布野 修司|『周礼』「考工記」匠人営国条考
― 3 都城図
(1)周王城図
匠人営国条の以上のようなごく僅かの記述から都城モデル図を作成するには限界があるが,古来多くの論考が積み重ねられ,具体的な解釈を示す都市概念図が描かれ,あるいは記述を何らかの手掛かりにして実際に建設が行われてきた。描かれた都市概念図の代表的なものが以下である( 図1ABCDE )。B,Cは基本的に同じとみていい。
A . 宋・聶崇義の『三礼図』22「周王城図」
B .『元河南志』「周王城図」
C .『永楽大典』23 巻9561(『河南志』収録)
D . 清・戴震の『考工記図』
E .『欽定礼記義疏』付録『禮器図』「朝市廛里図」
(左)図1A (右)図1B
(左)図1C (中央)図1D (右)図1E
各図に共通するのは「旁三門」である。しかし,各図には違いがあって,解釈のずれを窺うことができる。方九里というのであるが,B = Cは長方形に描かれている。「方九里」を必ずしも正方形とするのではなく,面積と考える見方があることがわかる。中でも確認すべきは,A~Cが東西南北,相対する門を3本の道で結んでいることである。Dは,「一道三涂三道九涂」と書き込みがあるから,「九経九緯」の解釈はA~Cと共通である。ひとつの門には三道( 三車線) あり,縦横三本ずつの道で合わせてそれぞれ九車線となる。すなわち,歴史的には,「九経九緯」は,縦横九本ずつの道と必ずしも解釈されてはこなかったのである。
街路体系に加えて,各図には建物配置についていくつかの解釈が示されている。A,Cは文字の書き込みはなく情報量は少ないが,Cの中央には4行3列の建物が描かれている。同じBは,正宮を中心に,小寝五,小宮五の建物が描かれる。また,手前下部に面朝,上部に東市と書き込みがあるDの中央には六宮六寝,三朝と,社稷,宗廟の書き込みがある。六宮六寝は匠人営国条にはないが,魏晋以後,ひとつの空間形式として解釈されてきた。寝は王の公私にわたる生活の場であり,宮には后以下夫人,女御などが分居する。六寝( 大極殿( 前殿,後殿),東堂,西堂,東閣,西閣) と六宮( あるいは後宮) は南北に並べられる。三朝とは,内朝,中朝,外朝をいう。B = Cの場合,環涂は城壁外にめぐらされているが,いずれにせよ,A~Dにおいては,環涂は「九経九緯」に含められてはいない。
日本で最初にこの「考工記」の解釈を試みたのは那波利貞である24。そこで取り出されたのが「前朝後市」「左祖右社」「中央宮闕」「左右民廛」の原則であるが,その基になったのがE .『禮器図』「朝市廛里」である。これは王城全体を図化したものではない。「旁三門」ということで,各辺三門を道路で結ぶと16 分割になるから,ナイン・スクエア(3× 3 = 9) すなわち井田形に分割するパターンの都市計画図には問題が生じることになる。礪波護25,村田治郎26 がつとに指摘するところであるが,実は,このナイン・スクエア(3× 3) 分割と「旁三門」(4 × 4) 分割をめぐってモデル図面は異なることになる。当然と言えば当然である。
鍵となるのは「方九里」である。九という数字は,繰り返し指摘するように,九機,九州,九服のように極めて理念的な数字である。「九経九緯」もまさにそうであり,上に掲げた匠人営国条にもやたらと九という数が出てくる。単なる理念,象徴( 聖数) とみなすのではなく,具体的な数字と考えると,「里」を単位として全体を9 × 9 = 81 区画に分割するのが自然である。「方九里」の正方形を各辺一里ずつ9分割すると,1区画は方一里,すなわち,方300 歩である。方300 歩は「井田制」の基本単位である。
しかし,「九経九緯」を縦横の道と考え,さらに「旁三門」という数字と整合させようとすると,上述のように問題が生じる。「九経九緯」に,城壁沿いの周回道路である環塗を含めるかどうかで異なるが,いずれにしても,9 × 9 = 81 分割とすると,「八経八緯」か「十経十緯」となって合わない。わざわざ環塗の幅員について記すのだから「九経九緯」とは別だと考えると,全体は10 × 10 = 100 区画となる。
環塗が「九経九緯」に含められていると考えると全体は8 × 8 = 64 区画に分けられる。要するに,「九経九緯」の内側には64 の空間単位が区切られ,外側を含めると10 × 10= 100 の空間単位が出来る。どちらもありうるが,後者の場合,「旁三門」を均等に配置できない。前者の場合,全体は,それぞれ4区画からなる4 × 4 = 16 の大区画に均等に分けることができる。
「旁三門」の3門の間隔は等しく配置したいと考えると、1辺は4分割するのが、都合がいい。だとすると,8 × 8 が自然である。応地利明(2012) は,この8 × 8 = 64 分割を『周礼』「考工記」の基本モデルとする( 図2)。しかし,この場合,「方九里」と整合しない。「旁三門」の均等配置と「方九里」のどちらかを重視することになる。
この問題を解決するためには,3と4の公倍数である12 で全体を分割するモデルが考えられる。実際,そう考えた建築家がいる。ボードーパヤー王のアマラプーラとミンドン・ミン王のマンダレーの建築家たちである( 図3ab,布野修司(2006))。このモデルによれば,「旁三門」は,等間隔に配置できるし,「九経九緯」を三道( 三軌) ×3と考えれば,ひとつの解答になる。
繰り返せば,問題は「方九里」という理念と数の体系ということになる。
(左)図3a (右)図3b
22 宮室についての全文とその解釈は,田中淡の論考(「第1 章 「考工記」匠人営国とその解釈」『中国建築史の研究』,弘文堂,1989 年,5 ~ 26 頁) 参照。
23 中国明代に編纂された中国最大級の類書 22,877巻・11,095 冊・目録60 巻, 永楽6(1408) 年の成立。嘉靖41(1562) 年に,原本の他に正副の二本がつくられ,隆慶年間(1567 年 ~ 1572 年) の初めに完成した。原本は南京,正本は文淵閣,副本は北京の皇城内に置かれた。
24 那波利貞,「支那首都計画史上より見たる唐の長安城」,『桑原博士還暦記念・東洋史論叢』,弘文堂,1931 年。
25 礪波護,「中国の都城」,『日本古代文化の探求・都城』上田正昭編,1976 年。
26 村田治郎,「中国帝都の平面型」,『中国の帝都』,綜芸社,1981 年。
27 賀業鋸,『考工記営国制度研究』,中国建築工業出版社,1985 年。『中国古代城市規画史論叢』,中国建築工業出版社,1986 年。