栄螺と辨天|岩本 馨
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日本の巡礼の構造について考えたい。
巡礼の「巡」は「めぐる」と訓む。ある特定の聖地に向かって一直線に進む西洋のPilgrimageとは異なり、日本の巡礼は通常複数の聖地を「めぐり」、全てを参り終えるとまた出発地へと戻ってくる円環状の構造をとっている。阿波国から讃岐国まで、時計回りに88 の寺院に参拝することで四国を一巡する四国八十八所遍路などはその分かりやすい例であろう。
しかし元の場所に戻るからといって、「ふりだしにもどるわけではない。巡礼という宗教的な実践を経ることで、再び訪れる出発地=1番札所は、巡礼の一歩を踏み出した時の1番とはもはや別の場所として映るはずだからである。巡礼者はもはや高みにいる。その意味では、日本の巡礼とは円環状というよりは螺旋状の構造といった方が正確なのかもしれない。
日本の巡礼のもう一つの特徴として、自在な「写し」がある。日本で最初に登場した大規模巡礼であった西国三十三所巡礼は近畿地方一円にまたがるもので、その総行程は1,000km を超える。交通環境が未整備で治安も不安定であった時代において、人々が巡礼を果たすことは容易ではなかった。巡礼の功徳にあずかりたい人々が、巡礼に対するハードルを少しでも下げるために考え出したのは、自分たちが暮らす土地に縮小版の巡礼を創設することであった。これを「写し巡礼」という。
写し巡礼はスケールも自在である。巡礼コースがある特定地域を一巡するものもあれば、特定の都市の輪郭をなぞるようなものもある。寺院単独でつくる場合は境内の遊休地を利用してつくることもできるし、さらに凝縮するならば一つの建築の内部に収めてしまうことすら可能である。これを仮に「巡礼建築」と呼ぶことにしよう。
例えば西国三十三所の巡礼建築であれば、三十三所の本尊をお堂の中に並べてやるというのが一番単純なかたちである。しかしこれではいかにも味気ないと思われたのか、巡礼建築の内部に「巡る」という行為を内包させた建築が考案されることになる。栄螺(さざえ)堂の誕生である。
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栄螺堂とは、巻き貝のサザエのように内部が螺旋状になっていて、通路を巡りながら上層に達することができる構造の仏堂のことをいう。
栄螺堂建築は、江戸本所にあった黄檗宗羅漢寺(現江東区)の住持が初めて構想し、安永9年(1780)に完成させたものであるという(小林文次「羅漢寺三匝堂考」『日本建築学会論文報告集』第130号[1966年])。この堂は安政2年(1855)の大地震と翌年の台風で大きな被害を受け、明治7~8(1874~75)年頃に取り壊されてしまい残念ながら現存しないが、絵画や写真などの記録は残っておりその姿を知ることができる。この堂は、外観は二重になっているが、内部は実は3階で、しかも一部にスロープが用いられて螺旋状につながっている。各階には秩父三十四所、坂東三十三所、西国三十三所の観音像が祀られていて、したがってこの堂を参拝する人は通路を三周する間に西国坂東秩父の百観音巡礼を擬似的に達成することができるのである。この三周というのは仏教では「三匝(さんそう)」といい、それゆえ羅漢寺の栄螺堂は「三匝堂」とも呼ばれた。しかもこの三匝は単に同じレベルをぐるぐる巡るのではなく、一周するたびに一つ高みに上がるようになっている。冒頭で示した巡礼の螺旋構造が見事に空間化されていることが分かるだろう。
最上部に上がった先には展望台が待っていた。当時の浮世絵にはこの展望台から富士山を眺めている人々の姿が描かれている。実はこの栄螺堂は羅漢寺の他のお堂とは軸線が少しずれて建てられていたようで、それはどうやら富士山の方角に向けるためであったらしい(金行信輔『写真のなかの江戸』[ユウブックス、2018年])。巡礼の後にはご褒美まで用意されていたのである。
この羅漢寺の画期的な建築は評判を呼んだようで、その後日本各地に栄螺堂建築が建てられていくことになる。そのうち現存するものは数えるほどしかないが、その中でとりわけ完成度が高いものに、福島県会津若松市に残る旧正宗寺三匝堂(国重文)がある。
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「会津さざえ堂」として知られるこの建築を実際に見てみたいと昔から思っていた。とはいえ京都から福島県は遠い。ようやく機会が訪れたのは数年前のこと、仙台で所用があったときを逃さず、帰洛を一日遅らせて会津に寄り道することにした。 郡山から快速電車に揺られること1時間12分、終点の会津若松は福島県西部の中心都市である。この町を「若松」と命名したのは豊臣秀吉の家臣であった蒲生氏郷であったが、その後城主は上杉氏、蒲生氏(再封)、加藤氏と短期間で入れ替わり、寛永20年(1643)に保科正之が23万石で入る。保科正之は2代将軍徳川秀忠の庶子であり、それゆえ以後の会津藩は徳川将軍家を支える家門として重きをなした。それがまた幕末の会津の悲劇へとつながっていく。
駅前には2人の少年の銅像がある。白虎隊の像である。幕末の動乱の中で佐幕を貫いた会津藩は戊辰戦争で朝敵の烙印を押され、新政府軍の生贄の対象となる。白虎隊の少年兵たちは藩を守るべく戦うが敗れ、飯盛山で集団自決という最期を遂げる。これにより白虎隊は会津の悲劇の象徴となった。
この飯盛山が実は今回の旅の目的である栄螺堂の所在地でもあるというのは、恥ずかしながらここに来るまで意識していなかった。旧城下からは外れた東郊に位置しているのであるが、会津若松駅からは観光用の周遊バスが出ていて、わずか5分ほどで麓まで連れて行ってくれる。 バス停からは飯盛山に向かう広い参道が延びている。両側には土産物店が建ち並び、観光客を待ち構えている。やがて長い石段が始まる。脇には「動く坂道」と称されるエスカレーターも併設されてはいるが、しっかり有料であった。動力に頼らず汗をかきかき登り切った場所が白虎隊の墓地となっていた。手を合わせるが、肝心の栄螺堂が見当たらない。あらためて地図を調べ直してみると、どうやら途中にあった土産物店の脇の道を入らねばならなかったようだ。少し引き返し、右旋回する道を辿っていくと、写真で何度も見たことのあるお堂が前方に姿を現した。
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会津さざえ堂こと、旧正宗寺三匝堂が建てられたのは寛政8年(1796)で、羅漢寺三匝堂の16年後に当たる。現存する栄螺堂としては寛政5年築の曹源寺栄螺堂(群馬県太田市、国重文)がより古いものであるが、羅漢寺や曹源寺の栄螺堂は方形二重塔の外観で、内部ではスロープが部分的に用いられていたのに対し、会津のそれは六角形の平面を有し、内部は全面的に螺旋状のスロープで構成され、その構造が外観にもあらわれているなど、建築としての存在感の強さは圧倒的である。
大人一人400円を支払い、内部に入ってみる。正面にはこの栄螺堂を建設した郁堂禅師の像が祀られ、ここから時計回りにスロープの通路が延びている。このスロープは二重螺旋構造になっていて、入口からは時計回りに一周半して上部に達し、下りは別の道を反時計回りに一周半して合わせて三周=三匝するかたちになっている。ここも羅漢寺の場合と同様、壁沿いに西国三十三所の本尊が祀られており、したがってこれは巡礼建築として造られたことになる。
実際に内部を歩いてみると、登っているときは下っている人の、下っているときには登っている人の気配だけが間近に感じられるのは二重螺旋構造ならではの空間体験であった。最上部は羅漢寺や曹源寺のような展望台は設けられていないものの、小窓が開いていて会津若松の市街地を見下ろせるようになっている。
こうして念願の栄螺堂を実見して内部も歩くことができて感慨深いものがあったのであるが、一方で腑に落ちないところもあった。一つはスロープ内側の壁に設けられている祭壇である。ここにはかつては三十三観音が祀られていたはずであったが、今やその姿は全く消えてしまっている。そしてもう一つは、この栄螺堂が建てられたのがなぜ飯盛山であったのかという点である。そもそも正宗寺とはどんなお寺であったのか。
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後者の疑問は、栄螺堂を出て正面にある石段を下ったところでだんだんと解けてきた。石段の下には水路が流れており、その水路の前には厳島神社という社が建っていた。案内板によれば、この社は近世までは宗像社と呼ばれており、その別当寺(神仏習合の時代、神社を管理した寺院のこと)をつとめていたのが正宗寺であったという。
そして、この宗像社の成立は目の前の水路と関係していた。この水路は自然の川ではなく、戸ノ口堰(とのくちぜき)と呼ばれる用水路であった。
会津若松から東に山を越えると、日本で四番目に大きい湖である猪苗代湖に達する。この豊富な水資源を活用して原野を開拓すべく、元和9年(1623)から湖から取水する用水路の開削が始まり、長い工事の末に元禄6年(1693)に会津若松城下に達した。
宗像社の祭神は市杵嶋姫命(イチキシマ=厳島)で、神仏習合では辨財天(辨天)とされる。いずれも水と関係の深い女神である。案内板によれば、この神社は永徳年間(1381 ~ 84)に社殿が建てられ、元禄13 年(1700)に会津藩主から土地の寄進を受けたとあるが、前者については疑わしい。先述した戸ノ口堰の開通時期を考えると、後者が実際の成立時期である可能性は高いといえよう。こうして用水の開通が辨天を生み、そして飯盛山は辨天山とも呼ばれるようになったらしい。人々に水という直接的な恵みをもたらしてくれる辨天は、現世利益を謳う観音信仰とも親和性が高かったのであろうか、観音巡礼を内包する栄螺堂がこの飯盛山=辨天山につくられることになったのも自然な流れである。
近世の本末帳で正宗寺を調べてみると、会津若松城下の臨済宗実相寺の末寺としてその寺名を確認することができる。栄螺堂の建設者として入口正面に祀られていた郁堂禅師は、この実相寺の40世住職でもあったようである(日本歴史地名大系)。会津若松城下では宝永年間(1704~11)に「町廻り三十三所」と呼ばれる三十三所観音巡礼が開創されたというが、実相寺はその第8番札所として位置付けられていた。そうした環境から推察すると、郁堂はもともと三十三所の観音巡礼に親近感を有しており、また江戸の新名所となった羅漢寺三匝堂の評判を耳にして、辨天信仰でも知られる飯盛山に栄螺堂を建立することを思い立ったということになるだろうか。
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このようにして水が辨天を呼び、辨天が栄螺を呼ぶことになった訳であるが、もう一つこの水が引き寄せたものがあった。白虎隊である。
戊辰戦争で会津藩が新政府軍の標的とされたことは既に触れれた。慶応4年(1868)8月21日、新政府軍は母成峠(現福島県郡山市・猪苗代町境)を突破して会津藩領に進軍する。これを受けて、本来は予備隊として位置付けられていた白虎隊は味方の救援のために22日、猪苗代湖西岸の戸ノ口原で新政府軍を迎え撃つが、敗れて会津若松城下を目指して退却する。この時の少年たちの敗走ルートとなったのが、天保6年(1835)の改修で造られた戸ノ口堰用水の隧道であったという。隧道をくぐり抜けた戸ノ口堰用水は飯盛山の麓で地上に出る。そこには辨天を祀る宗像社があった。23日の朝、傷つき疲れ切った少年たちはここから彼らにとっての終焉の地となる飯盛山=辨天山へと登っていくことになる。おそらくは栄螺堂を目の前に見ながら。
それから一ヶ月にわたる激戦の末、9月22日に会津藩は新政府軍に降伏し、会津での戦いは終わった。その後、この地にも維新の荒波は襲う。廃仏毀釈という愚行はこの地においても例外ではなく、正宗寺は廃寺とされ、宗像社は厳島神社と改められて仏教色を剥ぎ取られた。この時に栄螺堂も破却されてもおかしくなかったところであったが、その超絶技巧が惜しまれたのであろうか、堂は人手に渡り破壊を免れた。しかしその堂から三十三観音は追放されており、残ったのは魂を取り出された、いわば貝殻というべきなのかもしれない。その「貝殻」に明治のひと頃、白虎隊十九士の像が祀られた時期があったのは何とも皮肉な巡り合わせである。