布野 修司|『周礼』「考工記」匠人営国条考
On Ancient Chinese Ideal City Model described in “Zhōu Lǐ”
中国都城の基本モデルを叙述する史料として古来一貫して言及されてきたのが『周礼』「考工記」匠人営国条である。その解釈をめぐって議論は終息することはないであろうが,その断片的な引用による拡大解釈を予め排除するためにも,解釈のための前提条件ははっきりさせておく必要がある。特に都城の空間的編成について,匠人営国条は必ずしも充分に読み込まれたとはいえない。
『周礼』は,周代の官制,行政組織を記した書で,中国古代の礼書,三礼( さんらい)1
のひとつである。周公旦2 の作と言われるが,内容的には疑問視されている。秦の始皇帝の焚書を経て,漢代に編纂されたものが伝わる。すなわち,前漢の河間国の献王劉徳(BC.155 ~ 130) が伝えた「古文尚書」( 河間献王本)3 のひとつで,『周礼』は五篇のみで,冬官は失われており,「考工記」によってそれを補ったものとされる。王莽(BC.45 ~AD.23)4 の側近である劉歆( ?~ 23)5 により捏造されたのではないかとする説もある6。いずれにせよ,『周礼』六官( 篇) のうちの冬官に当たるのが「考工記」であり,その成立年代は他の五官より下がる。「考工記」の成立をいつの時代とみるかは極めて重要であり,様々な解釈の立論に大きくかかわることになる。
『周礼』『儀礼』『礼記』の三書を総合的に解釈する「三礼の学」を作り上げたのは,後漢の代表的儒者である後漢末の鄭玄である。『周礼』解釈に大きな役割を果たし,後世に大きな影響を与えたのは『鄭玄注』である。『礼記』には,戦国・秦・漢の礼家のさまざまな言説が集められているが,現存の『礼記』49 篇は,唐代,『五経正義』に取り上げられ,『鄭玄注』に孔穎達が疏をつけた『礼記正義』が作られ,『十三経注疏』に収められている。「礼」について,『鄭玄注』が後世に大きな影響を与えたことははっきりしている。少なくとも,後漢( 東漢) 洛陽以降の都城建設については,鄭玄の『周礼』解釈は前提となる。
都城の建設は,「天下」,すなわち王権の正統性の問題と大きくかかわる。古代中国において,王朝の交替を正統化する理論とされたのは「天命思想」,そして「易姓革命」である。「天命思想」は,時代を経て,儒教の王権理論の核心となっていく。すなわち,王権の正統性をめぐる理論と議論には,儒教の国教化の過程が大きくかかわっている。
儒教の経典とされる『詩経』『書経』『春秋』『周易( 易教)』『礼記』『楽経』の「六経( りっけい,りくけい)」について,『史記』( 司馬遷) は全てを孔子が編纂したとするが7,早くに全てが失われた『楽経』を除くと「五経( ごけい,ごきょう)」,そして,『論語』『孝経』といった儒教経典には,経典ごとに多くの種類が併存していた。それらは,今文と古文にまず大別される。今文は,口承で伝えられてきた経典とその解釈が漢代に書き留められたもので,隷書という漢代の文字( 今文) で書かれている。これに対して,古文は,漢以前の文字( 古文) で書かれた経典とその解釈である。前漢の哀帝( 位BC. 7~ 1) 以前は,
太学に学官が置かれた経書は全て今文である。『礼記』は今文で書かれ,『周礼』は古文である。しかも,経典そのものが異なる。それに対して,同じく『春秋』を経典とするが,『春秋公羊伝』は今文,『春秋左氏伝』は古文で書かれ,しかも,解釈,主張も異なっている。『周礼』解釈をめぐっては,経典の起源と来歴を押さえておく必要がある。古文経書を学官に立てるべきことを主張したのは,劉向,劉歆の父子であり,『周礼』を最も重視したのが王莽である。
儒教の「経書」に対する「緯書」は,儒教を国教化していった後漢代にも盛んに著述され,それらは全て聖人である孔子の言として受け入れられていく。「讖記」と呼ばれた予言書も,緯書の中に採り入れられて孔子の言であるとされるようになる。鄭玄(127 ~ 200),馬融(79 ~ 166)8 らも,「緯書」を用いて経典を解釈している。鄭玄は,『周礼』『儀礼』『礼記』の注釈書を表す以前は専ら緯書の注釈書を表している。桓譚9 や張衡10 のような,讖緯説を信じない者は不遇を囲った。しかし,王莽以降,時代が下るにつれて,讖緯の説は,「易姓革命」論,「符命革命」論と深く結びついていき,時の王朝からは常に危険視されるようになる。南北朝以来,歴代の王朝は讖緯の書を禁書扱いし,その流通を禁圧してしまう。しかし,明朝を建てる朱元璋のような平民上がりの皇帝を産む伝統は生き続ける。 以下、『周礼』考工記の都城モデルについて明らかにしたい。
1 『周礼( しゅらい)』『儀礼( ぎらい)』『礼記( らいき)』をいう。鄭玄が『周礼』『儀礼』『礼記』の三書を総合的に解釈する「三礼の学」を作り上げて以来,「三礼」という。『礼記』には,戦国・秦・漢の礼家のさまざまな言説が集められているが,現存の『礼記』49 篇は,唐代,『五経正義』に取り上げられ,『鄭玄注』に孔穎達が疏をつけた『礼記正義』が作られ,『十三経注疏』に収められている。
2 姓は姫,諱は旦,周公は称号。周王朝を建国した初代武王の同母弟で,その補佐を勤め,さらに武王の子成王を補佐して建国直後の周を安定させた。太公望や召公奭と並び,周建国の大功臣の一人とされる。周成立後,曲阜に封じられて,魯公となる。すなわち,魯の開祖でもある( 酒見賢一(2003))。
3 『漢書』景十三王伝の記載によると,河間献王は古典収集を好み,その集めた書物は『周官』『礼』『礼記』『孟子』『老子』などであったというが,その仔細は不明である。
4 劉氏漢王朝の前後漢の間に新王朝(9 ~ 23) を建てた。王莽は,古文を典拠として自らの帝位継承を正当化づけようとした。中国史上初めての禅譲である。王莽は周代の治世を理想とし,『周官』を元に国策を行ったことから王莽捏造説が生まれた。
5 前漢末から新にかけての経学者,天文学者,目録者。字は子駿。漢の時の爵位は紅休侯,新では嘉新公。五行相生説に基づく新しい五徳終始説を唱え,五徳は木→火→土→金→水の順序で循環し,漢王朝は火徳であるとした。
6 南宋・洪邁『容齋続筆』巻16「周礼非周公書」,清末・康有為『新学偽経考』「漢書劉歆王莽伝弁偽第六」など。
7 『春秋』『周易( 易教)』『礼記』に孔子が関わった可能性は低いとされる。
8 茂陵県( 陝西省興平市) 出身。『後漢書』に馬融伝がある。鄭玄が師事した。『周易注』『礼記注』『孝経注』『尚書伝』『毛詩伝』『周官伝』『春秋三伝異同説』『論語訓説』など多くの著作がある。
9 生没年不詳。前漢末から後漢初の儒家。字は君山,相 ( 安徽省宿県北西) 生。後漢の光武帝のもとで議郎,給事中となるが,讖緯説を否定したことから,帝の怒りをかって地方官に左遷された。著書に時局を論じた『新論》29 編があったが,原本は失われて輯本が残されるだけである。
10 78 ~ 139 年。字は平子。南陽郡西鄂県( 現河南省南陽市臥竜区石橋鎮) 生。「東京賦」「西京賦」など文学者,詩人として知られるが,霊憲」「霊憲図」「渾天儀図注」「算網論」を著した天文学者・数学者・地理学者・発明家・製図家でもあった。その発明には,世界最初の水力渾天儀(117) 年,水時計,候風と名付けられた世界初の地動儀(132 年),つまり地震感知器などがある。南陽で下級官吏となり,元初三(116) 年張衡38 歳の時,暦法機構の最高官職の太史令についた。建光二(122) 年,公車馬令に出任した。永建三(128) 年から永和元(136) 年の間,再び太史令を勤めた。最後は尚書となった。歴史と暦法の問題については一切妥協しなかった為,また,順帝の時代の宦官政治に我慢できず,朝廷を辞し,河北に去った。
― 1 『周礼』
『周礼』は,古くは『周官』ともいった。天官,地官,春官,夏官,秋官,冬官からなり,天官大宰,地官大司徒,春官大宗伯,夏官大司馬,秋官大司寇,冬官大司空の6人の長官に統帥される役人たちの職務が規定されている。
冬官を除く五官は,いずれも冒頭に「惟王建國,辨方正位,體國經野,設官分職,以為民極」とある。すなわち,王が都( 國) を建てること,方位を正しく定め,王都と封土を区画し,官職を設け,民の安定をはかるという基本理念が宣言されている。天官は治( 国政) を所管し,長官は冢宰( ちょうさい) である。地官は 教( 教育) を所管,長官は司徒,春官は礼( 礼法・祭典) を所管,長官は宗伯,夏官は 兵( 軍政) を所管,長官は司馬,秋官 は刑( 訴訟・刑罰) を所管,長官は司寇,冬官は事( 土木工作) を所管,長官は司空がそれぞれ務める。 六官がそれぞれ六十,計三百六十の官職から成るのは,天地四時( 春夏秋冬),日月星
辰が運行する周天の360 度に象っている,のだとされる(『周礼』天官・小宰,鄭玄『周礼注』)。この六官からなる政治体制は,周王朝の制度を理想化する中国の官僚組織の根幹として後世にまで大きな影響を与えることになる。
現在に伝えられ,用いられる『周礼』は,『十三経注疏』11 に収められた後漢の鄭玄による『周礼注』(『鄭玄注』),あるいは唐の賈公彦12 による『周礼注疏』である。
鄭玄と『周礼』については,間嶋純一(2010) の研究がある。確認すべきは,第一に,『鄭玄注』は師である馬融ら後漢の儒学者たちの『周礼』解釈13 を踏まえたものであり,第二に,『鄭玄注』は数多くの緯書の注釈書14 を著した後にまとめられたものであること,すなわち,鄭玄が生きた時代における理想の国家についての思想,言説が集大成されているということである。そして,第三に,『鄭玄注』は後代に大きな影響力を持ったということである。
間嶋純一(2010) は,『鄭玄注』の核心を「周公の太平を致す迹」(「周の太平国家の構想」)だとする。
鄭玄は,周公の『周礼』を周の太平国家の構想ととらえた。鄭玄の考える周の太平国家は,昊天上帝の神意にもとづいて太平を将来した周公が王として主宰する神聖国家である。そして,その国家の中心祭祀ととらえたのが天神・地示の祭祀である。
鄭玄は,六天説をとる。すなわち,最高神の昊天上帝と太微五帝( 蒼帝霊威仰,赤帝赤熛怒,黄帝含枢紐,白帝白招拒,黒帝汁光紀) が宇宙を司っているとする。『周礼注』の礼体系を,昊天上帝を中核とする宇宙論体系の一部とみなすのが『鄭玄注』である。
昊天上帝( 皇天上帝,天皇大帝) は宇宙の最高神であり,その実体は,天空の紫微宮にある北極帝星であり,北極大帝,北辰耀魄宝という別称をもつ。昊天上帝の下位に位置づけられる五帝は,天空中の太微( 太微垣15) の星官( 星座) の中心,五帝座に位置する16。
太微五帝は五行に配当され,蒼帝霊威仰,赤帝赤熛怒,黄帝含枢紐,白帝白招拒,黒帝汁光紀は,それぞれ五行相生説に従って木,火,土,金,水とされる。
地について,鄭玄は,崑崙山と神州を地示( 地神) とする。地の中央を崑崙といい,崑崙の東南,地方五千里を神州という。世界は九州( 大九州) に分かれており,中国の九州( 小九州) を赤県の神州( すなわち禹の九州) といい,崑崙山はその中心にある( 間嶋純一(2010))。すなわち,鄭玄が考える地上世界は,ナイン・スクエアからなる大九州であり,各州( 神州) も九州( 小九州) からなる。そして,神州は「方五千里」( 禹の五服) の広さをもつ,というものである。九州と五服という分割パターンの整合性が問題となるが,鄭
玄は,歴史的に異なる領域とその分割システムを認める。すなわち,『礼記』王制の「方三千里」を殷制,「方五千里」を堯制とし,『尚書』禹貢の五服「方万里」を夏制,『周礼』職方氏の九服「方万里」を周制と考える。そして,禹の五服がそのまま『周礼』夏官・職方氏の「方一万里」の「九服」になったと考える。
『周礼注』を支える以上のような宇宙観,天下観は,「禘」すなわち祭祀によって象徴的に表現される。
鄭玄は,天神を祭る「禘」として,園丘において昊天上帝を祀る祭祀,南郊において太微五帝の一である蒼帝霊威仰を祀る祭祀,明堂で太微五帝を祀る祭祀の3つを設定する。そして,地示として崑崙山と神州の2つの大地示を設定し,2つの「禘」,方丘祀地と北郊祀地の2つを設定する。
皇帝祭祀は秦の始皇帝に始まるとされる。そして,郊祀・宗廟の祭祀を中心とする皇帝祭祀が整備されていくのは前漢後期のことである。呪術的な祭祀から儒教的な祭祀へ,私的な祭祀から公的な祭祀へ,皇帝祭祀は変化していくが,その過程で,南郊で円丘に天を祀り,地は国都の北郊で方丘に祀る制度が成立する。その方向を確立したのは,王莽の郊祀改革である。
鄭玄は,南郊と円丘,北郊と方丘をそれぞれ別の祭場とし,冬至には円丘に昊天上帝を祀り,正月には南郊に五帝17 を祀る,夏至には方丘に崑崙地祇を祀り,北郊には神州地祇を祀る,とした。この鄭玄の『周礼』解釈に対して,異を唱えたのが魏の王粛である。そもそも,鄭玄の六天説は後漢において必ずしも支配的ではなかった。馬融や賈逵は,天神を唯一とする一天説を採っていた。王粛はそれに従い鄭玄を批判する。すなわち,後漢から三国魏にかけて,南郊,円丘の祭祀,北方,方丘の祭祀はそれぞれ別であるとする鄭玄説と南郊と円丘,北郊と方丘をそれぞれ同一の場所であるとする王粛説の二説が成立することになる。
北魏では,488 年に国都平城に円丘が築かれ,翌年初めて円丘と方丘の祭祀が行われるが,鄭玄説に従って,南郊と円丘,北郊と方丘をそれぞれ別の祭場としていくことになる。そして,続く北斉,北周,隋,さらに唐初まで鄭玄説が継承されることになった。
『周礼』と都城については,続いて「考工記」( 冬官) に即して明らかにするが,鄭玄によれば,周公の『周礼』の叙述と雒邑建設は並行するものであった。大平国家の構想とその国都の建設は当然関わる。鄭玄は,「土中を択びて王国を建てんと欲す」(『詩』「王城府」疎引) という。「土中」は「天下」の中心で雒邑のことである。
『周礼注』(「天官・序官」) に次のように言う。
「周公,摂に居りて六典の職を作り,之を周礼と謂い,邑を土中に営ず。七年に政を成王に致すに,此の礼を以て之に授け,雒邑に居りて天下を治めしむ。司徒の職に曰く,日至の景,尺有五寸,之を地中と謂い,天地の合する所なり,四時の交わる所なり,風雨の会する所なり,陰陽の和する所なり,然らば即ち百物阜安すれば,乃ち王国を建つ,と。」( 間嶋潤一(2010))
夏至の南中時に八尺のノーモンの影が一尺五寸となる地点を「地中」(「土中」) といい,その場所が、天地が相合して、世界が秩序をえる天下の中心である。後漢の中心である洛陽を根拠づける解釈であるが,都城建設の起源がここに示されている。
11 十三経について漢以来の権威ある注疏を選んで集成した書物いう。唐の『五経正義』も収められる。もともと『十三経注』と『十三経疏』が別々とされていたが,南宋末に,一つに合刻して刊行された( 十行本)。刊本には十行本以降,正徳本,閩本,南監本,北監本,汲古閣本,武英殿本,阮元本などがあり,清の阮元本がもっとも善本とされ用いられてきた。
12 唐初の儒学者。生没年不詳。永年 ( 河北省) 出身。唐の太宗の永徽年間(650 ~ 655) に太学博士となり,『周礼疏》50 巻,『儀礼疏』50 巻,『礼記疏』80 巻,『孝経疏』5巻を著した。
13 『 周礼注』序に挙げられるのは,鄭興『周官解詁』,鄭衆『周官解詁』,衛宏『周官解詁』,賈逵『周官解詁』,馬融『周官伝』である。
14 『隋書』経籍志には,『易緯注』八巻,『尚書緯注』三巻,『尚書中侯注』五巻,『礼緯注』三巻が挙げられている。加えて,『旧唐書』経籍志などは『詩緯注』三巻があるとする。すなわち,鄭玄は緯書の大半に注釈を行ったとされる。そしてさらに,散佚してしまっているが,緯書の注釈について,また,経書解釈について,その理念と方法をまとめた『六芸論』がある。
15 庭園を囲う蕃垣( かこい) の形に象られる,北斗七星より南,星宿・張宿・翼宿・軫宿より北の区画をいう。
16 中心の星は獅子座β星( デネボラ)
17 青帝霊威仰,赤帝赤熛怒,黄帝含枢紐,白帝白招拒,黒帝汁光紀