
男木島のこと|野上 乃愛
On Ogijima | Noe NOGAMI
はじめに
また来てねーーーーーーー!
2023年8月19日。瀬戸内海に浮かぶ小さな離島・男木島で、1泊2日の島暮らし体験イベントを終えた参加者親子たちが日常に帰っていく。学生時代最後の夏休みの只中にあった私はその日、「S T A F F」と書かれたカラフルなTシャツの袖を肩まで捲し上げ、親子たちを乗せて島を出ていくフェリーに向かって、ひたすら大漁旗を振っていた。隣には島民の中学生が2人と、私と同じく島の「常連」であるボランティアスタッフの女性が1人。そう、「また来てね」なんて言ってしまっているけれど、私もこの女性も、実はこの島の住人ではない。夕方になればあの親子たちと同じように、フェリーに乗って島を出て、それぞれの日常に帰っていく。でも、思わずそう叫んでしまいたくなるほど私はこの島が大好きで、今フェリーから手を振り返してくれているあの人たちにもそう思って欲しくて、本当にまたここで会えたらいいと思って、そう叫んだのだった。
男木島との出会い
私が初めて男木島を訪れたのは、大学生になったばかりの頃だった。前から行ってみたかったわけでも、特に目的があったわけでもない。大学生活があまりにも自由すぎて、暇すぎて、せっかくだから何かしなければと、捻り出すようにして考えついたのが、「知らない場所に行ってみる」というものだった。当時買ってもらったばかりのパソコンを使って、たまたま見つけた行き先が男木島だった。
男木島は瀬戸内海にある島々のうちの一つで、香川県高松港からフェリーで40分のところにある。島の面積は約1.34㎢、集落を端から端まで歩いても、30分ほどしかかからない小さな島だ。最初に島を訪れた日、集落の飲食店はすべてが定休日で、道にはほとんど人通りもなかった。しかし、急な斜面に沿って密集して立ち並ぶ古い民家とその間を狭い路地が張り巡らされた立体迷路のような街の構造は、私がこれまで訪れたどの場所にも似ておらず、夢中で散策しているうちに気づけばすっかり日が暮れていた。
島のおとうさんとおかあさん
その日の宿は、集落のはずれで島民夫婦が営む民宿だった。客が宿泊するのは、夫婦も暮らす民家の2階にある3部屋。旅先というよりは親戚の家に泊まりに来たような感覚の宿である。食事は漁師であるおとうさんが釣ってきた魚を使いおかあさんが作ってくれる。うまいうまいと言いながら食べていると、上機嫌なおとうさんが島の歴史を教えてくれた。
「おれが小さい時はな、この島もいっぱい子供がおったんで」
「みんな家で牛を飼っててな、大きくなったら高松の農家に貸して働かせるんで」
この静かな島にも、かつてはたくさんの子供たちや牛たちが行き交っていたのだ。おとうさんが子供の頃、この島にはまだ1000人ほどの人々が暮らしていたというが、今やその人口は200人を下回って久しい。テレビや教科書で見た「限界集落」という文字が頭に浮かんだ私に、おとうさんは最近の島のトピックについて話し始めた。
「外出たところに壁に絵描いとるやろ」
「あれは最初の芸術祭の時にアーティストの人が描いてくれたんで」
そういえば島内のあちこちに、不思議なオブジェや壁画があった。島に芸術家でも住んでいるのかと思っていたが、あれらはすべて2010年に始まった瀬戸内国際芸術祭に参加した世界中のアーティストたちによるものだったのだ。この島が単なる限界集落ではなく、芸術祭の舞台として世界中にファンがいるということを、私はこの時初めて知った。
瀬戸内国際芸術祭と男木島
おとうさんから芸術祭について教えてもらったあの夜から約1年。私は芸術祭のガイドブックに大量の付箋をつけ、再び男木島を訪れた。芸術祭会期中の島内ではさまざまな国籍の老若男女が細い路地を行き交い、写真を撮り、芸術鑑賞を楽しんでいる。最初の訪問では軒並み準備中だった飲食店で私は、この島では若い移住者が人口の3分の1を占めており、そのほとんどが島民から空き家を譲り受けて暮らしている、もともとこの島には縁もゆかりもない人たちであることを知った。この出来事をきっかけに私は、これまで余所者として島を楽しんでいた自分自身にも、移住者としてこの島に入っていく可能性があることを意識し始めるようになった。
卒業設計
4回生になり卒業設計のテーマを決める頃には、私はすっかり島の「常連」になっていた。島内に知り合いも増え、最初の頃は迷路のように感じていた路地も、今では迷わず歩くことができる。卒計をやるなら、ここしかないと思った。最初のエスキスで先生に「男木島に移住し、空き家を自邸として改修します」と伝えた時、先生は私が持ってきた集落の写真を見ながらこんなことを言ってくれた。
「本当にその島のことが好きなら、集落の100年後まで想像しないといけないよ」
自分が住んで終わりではなく、次の移住者や産業に繋げるためにどんな建築を作るべきか。自分が打った一手によって街全体にどのような影響を与えるのか、きちんと責任を持ってデザインしなさいという教えだった。
それからおよそ半年後。私が提出したのは、住み手の人生に合わせて段階的に形を変える6軒の住宅と、その先も島内の建築に手を加える際の形態的なルール、そしてそれらの影響が集落全体の街並みやコミュニティにまで広がりを見せた、100年後の島の姿だった。この作品をきっかけに初めて男木島の存在を知り、実際に足を運んでくれた人も少なくなかった。
移住者と話す
大学院に進むとき、研究の舞台に男木島を選んだのは、卒計を作っているうちに湧き出たこんな疑問がきっかけだった。
「こんな坂だらけの過酷な場所に、なぜ移住者が増えているのか?」
冒頭でも紹介したが、男木島は斜面に沿って階段状に民家が建ち並び、平地はほとんどない。それゆえ集落内ではどこへ行くにも急な坂道か階段を登っていく必要があり、その道幅はほとんどが1メートルにも満たない。自動車は集落の中には入れず、島外から男木島へ引っ越す人はまず荷物をフェリーで港まで運び込み、そこから新居まで人力で持ち上げる必要がある。そして厄介なことに、たどり着いた新居がそのまま住めるような状態であることはほとんどない。空き家は床が抜けているか天井が抜けているか、そうでなくてもどこかしらの修繕は不可欠な状態にある。工事をするにも、やはり全ての物資を人力で運んでくる必要がある。島に知り合いもいない移住者が生活を始めるには、あまりにハードルが高すぎやしないか。
この謎を解くために私は、移住者たちに実際に改修した自宅を見せてもらいながら、移住を実現した経緯を教えてもらうという方法で研究を進めた。詳しい分析などは割愛するが、何度も島に通い様々な話を聞くうちに、この島の中には、ひとつの住宅を大切に住み繋ぐための驚くほど豊かな助け合いの文化が形成されていることがわかってきた。過酷な引っ越しや改修工事は、それを経験することで他の島民たちとの関係性を築き、今度は自分が次の移住者を迎え入れる立場になっていくための、通過儀礼のような役割を果たしていた。外から訪れた人間を魅了し、ここに住みたいとまで言わしめる温かいコミュニティや独特の景観は、一見すると人口を獲得するのに不利だと思われる急斜面や細い路地によって、むしろ守られていたのだ。卒業設計の時、つぎはぎだらけの民家やでこぼこの路地を見て、いろんなことを勝手に心配していた自分を恥ずかしく思った。男木島のように便利な交通網やサービスがなくても、たくさんの人に大切に思われながら、様々な形でその美しい文化を紡ぎ続けている場所が今の日本にはまだたくさんあるのだろう。たとえそれが生まれ故郷ではなかったとしても、そこに居場所を見出し、どうか消えてしまわないでほしい、100年先もこの場所を残したいと願う気持ちを知れたことが、この研究で得られた一番の財産だったと思う。
さいごに
大切な学びを得た研究の日々から1年以上が経ち、私は今、社会人2度目の夏休みの只中でこの文章を書いている。学生の頃に比べると訪れる機会は減ってしまったが、今でも男木島は大切な場所で、この休みにも何日か滞在する予定だ。今年は芸術祭が開催される年でもある。島内はきっと沢山の人で賑わっているだろう。中にはかつての私のようにこの島の魅力に取りつかれ、この先何度も島を訪れることになるような人もいるかもしれない。そんな同胞といつか島で会える日があれば、その時はまたあの日のように大漁旗を振りながら、小さくなっていくフェリーに一緒に手を振れたらと思う。

野上 乃愛(のがみ・のえ)
京都大学工学部建築学科卒、同大学院工学研究科建築学専攻修了。現在、某ゼネコン設計部、インテリア部門所属。