布野 修司|『周礼』「考工記」匠人営国条考 

(4)閭里―街区の構成
 さて,賀業鉅に従って続いて問題にしたいのは,その他一般の街区の構成,すなわち,閭里あるいは国宅の構成である。
 里は,社会構成の単位となる隣保組織として古代より用いられてきた。里は壁で囲われ,門を閭,里中の道を巷と呼んだ。それ故,里のことを閭里ともいった。
 1里= 25 家説,50 家説,70 家説,100 家説など,古文献には諸説ある。賀業鉅は,『周礼』地官大司徒の「令五家為比,使之相保,五比為閭,使之相受,四閭為族,使之相葬,・・・」,そして『周礼』地官小司徒の「五人為伍,五伍為両,四両為卒,五卒為旅,五旅為師,五師為軍,以起軍旅,以作田役,・・・」,さらに『周礼』地官遂人の「遂人掌邦之野・・・・五家為隣,五隣為里,四里為酂」から,里は5家を単位( 比,伍,隣) として,5単位25 家からなり,4里= 100 家で上位単位( 族,卒,酂) が構成されるとする。
 問題は里の規模であるが,賀業鋸は,1閭= 25 戸,戸当たり二畝半,社,里垣,里門,道路など公共用地を合わせて,一つの里の規模を100 畝=1夫とする。以上の根拠は不明であるが,1夫= 100 畝については,「井田制」の基本単位である。
 賀業鉅の想定する街路体系に基づくと,街区は1里×1里と1里×1. 5里の2種類に分かれる。前者を甲類,後者を乙類とするが,後者は,市を含む街区とそれ以外が異なるから,乙類Ⅰ式,乙類Ⅱ式に分かれる。それぞれを賀業鉅に従って示せば,図4fgh のようになる。各図は,閭の大きさがその位置によって異なっており,厳密には考えられてはいない。甲類は8閭,乙類Ⅰ式,乙類Ⅱ式はそれぞれ12 閭,16 閭からなる。それぞれの位置は図4i に示される。
 賀業鉅は,自らのモデルに即して,閭里の居住人口を推計している。それによると王城全体は6万人,480 閭,約57 井からなる。甲類36 里には,人口密度1,000 人/ 井で,7,200戸,3 万6,000 人が居住する。戸当たり5人の計算である。乙類には,それぞれ2.400 戸,12,000 人が住むとする。

(左)図4f (右)図4g

(左)図4h (右)図4i

(5)経涂・環涂・野涂―街路
 『周礼』「考工記」の短い記述の中で,目立って多く触れられるのが街路幅である。「国中九経九緯,経塗九軌」「経塗九軌,環塗七軌,野塗五軌。」「環塗以為諸侯経塗。野塗以為都経塗。」と3ヵ所触れられる。街路幅は,経涂( 緯涂),環塗,野涂の3つのレヴェルに分けられる。既に説明したが,南北道路の幅( 経涂) は車九台分の幅( 九軌) で,『鄭玄注』では軌は8尺,経涂は8 × 9 軌= 7 丈2(72) 尺と考えられる。王城内側を周回する環塗は7軌すなわち56 尺,王城外の野涂は5軌すなわち40 尺である。都城の規模によって異なり,「環塗以為諸侯経塗。野塗以為都経塗。」,すなわち,諸侯城の経涂は王城の環塗,「都」の経涂は王城の野涂とするということである。平安京の朱雀大路は280 尺,大路120 尺(100 尺),小路40 尺であるから,そう大きいわけではない。もっとも,隋唐長安城となると,その朱雀大街は東西100 歩= 600 尺である。
 街路は,匠人営国条では触れられないが,『王制』に「道有三涂」とあり,考古学的遺構からも「一道三涂」制が採られていたことが知られる。中央の一涂を車道,左右を人道とする,また,男子が右,女子が左(「道路男子由右,女子由左,車从中央」『王制』) あるいは「左出右入」,と区分されていた。
 賀業鉅は,経緯涂および環塗の断面形状を図4j のように想定する。また,「都」の野涂,すなわち一般の街路幅を3軌= 24 尺と想定している。

図4j

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