済学部卒業。大内兵衛に師事したマルクス主義経済学者として知られる。1967 年より3 期12 年、東京都知事を務めた。公害防止条例制定、老人医療の無料化、公営ギャンブル廃止、都電廃止、歩行者天国の実施など。著書に『独裁制下のドイツ経済』『苦悶するデモクラシー』など。
7 曾禰達蔵。1853 ~ 1937。工部大学校造家学科卒業、辰野金吾ら第一期生4 人の一人。三菱オフィス街の基礎をつくった。
8 中條精一郎。1868 ~ 1963。東京帝国大学造家学科卒業。日本郵船ビル、明治屋ビル、講談社ビルなど曽禰達蔵とともに都市事務所ビルの設計によって、都市景観の創出に大きな役割を果たした。慶応義塾大学図書館(1912)は重要文化財。長女は宮本百合子である。
9 1885 ~ 1972。建築構造学者。東京帝国大学建築学科卒業。安田講堂など東大キャンパス内の建築を多く手掛ける。1943 年に第14 代東京帝国大学総長に就任(1945 年12 月まで)、学徒出陣を命じている。
10 Lombard Street。ロンドンの金融街いわゆるシティThe City にある英国銀行から東へ300m ほどの通り。十三世紀末にエドワードⅠ世がユダヤ系金融業者を追放した後に北イタリア、ロンバルディア商人が移住し、貿易とからめて両替・為替業を営んだことに由来する。
11 市区改正とは今日でいう都市計画(あるいは都市改造事業)のことである。都市計画Town Planning という言葉もそう古いわけではない。ロバート・ホーム、、によれば、英国で最初に用いられたのは1906 年であり、少し先駆けてオーストラリアで活躍した建築家J. サルマンの「都市の配置Laying out of the City」(1890)が都市計画の最初の論文だという(布野修司+安藤正雄監訳・アジア都市建築研究会訳(2001)『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』京都大学学術出版会)。日本では大正期に入ると都市計画という用語が一般的に用いられはじめ、1919(大正8)年に都市計画法が成立する。
12 1894 ~ 1956。富山県福野町の出身。東京帝国大学建築学科卒業。逓信省営繕課に勤務、官庁建築家として活躍。逓信省には一年先輩の日本分離派建築会の山田守もいた。ブルーノ・タウトは吉田の設計した東京中央郵便局を、モダニズムの傑作と讃えた。大阪中央郵便局も吉田の手になる。戦後は日本大学で教鞭をとった。『Das Japanische Wohnhaus』(1935)、『JapanescheArchitektur』(1952)、『Der japanische Garten』(1957)などドイツ語の著作でヨーロッパに知られる。
― 東京の美学
東京タワーに登ってみる。あるいは東京新都庁舎の展望室から、さらに新たに出現した新名所東京スカイツリーの展望台から、東京の街を俯瞰してみる。世界中どこの大都市も似たようなものだけれど、東京の景観はとりわけ雑然と見える。ヨーロッパの都市と比べるとその違いは歴然とする。日本橋も東京駅も俯瞰してみれば、雑然とビルが林立する風景の中に埋もれてどこにあるのかわからないのである。新宿御苑や明治神宮などいくつか残された森の緑がせめてもの救いである。
この無秩序さは一体何なのか。
東京の景観を考える時、比較対象として、通い慣れたインドネシアのジャカルタのことを想う。この2 つの都市の基礎が造られたのは同じ17 世紀なのである。ジャカルタの前身はバタヴィアというが、「じゃがたらお春」13 の数奇な物語もあって、江戸(日本)とジャカルタとの関係も深い。鎖国(海禁)政策を採っていた日本が、唯一、長崎出島を通じて繋がっていたのがバタヴィアである。
ジャカルタの人口は、現在1000 万人を超える。ジャボタベック(JABOTABEK、ジャカルタ―ボゴール―タンゲラン―ブカシ)というジャカルタ大都市圏を考えると、さらにはるかに大きい。もっとも、東京も、首都圏として神奈川・埼玉・千葉の近隣3県を加えれば3000 万人以上、日本の人口の4 分の1 を占めるから似たようなものである。
この2 つのアジアの大都市は「巨大な村落」14 とも言われるように、実によく似ている。しかし、印象はかなり異なる。
ジャカルタのムルデカ広場に建つ独立記念塔に登ってみる。東京と同じように雑然とした風景が広がる(図6)。でも、美しいのである。理由ははっきりしている。赤い瓦の家並みが一面に拡がっていて、都市全体が赤い。そして、その赤い家並みに少なくない緑が実に映えているのである。赤い家並みの下は、カンポン(都市村落)15 の世界である。決して豊かとは言えないバラックの世界である。美しさは従って物質的豊かさではない。皆が同じようにジャワ島の土で焼いた赤瓦を使っている、ただそれだけのことであると言えばそれだけのことである。それに対して、東京の俯瞰景は様々な屋根の色が混然として白色騒音(ホワイト・ノイズ)化してしまっている。ジャカルタのカンポンを覆う赤瓦は、オランダが持ち込んだもので、ジャワのものとは言えないけれどもうすっかり伝統となっている。カンポンの道は曲りくねり、土地の形も大小様々で、全体としてアモルフに見えるけれど、赤い屋根が全体を覆うことでひとつの世界が表現されるのである。
芦原義信は、東京の景観をめぐって、「わが国の首都、東京は、一見、まことに混沌としていて、他の国の首都と比較し、都市計画や都市景観の点でかなり遅れている」と『東京の美学―混沌と秩序―』16 の冒頭に書く。ところがこの一文は、反語的問いかけであって、東京は決して、「混沌」として「遅れている」のではない、混沌の中に秩序があり、東京には東京の美学がある、と主張するのが『東京の美学』である。 僕は、芦原義信17 に建築設計の手ほどきを受けた。少し年上の丹下健三18 のような時代の先端を走る派手な建築家ではなく、手堅い建築家として知られていて、そうした建築家にしっかりしたデザインの基礎を教わったのは幸せであったが、基本は「混沌にいかに秩序を与えるか」ということだったと思う。だから、「混沌のなかの秩序」「混沌の美学」というのは芦原建築論の深化である。
『東京の美学』に先だつ『街並みの美学』19 においては、「N(ネガティブ)」スペースと「P(ポジティブ)」スペースという概念が用いられる。建築家は、建築物(P スペース)のみに関心をもつけれど、大切なのは建築物と建築物の隙間(N スペース)である、という主張である。N スペース、P スペースによって都市を分析する視点は、博士論文「建築の外部空間に関する研究」(1960)に示されている。都市の地図を白黒反転させて、すなわち、建物を白、隙間や空地を黒に塗ってみると、隙間の重要性がわかる。隙間すなわち都市の余白、中庭であり、広場であり、人々が集う公共的空間となる。この隙間が大事だというのが芦原都市建築理論であった。
それに対して『東京の美学』は「混沌の美学」を主張する。東京あるいはアジアには、一見、無秩序に見える都市環境のなかに、その生成過程において、ある種の「隠れた秩序」が存在しているのではないか、というのである。「混沌の秩序」「無秩序の中の秩序」という主張と、N スペース、P スペースによって都市が構成されるという主張は異なる。『街並みの美学』はあくまで西欧の都市を前提として組み立てられていた。しかし、『東京の美学』には西欧の都市とアジアの都市=東京は異なる秩序があるという視点がある。実際、東京の景観はヨーロッパよりアジアの諸都市に近い。例えば、中心商店街や盛り場などは、漢字の広告が溢れかえる、香港やシンガポールのチャイナタウンに似ている。また、木造住宅が主である点は東南アジアの諸都市に共通性がある。そうした意味では、日本の景観を考える際に西欧の景観がアプリオリに規範となるわけではない。後の章で、景観という概念をめぐって、風景と生態圏をめぐって、また地球環境と景観をめぐって議論するが、景観はそもそも地域の生態系によって拘束されている。そういう意味では、アジアにはアジアの、東京には東京の景観の美学がありうることを前提にすべきなのである。
問題は美学である。『続・街並みの美学』ではゲシュタルト心理学に言及されるが、『東京の美学』は、「カオス」「ファジー」「フラクタル」といった諸理論に触発されたという。フラクタル理論は、景観を一定の型や様式として捉える景観論に対して、景観をよりダイナミックに捉えるためのヒントを与えてくれる。視覚的に分りやすいのはマンデルブロ集合20 で、その部分を拡大していくと全体と似たような形が現れるがそれらは互いに異なっている。海岸線や地形、樹木など自然の複雑で多様な形も一定の集合のルールによって生み出されており、それを記述できる可能性を示唆してくれる。すなわち、ディテールにおける秩序が実に多様な形態を生み出すという、あるいは、単純なルールが実に豊かな細部を生み出すという、そういうシステムを具体的に想定させてくれるのである。
景観についてフラクタル理論が直接応用可能であるかどうかはわからないが、一定のルールに基づいたかたちから実に多様なかたちが生み出される仕組み、ディテールから組み立てていく都市計画の手法を示唆するように思う。具体的に頭に浮かべているのはイスラーム都市の形成原理である21。
13 1625 ?~ 1697。南蛮人(イタリア人)と日本人との混血として生まれ、海禁政策によってバタビアに追放された女性。バタヴィアから日本へと宛てたとされる手紙「じゃがたら文」で知られる。バタビアでオランダ東インド会社の吏員と結婚、三男四女を儲け、夫の死後の裁判沙汰でオランダにも渡っている。白石弘子(2001)『じゃがたらお春の消息』勉誠出版、L. ブリュッセ(1988)『おてんばコルネリアの闘い』栗原福也訳、平凡社など。
14 江戸は人口百万人の都市であったが、その面積は広大であり、周辺部では農村的生活が行われていた。このような都市の形態は、城壁のない都市は都市ではないとする西欧世界の都市像に相対するものとして「巨大な村落」と呼ばれる。「巨大な村落」としての東京論に、例えば川添登(1979)『東京の原風景―都市と田園との交流』日本放送出版協会がある。江戸は百万人の都市であったが、その面積は広大であり、周辺部では農村的生活が行なわれていた。「巨大な村落」と規定した東京論に、例えば、発展途上国の大都市の居住地はしばしば「都市村落urban Village」と呼ばれる。アジアの都市と西欧の都市の違いを指摘して「巨大な村落」という言葉が使われる。
15 布野修司(1991)『カンポンの世界―ジャワの庶民住居誌』PARCO 出版局
16 芦原義信(1994)『東京の美学―混沌と秩序―』岩波書店
17 1918 ~ 2003。東京帝国大学工学部建築学科卒業。坂倉準三建築設計事務所、ハーバード大学留学、マルセル・ブロイヤーの事務所を経て帰国後芦原建築設計研究所を開設。法政大学、武蔵野美術大学を経て東京大学教授(1970 ~ 79)。代表作にオリンピック駒沢体育館(1964)、国立歴史民俗博物館(1980)、ソニービル(1966)、東京芸術劇場(1990)など。
18 1913 ~ 2005。日本近代を代表する建築家。藤森照信(2003)『丹下健三』新建築社がその全軌跡をまとめている。
19 芦原義信(1979)『街並みの美学』岩波書店、芦原義信(1983)『続・街並みの美学』岩波書店
20 フラクタルという概念を提唱したのはブノア・マンデルブロート(1924 ~ 2010)である。数学的には、で定義される複素数列{zn} n ∈ N がn →∞の極限で、無限大に発散しない条件を満たす複素数c 全体が作る集合をマンデルブロ集合という。
21 布野修司・山根周(2008)『ムガル都市-イスラーム都市の空間変容-』京都大学学術出版会