
高速道路でなく―――はじまりはいつも、独身者の住まい|竹山聖
下宿
高速道路でなく下の道を行くことにする。目的地に向かって一気に走るのでなく、そしてあらかじめ決まった風景を眺めて走るのでなく、あっちによろよろ、こっちにふらふら、寄り道をしながら、思いがけない風景に出逢いながら、あてどのない旅を続けていく、そんな人生を送ることにする。
とまあ、こんなことを書きとめていたことを思い出す。ぼちぼち修士課程も終わろうとしていて、建築設計を生涯の仕事としてやっていきたいと希求しつつ、さしあたりどこにも就職せずに生きていこうと決めた頃。部屋には流しのみでコンロも共同、風呂もなくトイレも共同の、東京は地下鉄都営6号線(現在の三田線)板橋区役所前駅のそばにあった六畳間のアパートでのことだ。
自分自身の住まいの変遷を語ってみようと思う。さかのぼってみれば、大学に入学して、はじめて家を出て一人暮らしをした。京大正門からほど近い、東一条を西に入ったあたり、泉殿町に新築されたばかりの学生アパートだった。四畳半とはいえ板間の、しかもなお天井から半畳分の押し入れがぶら下がって部屋を狭めてその下に足を突っ込んで寝るようにベッドが置かれているような部屋である。あろうことか門限が午後11時で、街路と路地を隔てる壁のドアに鍵がかかってしまうので外から壁を乗り越えて飛び降りると、中で見張っていた大家に「出ていってもらうかもしれんで」と脅されたものだ。
一人暮らしの自由はもとより、深夜まで製図室(京大の製図室は当時24時間フルオープンだった)で過ごすのが当時はあたりまえだった学生生活を阻害されたくなくて、3回生になって北白川の翠明アパート(これは現存する)に移った。すでにかなり年季の入った木造2階建ての、街路に面した2階の部屋である。門限はもちろん、ない。部屋にはコンロがあり、部屋の前の廊下に共同の流しがあって、洗い物をしていると窓の向こうに中庭が見えた。京間の六畳間であったから、それまでの四畳半に比べればはるかに広い。ただオンボロはオンボロで、天井の焦茶色に塗装されたベニヤ板は緩やかに垂れ下がって傷んでいたから、羽を広げて飛び立つ鳥の形に青空の広がるルネ・マグリットのポスターを貼ってアラを隠した。布団を敷いて天井を見上げれば鳥が空を切り取っている。夜な夜なそんなマグリットの絵を眺めながら眠りについたものだ。
そして冒頭に述べた板橋のアパートである。こちらは鉄筋コンクリート造の建物だ。高校の同級生で東大に進んだ大江匡くんが住んでいたところを、彼が菊竹事務所に就職するので譲ってもらった。1977年の春である。先にも書いたが六畳間、それに板張りの小さな流しの間がついている。東京だけに家賃も京都の倍以上。最初の泉殿町の部屋が月に1万円、北白川は確か1万2千円だったが、この板橋の部屋は2万4千円だった。大企業に勤めていた父が失業して仕送りも絶えた。授業料免除になって奨学金もなんとかもらえたけれども、ともかく自立していかなければならない。東京のこの部屋でそれなりのささやかな自由を得、もの思いに耽り、雑誌に文章を書いたり旅に出たり、さらには研究室のアフリカ調査旅行に参加したり、さまざまな経験を積んで、建築家になる覚悟を固めた。貧乏と不便と孤独は夢想家を育てる。そして冒頭のような文章をしたためて、自己正当化と負け惜しみを混ぜ合わせながら、未来を夢見たのである。
バイト
修士課程の間、就職を考えないわけではなかった。いわゆる設計事務所のバイトにも行ってみた。主なところで言えば、日建設計と坂倉事務所と磯崎アトリエだ。日建ではタイムカードを作ってくれて、いくつかのスタディーにも加わらせてもらった。廊下の突き当たりは部屋で塞がずにそのまま抜くものだ、とプランを明快にするコツのようなものを教わったりもした。ただし最初に、「バイトが正式な就職につながるわけではないですよ」と釘を刺された。
坂倉事務所は東大大学院で同級生になった田才晃くんに誘われて模型作りをした。V字型のプランをした渋谷のシオノギビルで、建物はやがて立ち上がったけれど、今は壊されてしまった。外壁は当初、砂岩仕上げだ、というのでサンドペーパーを使ったりして工夫をしたが、結局白いタイル仕上げとなった。外壁のパターンをいくつも作って薄皮一枚、着せ替え人形よろしく取り替える。素材やデザインの根拠はついに教えてもらえずじまいだった。
磯崎アトリエは当時神楽坂の小さなビルの2階にあって、自由な雰囲気に満ち溢れていた。出勤も自由、退室時間も自由、スタッフの人たちも昼頃にのっそり現れたり、さっさと帰ったりする。忙しい時は忙しいが、なにかしらのびやかな時間が流れていて、磯崎さん自らトレペにスケッチをしている姿を見られることに感動もした。
日建設計は、こちらもタイムカードを押していたせいもあるが、規則正しい生活を送るサラリーマンに見えた。それなりにメリハリがあって、自分の時間が持てる気がした。大組織だからもともとデザインを決定する個人の顔は見えない。
坂倉事務所は、バイトは毎夜10時半まで、正規のスタッフはさらに遅くまで働いていた。朝から晩まで働き詰めで、しかも指示がどこから来ているのか、バイトくんだりには当然の話だが、さっぱりわからない。阪田誠造さんが東京事務所のボスで、時々大阪から西澤文隆さんがやってくる、ということだったが、どちらの顔もほとんど見たことはなかった。そしてスタッフに自分の時間があるようにも思えなかった。
磯崎アトリエはみなマイペースで、スタッフ個人のエゴも強く、自分の時間しかないように見えた。スタッフが礒崎さんのいないところでてんでに勝手なことを言っても、指示が磯崎さんから来ていることは明らかで、そこに反発するか納得するか。組織の論理でなく個人の論理しかない。
もし就職するなら(できるとして、だけれども)顔の見える個人かいっそ顔の見えない組織だな、とすると磯崎アトリエか日建か、などと勝手なことを思ったりもした。しかし結局は自分で事務所を立ち上げることになり、土日もなく、朝昼晩のべつスケッチをし、図面を描き続けるという、およそ個人の時間やゆとりなどまったくない生活に突入していくのだが、そのころはまだ、期待と不安と予感の中でしか人生を描けてはいない。きっと誰もがそうであるように。
博士課程
博士課程に進むことになり、これは原広司先生からアフリカ調査のまとめにさしあたり一年だけ博士課程に残ってみないかと誘われたからで、就職活動もせずモラトリアム(執行猶予という意味で当時はやった言葉。ニートなどという言葉もまだなかった。フリーランスという言葉を当時原研究室の博士課程にいた藤井明さんから教わったばかりで、ちなみにそれがとてもポジティブな響きを帯びているように感じたものだ)を決め込んでいた身にはありがたい助け舟だった。
博士課程の奨学金と新しく見つけた割のいいバイト(週末に鹿島コンビナートまで行って小中学生を教える塾のバイトである)、そして建築雑誌などに書く原稿や翻訳の仕事などでなんとか糊口をしのぎつつ、生活費は思いきり切り詰めながら生きていこうと決めて、家賃は高いがスペース的にはややゆとりのある代々木八幡近くのアパートに引っ越した。1979年春のことだ。
スペース的にゆとりがあると言っても、六畳間にキッチンがあるだけ。ただし小さなユニットバスがついていた。これは画期的なことだ。この家賃5万4千円を博士課程の奨学金でカバーし、生活費はバイトで稼ぐ。1日800円あればなんとか生きていける。つまり月に2万4000円。これが食費や洋服、コーヒー代や酒代も含めて、生活に必要な金額だと見積もった。それ以上にインカムがあれば(当然そう計算しているわけだけれども)これは自己研鑽に使う。といってもたまに書籍を買うくらい。他の出費は、極力抑える。ちょうどアフリカの集落調査から戻ったばかりで、向こうでもらってきた流行性肝炎とデング熱のおかげで一切のアルコールを少なくとも半年断つことになった。外食はもちろん喫茶店に行くこともない。自販機で百円の飲料を買うのも憚られる極貧生活で、タンパク源は卵と豆腐。衣料もほぼ毎日着たきり雀である。
1973年吉田泉殿町、1975年北白川、1977年板橋、と2年おきに変遷した住まいも(住まいと呼ぶほどのものかどうかは別にして)、1979年のこの元代々木町(丘の上は結構な高級住宅地だ)の、その高台に登る坂の途中に引っ掛かるように立っていた木賃アパートに移って、いかにもの仮住まいから、それなりの住まいらしくなってきた。電話も引いた。これまた今となっては昔話の最たるものだが、電話を部屋に引くということはそれなりの住居の拠点としてのありようを象徴するようなことだったのだ。それまでは部屋に電話がないから、外に出かけて公衆電話からかけるしかない。先方からかかってくることは、もちろん、ない。
その住所で名刺も作った。この頃小林克弘くんら仲間と一緒に、いつ仕事が来ても受けられるよう(これまた妄想の一形態だ。しかしおよそ妄想以外で物事が動いたりすることなんてあるのだろうか)、「設計組織アモルフ」という事務所の名前もつけていたのだった。それはまだ板橋のアパートにいるときに、夜遅くに小林くんと電話で話しながら(彼は横浜の自宅の電話から、こちらは共同のコンロが置いてある場所にあった公衆電話で)決めたことだった。大江健三郎の小説や批評によく出てくる「不定形(アモルフ、とルビが振ってある)」という言葉を二人ともとても気に入っていたから。
仮にそれが他愛のないことであっても人とのコミュニケーションを取ろうとすれば、十円玉や百円玉をためて、公衆電話に向かうわけである。ちょっとばかりの意志と決断がいる。なんとなく漫然とスマホを見たり着信履歴がついたりするわけではない。「既読」なんかも、ない。分断と接続は個人の意志にかかっている。電話のありようが変わったこの半世紀は、住まいや個人の関係も大きく変えてきたのだ、とあらためて思う。振る舞い自体が変わるのだから人間の性格すら変わってしまう、かもしれない。
『SD』誌の安藤忠雄特集を企画して採用され、文章も書かせてもらったのが1981年のこと。電話が引かれたばかりの元代々木町の小さなアパートの部屋の電話には、いつも夜12時を過ぎて安藤忠雄さんから電話がかかるようになった。社会への新しい窓が開いた思いがした。
就職しないで生きる
最初の項に書いた自己正当化と負け惜しみについて、少し語ってみる。
当時は皆が就職していた時代だ。終身雇用制、というものも色濃く残っていた。ニートもフリーターもいない。そんな言葉もない(これは時代がめぐりめぐって、結局はいまと同じ状況なのかもしれない。社会の豊かさへと向かう気持ちのベクトルは違っているかもしれないけれども、そして停滞感が増しているのかもしれないけれども)。その後80年代後半のバブルの時代には、就職しない選択をする人たちも増えてきて、起業という言葉もポジティブに捉えられるようになった。何しろ圧倒的な売り手市場で、就職は引く手あまただったから。
ところが我々が社会に出る頃は1973年秋のオイルショックの余波で、1977年卒業の世代にとって就職の道は険しかった。建築学科卒で言えば、京大建築を出ても、大手ゼネコン五社と日建(代表的な例として挙げているだけだが)は表向きの採用はゼロだった(東大の大学院に進学して、東大からは大手五社と日建が一人ずつとったと聞き、少しだけ複雑な思いだったものだ)。少し上の世代の先輩たちはいわゆる団塊の世代で、ステューデントパワー全開で社会を動かし、京大で言えば、竹中工務店や大林組に毎年10人は入るほどの高度成長期だったのが、オイルショックで突然に終わりを告げた。70年大阪万博のあとは、まさに「祭りのあと」の雰囲気を醸成して、その言説が学生たちに絶大な影響を及ぼしていた磯崎新は「もう何も作れなくなった」と「反建築的ノート」(『建築文化』誌に連載されていた)に記した。
文系はともかく、建築界の未来には暗雲が垂れ込めているように思えた。建築家などという存在がこの先、生き延びるかどうか怪しかった(これまた現在もまた同じ、なのかもしれない。個人的にはそう思ってはいないけれども)。その頃、サラリーマンの30歳時点での収入、という情報が飛び交って、これは『独身者の住まい』(廣済堂出版、2002、p.43)にも書いたことだけれども、建設業で一番良いとされた清水建設で年収600万であるのに対して、銀行は800万から850万、電通が900万、東京海上にいたっては1050万。社会の理不尽を痛感したものだ。
大学の頃一緒にバンドを組んでいた筒井信也くんは工学部土木学科から1回生のときに法学部に転学、そしてこの1977年卒という逆風の時代に、東京海上、日本興業銀行、住友銀行の内定をとって、興銀に入る決断をした。まさしく先見の明があったとしか言えない。もちろん建設業界の600万(ただし最高で、だけれども)でも安定した収入が得られればありがたいに決まっている。ただ、そこで自己正当化と負け惜しみが頭をもたげる。どうせさほど稼げないのなら(ほかの業種に比べて、だけれども)、好きに生きた方がいいかな、と。学生のあいだほとんど生活をともにしていたと言っていい筒井くん自身がそういう気配を漂わす自由人だったから、彼の選択は意外でもあったのだけれども、それならこちらがその生き方を引き継いでいってやろうではないか、と思ったりもしてしまったのである。筒井くんはめぐりめぐっていまは日本建築家協会の専務理事。縁は切れない。
もう一つ、自身の性格的な弱さを懸念したところもあることを正直に言っておこう。もし大組織に就職し、安定した収入を得ると、ましてや家庭を持ったりすると、自分の性格上、独立ができなくなるのではないか。高速道路から降りるという決断が、きっと鈍るに違いない。例えば40歳になった時の自分を想像し、その年齢になった頃には、これはなんとしても、たとえささやかであっても、自分自身の責任で建築を設計している、そんな場を持っていたい、と考えた。これは真剣に考えた末の結論だ。これはなんとしても譲れないと思った。建築の設計をして生きていくことができるなら、大きな収入や、そして家庭さえも、持てなくても構わない。そうした覚悟さえ持っていた。それなら最初から就職などしないほうがいい。そう言う理屈である。屁理屈かもしれない。ただ、自己正当化と負け惜しみだけで人生を決めるほどおっちょこちょいではない。
磯崎新、黒川紀章、そして原広司。みな就職をしていない。個人として生きている。元代々木町の外れの、そんなところにあってはならない木賃アパートでモヤモヤした思いを持って燻っている建築家の卵にとっては、そんな綺羅星の如き建築家との比較はもはや妄想の類と見られても仕方がなかったけれども、なあに、妄想はタダだ。貧乏は自由だ。孤独な思索者にはしがらみもない。そして心の奥底では、自分は大丈夫だ、個人としての建築家になれる、建築をやっていける(これは『ぼんやり空でも眺めてみようか』(彰国社)の第1話のタイトルである)、というひそかな、そして根拠のない自信もまたあったことを、はっきり覚えている。その本に書いた言葉を再録してみる。
建築が言葉に漸近しながらも身体をすり抜け、遠ざかっていく。建築が物であり、物でない。堅固な思想のようでいて、しなやかな官能でもある。果てしない労働であり届かぬ憧れでもある。そんな手探りの経験を言葉に紡いだ。建築を、現場で感じ、製図板の上で感じ、原稿用紙の上で感じ、寝ても覚めても、ぼんやりと空を眺めていても、感じた。六畳一間のアパートは幻想と妄想の宮殿だった。ぼくの20代はそんなふうに過ぎていった。
―――『ぼんやり空でも眺めてみようか』彰国社、2007、p.23
半世紀ののちに
これは20代の記憶を、当時50歳を少し過ぎた頃に振り返った文章だが、何せ今年(2024年)の12月で70歳になる。記憶の中のことだから脚色もあるかもしれない。でもあらためて今思い返してみても、それはそれで切実な真実であった気がする。就職をしないということは、座標軸を自分で決めなければならないということだ。座標軸などいらない、という生き方の可能性も含めて。世間一般の常識やら安定やら「幸せ」やらは、そこには用意されていない。荒野をゆくようなものだ。未来は不安に包まれている。しかし希望もまた、不安の中から頭をもたげてくるものなのではないか。あるいは逆に、不安の中にあるからこそ、先が見えないからこそ、見えてくるものなのではないか。道標のある高速道路を走っていれば不安は少なくなるだろうし、高速道路だからこそ見える風景もきっとあるのだろう。しかし、たぶん直観的に、道なき道をあっちへよろよろ、こっちへよたよた、歩みを進めながらゆっくりとあたりを眺めまわす、そんな生き方の中にある希望の方が人生にとって刺激的なのではないかと、そんなふうに思ったのだ。
しょぼい六畳一間のアパートで幻想と妄想にまみれて生きている人間にも、手を差しのべる人はいる。世の中捨てたものではない。社会には打算や計算で生きていない人たちが多くいて、そんな友人たち、そしてクライアントに出会えてなんとか生き延びてくることができた、というのが人生を振り返っての実感だ。ろくな収入もない人間を選んでくれる女性にも恵まれて、思いがけず家庭を持つこともできた。住まいの遍歴はまた新しい段階に入ることになる。1983年のことだ。
住まいは人格を形成する。住まいとも呼べないような栖(すみか)の話をしてきたけれども、それでもそれらが人格形成に影響を及ぼすだけのパワーを持って存在しているのは確かだ。居住形態は人間存在を規定する。下宿であろうと、寮であろうと、アパートであろうと。たとえば、一人住まい、すなわち「独身者の住まい」を一つの座標軸として考えてみる。人が社会と関わる出発点として、仮想でもいいのだが、措定してみる。それは確かに思考のゲームとして十分な意味があると思う。他者との関わりを考える鏡として。他者と共に住む住まいは、一人住まいとはまた異なる次元にあるのは確かだろう。ただし、どこまでいってもそれは個人の自立を前提とした、他者とともにある住まいでありたい。
そう、つまり、住まいは、あるいは建築は、出会いの場としてある。自由な個人の出会いの場として、出会いの可能性の場として、出会いを育む場として、ある。この信念に変わりはない。これは学生時代からずっと考え続けてきたことだ。出会いの場を構想することこそが建築の設計である、と。だから、独身者の住まいは、他者とともにある住まいを考える思考のゲームの原点として、ある。そして出会いの場は、住まいのみならず、すべての建築の課題である。
設計という仕事を20代で始め、30代後半から教育の場にも関わり、そしていまなお建築の設計を続けている。ありがたいことだと思う。いまだに建築の設計の現場のそのまっただなかにいられること、そして建築の設計が好きであり、刺激的であり、自分が磨かれる感覚を持っていられること、建築設計を行う人間として、他者から求められることが幸いにも続いていること。
20代の頃の決断は、不安の中の希望は、それなりに未来を決定づけるものだ。それが高尚な理想から出たものであっても、卑小な欲望から出たものであっても。そんな人間たちがこれまでの社会をそして歴史を作ってきた。過ちも多々あり、愛や恐怖や争いによる悲劇や喜劇も多々あった。しかし社会や歴史をマクロに捉える視点(人間を国家や社会体制や家族形態や血液型で分類するような、それはそれで興味深いものだが)とは別に、これからも、顔の見える個人として、顔の見える他者とともに生きていきたい
本文中に引用した『ぼんやり空でも眺めてみようか』は、もともと大阪建築士事務所協会の機関誌『まちなみ』に連載したエッセイのうち、全35 回の第1回から15回までをまとめて一冊の本にしたものだ。駆け出しの 建築家としていろいろな人と出会い、経験を重ねて、なぜか京大に着任することになるまでの話。建築家をめざす人には、自分で言うのもなんだけれども、一読の価値があるんじゃないかと思う。 それはともあれ、まだ単行本になっていない連載後半の第一話のタイトルは「15年の時を経て」。70歳から20歳を振り返る「半世紀ののちに」 に比べればやや近過去の、まだ記憶もみずみずしい昔話である。その挿絵とキャプションで自邸計画に触れている。たとえばこんなふうに。
斜めの壁の面白いところは、家の中からは空間が拡がり、外の庭に対しては軒の役割を果たすことだ。50坪という敷地面積の半分を断固庭として確保し(息子とキャッチボールがしたかったし、テニスのサーヴィスの練習もしたかったのだ)、残りのスペースにできるだけ豊かな空間を込めたかったから、天井を高くして壁を傾けた。人間はだいたい肩から上の空間で広さを感じるものだ。天井が広いとそれだけで部屋の広さが倍増する。(「ぼんやり空でも眺めてみようか」連載第16 回キャプションから)
どうだろう、大きな変化が見て取れるのではないだろうか。そう、一人で妄想に耽る住まいから、他者とともに過ごす住まいへ。内部と外部が隔てられつつ結ばれる空間へ。さらには、家族だけでなく、訪れる人たちとの、 出来事との、新しい出会いを準備する場として。人生は変化する。一人ではキャッチボールはできない。他者との出会い抜きに建築はできない。