
ハレとケの通り/祝祭と日常の広場|宮田大樹
Street for HARE and KE / Square for celebration and daily life | Hiroki MIYATA
クリスマスマーケット
11月も終わりになると、ドイツの都市の広場はクリスマスマーケットへ変貌する。都市のど真ん中に空いている広場はこの日のためにあるかのようだ。クリスマスマーケット以外でもこうした広場はライブ会場や政治的集会の場など広義の祝祭のための場として使われている。
ここで注目したいのは、「都市に空いている」広場が特別な日以外の日、つまり日常においても都市の核として機能している場合が多いことだ。こうした広場では例えば、近隣の飲食店の席があふれ出していり、小さな屋台がカリーブルストを売っていたりする。こう考えると、広場は祝祭の場としてデザインされたわけでも日常の場としてデザインされたわけでもなく、都市の核の空間として先に存在し、そこに意味づけが行われているようにみえる。
ここでは、まちの中での祝祭と日常の現れ方を起点に、都市の持つ意味との関係性についての気づきを書き綴ってみたい。
祝祭と日常の広場
広場が欧州の都市において祝祭の場となるのは妥当であろう。神聖な場である教会や議場等に対し、広場はその祭りを祝うためのより世俗的な場といえると考える。
多くの広場は、ミラノのドゥオーモ広場のように教会の前にあったり、アムステルダムのダム広場のように王宮の前にあったりする。ベルリンのルストガルテンはもとは王宮の庭園であったがのちに広場となり、さらに一時期は王宮が社会主義政権のもとで議場となったことで、議会前の広場にもなっていた。また、別の例では、テッサロニキのアリストテレオス広場は、海に面するように作られている。テッサロニキはエーゲ海に面する海のまちで、海岸線を歩いていくとこの広場が現れる。
こうしてみてみると、広場はその都市の意味を表す場に作られているのではないか。また、都市まではいかずとも、小さな広場はその地区の意味を表す場にあるといえるのではないか。これは祝祭と日常の両方において合理的である。日常では、広場が人が集まりやすい空間となれば、より多くの市民が広場に現れる都市の意味を基に都市のイメージを形成する。そして、祝祭においては、その都市の意味と祝祭の宗教的・政治的・文化的意味が重なることで、祝祭のその都市における重要さが強調される。
日常も祝祭も広場に重なるものであるならば、広場とはよく言われる祝祭のための舞台装置というよりは、むしろ、空間的な都市の意味の表現装置という方が妥当ではないだろうか。祝祭や日常の場として人々に利用され、その営みの中で広場の持つ都市の意味が認識されていくのだ。
ここでいう都市の意味とは、人々がその都市を認識する際に、都市に見出す意味である。これは例えば、海のまちや教会のまちというような、都市を説明する際に現れる意味である。

ハレとケの通り
祝祭と日常は、日本では「ハレとケ」という神道的な概念で表されるのはみなさまご存知の通りである。ケ(=日常)が繰り返されることで穢れるため、それを祓うためにハレ(=祝祭)が必要になる、と柳田國男をはじめとした民俗学者は述べている。つまり、ケが本であり、ハレが迹であるという関係性があり、ハレとケは対等ではない。また、宗教学者の島田裕巳によると、本来の神道的な空間認識の特徴は、神聖な空間が「ない」ことであり、ある場所が神聖な場になるのは参加者の一時的な約束による。
こうした観点を踏まえると日本のハレの都市における現れ方が解釈できる。日本では神聖な場として神社があるが、それを祝う場は通りにあると言えるのではないか。これは先ほど欧州の例で神聖な場としての教会や議場、それを祝うための広場とした関係性と同様だ。欧州における広場に対応するのは日本では通りだと考える。通りは基本的にはケのために作られた空間だ。このケの空間は、ハレの日には、人々が約束することによって、ハレの空間へと変わる。四条通は祇園祭の時にはハレの場に変わるように。
次に、都市の意味の現れ方について考えてみよう。どの通りを選ぶかに空間的な制限はない。そのため、都市の意味がどう認識されるかは、どの通りをハレの空間として選ぶかに依る。そして、これはケの中で重視される通りである。また、神道においては地域に応じて関連する神を祀る場合も多いため、神社への参道の場合は、単に神社を表すのでなく、祭神を通じて都市の意味を表すこともある。このとき、ハレの空間を、一時的に、純粋たるハレの空間である神社から、仮のハレの空間である通りへ延長していると言える。こうして、ケの中で都市の意味を強く表す通りが、ハレの場として選択され、都市の意味が人々の中で増幅されていく。
都市の意味が宿るのが空間か時間か
ここまで考えたことをまとめると、欧州では、都市の意味は広場に現れ、広場は祝祭と日常に先行して存在する。広場は祝祭の場となったり日常的に人々に使われることで人々は都市の意味を認識してゆく。対して、日本では、都市の意味はハレの空間として選ばれる通りに現れ、通りはケの空間として作られる。都市の意味は伝えられるのではなく、ケの中で生まれた意味がハレの空間として選ばれることで増幅される。
このことから、都市の意味が欧州では広場の存在という空間に現れるのに対し、日本ではハレの空間への一時的変化という時間に現れると言えるのではないか。これは、宿泊施設の客室に泊まるのが広場的で、誰かの家に泊まるのが通り的とも表現できる。劇場で演劇を見ることと公園で紙芝居を見ることの対比にも似ている。広場は自由な空間そのものが確かに存在し、その中で様々な行為や人々を受け入れることができる。通りはある時間において他の役割にも転用可能だが、もとの空間は別の役割が存在し、その役割を担う空間はたやすく代替可能だ。
こうした広場と通りの違いは、祝祭と日常は対等なものである一方で、ハレがケに従属するものであるということを空間的に表しているともいえる。祝祭と日常は広場を交互に利用する一方、ハレはケの空間である通りを間借りするしかできないからだ。
広場と通りの安定性
広場と通りを比較したときに、都市の意味の表現装置として安定しているのは、広場だといえる。これは祝祭の場またはハレの場として、広場は静的であり、通りは動的なことによる。
簡単に言えば、広場はその空間が破壊されない限り都市の意味が保存できるが、通りは人々がハレの場として約束することをやめた途端に都市の意味を保存できなくなるという違いである。
これは現に存在するという空間の強さを現している。藤森照信が全ての建築物には基本的物権がある根拠に、人はモノに自己同一性を求めることと建築はそうしたモノの中で最大であることを挙げるように、空間は人間が作るモノの中で最も安定性の高いものの一つであると言えるのではないか。また、マニュエル・カステルは、スペースオブフローがスペースオブプレイスを浸食していると述べている。こうした中で広場は空間的同一性を拠り所として、祝祭と日常を繰り返すことで時間的同一性を再獲得する可能性が通りよりは高い。なぜならば、通りはそもそもがハレとして約束されている時間的同一性に本質があり、瞬発的時間を伴うスペースオブフローの浸食の前では、その拠り所を失い、それに伴って空間も選択されないので空間的同一性も失われることになりやすい。
欧州の広場も観光をはじめとする経済のルールに浸食されているのは感じるが、その前にある空間的同一性の強さが最後の砦として機能しているように感じる。
約束を確認する装置としての通りへ
祝祭と日常の場として空間的に先行し安定して存在するのが広場であり、ケのための空間として作られ、動的で不確かな約束という形で一時的にハレの場になるのが通りである。それゆえ、都市の意味は、それが既に空間として用意されている広場の方が、約束がないとケの中で用意されたそれを増幅できない通りよりも、有利に維持しつなぐことができる。
しかし、逆に考えれば、先行して空間が存在する広場はそこを舞台とする祝祭と日常のバランスへ介入することは困難であり、広場が消費の場となって行けば、そこに現れる都市の意味は単なる消費対象へと変化することも十分に考えられる。一方、ケの中で現れる都市の意味を約束を通じて増幅させる通りは、人々がハレの空間として約束さえできれば、日常(=ケ)に根差して更新され続ける都市の意味を表し続けることができる。通りを媒介する都市の意味の解釈は不安定であるからこそ、消費対象へ変化してしまう前に、ケが作り出す等身大の都市の意味を適切にハレの空間として選択すれば更新することができるのだ。
ここで鍵になるのは、ハレの空間としてどう約束するかである。空間的な自律性を高めつつ、伝統的歴史的な祭りに囚われないハレの約束は求められる。その実現のためには、広場のように通りに空間性を与えつつ、ケの中で生まれ続ける都市の意味と共鳴するハレが生まれるような空間的時間的システムが必要だ。そして、これは空間というものの強さを考えれば、都市の中でシステムを織り込んだ空間デザインとして実現できるのではないかと考える。例えば、現に都市の意味と共鳴している通りにおいて、ハレの空間として選択される可能性も見据えた上で、歩ける空間ならぬ活動できる空間としてデザインしなおし、その通りの日常での利益に寄与する施設を設けることが考えられるのではないだろうか。私はこうした意味生成型の都市空間が必要になるように思えてならない。
参考文献
[1] 島田裕巳,神道はなぜ教えがないのか,扶桑社,2023.
[2] 藤森照信,建築とは何か藤森照信の言葉,エクスナレッジ,2011.
[3] マニュエル・カステル,都市・階級・権力,法政大学出版局,1989.
宮田 大樹(みやた・ひろき)
京都大学大学院工学研究科建築学専攻、小林落合研究室修士2年。卒業設計の敷地とした瀬戸市、京都市北部や近江八幡市等で地域に関りながら建築に向き合う。同期8人で起業し、建築プロダクト制作や卒計共有サイトKenchizuを運営している。dxk’24 8選、寺町京極商店街美術館採用、宇宙建築賞特別賞、京都市輝く学生応援アワード特別賞など。