建築家/アタカケンタロウ | 建築から自由になること
聞き手 竹山、玉井、宮本、鈴木
記録 吉田、西尾、夏目、三浦、江川、森下、阿波野、杉村、鵜川、藤井、嶌岡、吉川
2013年7月2日 竹山研究室にて
建築家へのリレーインタビューとして、前号でインタビューした前田茂樹さんからご紹介いただき、建築プロジェクトだけでなく、パブリックアートやギャラリーでのアーティストとの共同個展、遠野での地域再生プロジェクトなど多岐にわたって活躍されるアタカケンタロウさんに、これまでの作品や現在進行中のプロジェクトも含めてレクチャーをしていただきながら、これからの社会で「建築家」に求められる職能、そしてその可能性についてお話を伺った。
― 建築家として独立するまで
玉井 建築を志したきっかけについて教えていただけますか。
アタカ 両親が工芸家だった影響もあって、はじめは美術関係の何かに行こうと漠然と思っていました。でも工芸家ではなくて、どちらかというといろいろなもののデザインの仕事がしたいなと思っていたんです。中学2年の時に2ヶ月間ヨーロッパに行って、観光名所的にマッキントッシュとかガウディなんかを見ていたんですが、ガウディのカサ・ミラの1階の床がうねって坂道みたいになっているのなんかを見て、日本では見たことがない空間だなって思った覚えがあります。自分が今まで見ていた世界や建物がものすごく狭い範囲のもので、実はもっといろんな可能性があるのかもと、そのとき思いました。具体的に進路を決めたのは高校1年の冬で、内井昭蔵さんがつくった世田谷美術館で「大エジプト展」かなんかを観にいった時に、ある敷地の範囲の中で人が生活する世界を全部コントロールできるっていうのはすごいのかもと、はたと思ったんですよね。それでデザインをやるんだったら建築をやって、大きいものから小さいものまで全部つくりこむような仕事ができるようになったらいいなって思って、その帰り道に「藝大の建築科に行く」って宣言した覚えがあります。
玉井 東京藝大での学生生活ではどのような影響を受けられたのでしょうか。
アタカ 藝大に行って一番大きかったのは同級生の存在だと思います。藝大の建築科は1学年17人しかいないんですよ。僕の代は中山英之とか長坂常とか、西澤徹夫とか。大学院に行ったときに石上純也が同じ研究室に入ってきましたし、もう一人は河内一泰でした。大学院の1つ上の学年には中村竜治さん、下の学年には山口誠もいました。たぶん藝大の歴史の中で見てもすごく濃い時期で、しかもほかの学年にない仲の良さだったと思います。いまだに飲み会をやると、17人中15人集まったりするんですね。気持ち悪いって言われるぐらい(笑)。
玉井 確かにそれはすごい学年ですね。
アタカ 仲は良かったし、お互いの作品についてのコメントもしていましたけど、やっぱりお互いをライバル視していて、自分の作品はどうあるべきかということをずっと考えていました。そういう中で独立してやっていく姿勢みたいなものがだいぶ養われたと思います。ほかにも藝大には学生に比べて先生がいっぱいいて、設計系の先生だけで5人、常勤助手や非常勤助手が10 人いて、非常勤講師も各課題で変わるから、本当にたくさんの方が関わっている。先生は、ほとんど実際に設計をやっている人たちで、内容も基本的に建築家教育なんですよ。だから学校での雰囲気も、意匠でやっていくかまったく別の道に進むか、っていう感じでした。僕自身は学部時代はあんまり評価されてなくて、でも自分のつくったものは好きだから、選ばれた人しか出れない講評会に勝手に出たりしてたんですけど(笑)、今から思えば独自の道を追求しようとしすぎて周りがちゃんと見えていなかったんだと思うんですよね。その後大学院に行ってから少し状況を引いて見れるようになってきて、今に至るという感じですかね。
玉井 大学院を卒業されてから建築家として独立されるまではどういった経緯があったのでしょうか。
アタカ 同級生の大部分はアトリエ事務所に就職しましたけど、僕はちょうど実家をつくるという話があったので、就職しないで設計をすることにしました。それでやってみたら何とかできちゃって、別にアトリエに行かなくてもいいかなと思っちゃったんですね。大学院を出て藝大の助手になれたこともあって、実家の設計に専念して、細々した仕事もしていたら、いつのまにか独立していたという感じです。独立してやってみたら、大学で教わってきたことはほとんど実務に役に立たないってことがわかりました。基本計画をするときは大学でやっているようなことは役に立つけど、業務の8割ぐらいは新しく覚えたことでしたね。でも何とかなるもので、アトリエ事務所に入って修行しても、自分で見よう見まねで苦労してやるのも、結果的にあんまり変わらないんじゃないかと思います。
― 海外での経験
玉井 アタカさんの作品では、それぞれがユニークな空間体験であったり視覚体験をもっていて、そういうものにフォーカスしてつくられているようにも感じたのですが、それは大学時代から考えられていたことなんでしょうか。
アタカ 学部の課題では、ダイアグラムを描いたり、部屋に名前を付けてそれを組み上げて説明可能なことを考えるとか、組み合わせで新しいものを考えてみたりとかするじゃないですか。でも大学院に入って、はたと考えると、そもそもなんでこの部屋にこの名前がついているんだろうとか、そういう根本的なことに疑問を持ち始めたんですね。それで、この部屋とこっちの部屋は何が違うのかとか、この部屋がある活動にふさわしいって言えるのは何故かみたいなことを考えていったら、だんだん部屋単位での環境の差異よりも、もっと精細に空間の中、部屋の中一点一点に差異は発生しているんじゃないかと思い始めました。それは平面図的な、俯瞰的な体験というよりもその中を動き回る人の目線じゃないと捉えられないようなものなのではないかと。そういったことから実際に設計し始めてからも経験的な視点を重視し始めたんだと思います。それと、大学院の時に休学して半年間ヨーロッパをずっと旅行して、建築を毎日のように見て回ったんですが、有名人に会ったみたいな感覚はあるけど、そこに行ってはじめて得られる何か、価値とか体験といったものが無いものが多いなと、正直思ったんです。だんだんダンスを見たり、演劇を見たりとかする方が楽しくなってきちゃって、建築やめようかなと思った時期もありました。延々と道を歩いてやっと見たものが何の感動も呼ばなかった、みたいな体験もあって。そのときに本当にそこに行って、そこで過ごしたときに価値のあるものをつくらないといけないなって思ったんでしょうね。素直に。建築の設計の技術って俯瞰的な視点で考えられている技術が多くて、それは施工の合理性とかを考えたら当たり前なんですけど、でもその中を歩き回る人の視点で考えると、必ずしも正しくないようなものがいっぱいあるんじゃないかと思っていました。例えば1つの建物だから1つのコンセプトで全部つくるみたいなことも、その中を実際に歩き回る人からしたらどっちでも良かったりするのかもしれないし、1つの建物でいろんな環境を得られた方が利用する人は長年住んでいいなって思えるかもしれない。理想としては一個の形態操作を反復させてつくる、みたいなことじゃなくて、複数の操作系のものが共存して、その総体が建築になっているというものにしたいなって思っています。
― 修士設計
玉井 では具体的に、これまでの作品についてお話しいただけますか。
アタカ 最初にお話しするのは、藝大の大学院での修士設計のプロジェクトです。これは上から見た図です(図1)。人がひとりと木が4本立っていて、その間に壁が2枚立っています。2枚の壁の間から見える視界の範囲というのは、2枚の壁の端を結んだ対角線の内側しか見えません。それは当たり前のことなんですけど、その対角線をどこに設定するのかというのを決めて、それを隣も同じようにして、隣も同じようにして、と延々とやっていくと、どこに行っても同じものが切り取られて見えたり、場所に応じて外の見え方が変わっていくというふうになります。その原理をもとに、いくつかの作品をつくりました。ただの四角い部屋なんですけど、中に入ると、周りの風景が360度見渡せるという領域と、外がまったく見えないという領域が発生しています。さっきいったような対角線を延長した補助線で、どこからどこが見えて、どこが見えないというのを延々と一枚ずつ描いた図がこれです(図2)。もう1つの作品は今の原理を応用して、部屋の4面に対して、それぞれ外部環境への視界の対応を変えています。そうすると、この中を歩き回ると、ある側の視界がだんだん閉じていきながら、そのうしろ側の視界がだんだん開いていくとか、ずっと自分に開口がくっついてくるように見えたりということが起こります。同じワンルームの中でもどこにポジションをとるかで、外の環境とのつながり方のバランスが刻々と変わっていくような空間が生まれるわけです。このときは、ルーバーのアイデア自体よりも、目には見えないけれど、はっきり経験として感じられるような場所の差異をどう発生させるかに興味がありました。