遺伝的創造必要論|宮田 大樹

【創造と生】

私たち建築学生は「創造」することを求められている。いや、建築学生に限らないかもしれない。「創造」することが求められる場面は多くある。では、創造は何のために必要なのだろうか。豊かさのため?お金のため?いや、根底にあるのは創造したいから?それは自己目的化?自己目的化といえば、私達はなぜ生きるのか?なぜ世代を超えて命をつなごうとするのか?目的はない?やはり自己目的化?生と関係する進化から創造と生の間の関連性を考察し、そこから「創造」の必要性やその意義を少し考えてみたい。

【進化】

私は、進化論がもっとも美しい理論の一つであると思う。進化論は単純な仮定から始めて、複雑な生物種の世界を十分に説明できる。その単純な仮定とは、「生物には変異が次世代に伝わる形質があり」「それは生殖が達成された場合にのみ次世代に伝わる」ということだ。ここから、「自然淘汰」と「遺伝的浮揚」という複雑な生物が生まれる理由が導き出される。

まず、Aという形質を持つ個体とBという形質を持つ個体が同じ数だけ存在する場合を考えてみよう。この時、AはBに比べて少し生殖に有利であるとしよう。すると、次世代ではAはBより少し多くなり、同じ傾向が続けば、この集団はAという形質を徐々に獲得する。これを自然淘汰という。現実では、有利な条件には、子供の数が多い、配偶者を得やすいなどの突然変異が挙げられる。

次に、AとBが同じ数だけ存在し、その形質は生殖に有利でない場合を考える。ここで天災が起こり、Aが9割、Bが1割の集団となったとしよう。このとき、AはBと比べて生殖に有利とは言えないにも関わらず、この集団は偶発的にAという形質を獲得することになる。これを遺伝的浮揚という。例えば、南アフリカ大陸にO型の人が多いことは入植した集団に偶然O型の人が多かったことが原因で、これは遺伝的浮揚の一種であるボトルネック効果だと言われている。

この自然淘汰と遺伝的浮揚が複雑に影響しあうことで生物は変化していく。この変化が進化と呼ばれる。ここで大事なこととして、獲得される形質を議論するうえで関係するのは伝搬においての有利不利であり、その他の点における有利不利は関係しない。例えば、退化も進化の一種である。モグラは視力を失うように進化したのだ。進化も退化も私たちの一方的な価値観で決めたものに他ならない。そして、現存する生物は全て同じくらい環境に適応した生物である。ある時点で、生殖に有利な形質として、2つの形質があった。その一方を選んだものがチンパンジーとなり、もう一方を選んだものがヒトとなったのである。チンパンジーはヒトに進化しないし、決してヒトの方がチンパンジーよりも優れているということはない。

さて、進化論は生物を観察することから導かれた理論だが、 理論的枠組みは生物に限らず成り立つのではないかと考える。 進化論の理論的枠組みを一般進化論とでも呼ぼう。

この理論は、「ある集団内に」「変異が認められるモノが複数存在し」「その変異はある行為を経て新たなモノに伝達する」ということが仮定できるとき、「より伝搬しやすい要素が集団内で獲得される現象」と「伝搬のしやすさに差がないとき偶然にある要素が集団内で獲得される現象」の2つの現象が起こり、「集団が変化する」ことといえる。

ここで強調したいことは、目的が先にあって変化が起こるのではなく、変異という要素に対し、伝搬しやすい要素が獲得されることで集団の変化が起こるということである。また、獲得される要素はその要素の伝搬における有利不利により、その他の観点での有利不利にはよらない。

【デザインの進化】

改めて、退化も進化のうちであり、何を進化、何を退化とするかは私たちの価値観によるということを述べたうえで、デザイン、そして創造という行為を進化論的視点から捉えなおしたい。デザインが模倣や創造の過程で差異を生み、それが時代を経て新たな潮流を作ることがあるということから、デザインを進化論的にとらえ、創造というものの必要性と重要性について考えたい。そのためにまずは、進化論とデザインとの間に関係性があると考える理由について、もう少し詳しく述べたい。

生物は世代を経るたびに得た差異が自然淘汰と遺伝的浮動によって種そのものに影響を及ぼす。その結果生物は多様で合理的な姿へと変化していく。生物の進化論は、進化によって結果的に環境などの諸条件に合理的で多様な種が存在するという事実と、形質は遺伝するという事実の2つの事実から導かれたものである。デザインについて考えてみると、世界中のあらゆる地域に見られる建築や食、衣服などは合理的で多様なデザインの存在を証明している。さらに、現代の創造活動を見れば明らかなように、私たちは既にある物を模倣する。または、それを打ち壊そうとするような創造もあるかもしれない。いずれにせよそこには既存のデザインの影響が大きく存在するはずだ。これらの事実から、デザインについても、進化論と同様の形式で議論することができるのではないか。

新しく何かをデザインするとき、それが生み出すものは既存のものとなにかしらの差異を持つ。仮に模倣しようとしても完全に模倣することはできず、なんらかの変異が起こることもあるだろう。あるデザインを行ったときに生まれた差異が総合的に見て模倣されるのに有利な要素であれば、そのデザインは将来的に広がることが予想される。一方で、生まれた差異が総合的に見て模倣するに値しない要素であれば、そのデザインは将来的に拡大するとは思われない。無数の創造活動の中で生まれた小さな差異が伝搬することで、デザインというものが変化し分かれ消滅し、多様な形を獲得したことは想像に難くない。もちろんこれらの中には必然ではないものもある。例えば、元日を何日に定義するかは、季節などでの時期と決まるとはいえ、現在の元日の太陽と地球の関係となる日が元日となっているのは偶然の要素も絡んでいるといって差し支えないだろう。しかし、ここでもまた進化論的な捉え方をすると、前者は自然淘汰、後者は遺伝的浮動に準えることができる。

ここで一つ注意すべきは、この創造はどんなものでも等しく創造であるという点だ。それが新たなデザインへの道となるかは未来に結果としてのみあらわれる。仮に革命的なアイデアを思いついたとしても、それはその時代には受け入れられなかったり、保守的な人が多かったり、そもそも致命的な欠陥があったりと消えてしまい歴史の中に忘れられることとなる。このとき、それが残らない理由は複合的で何か一つの要因に帰することはできない。そのデザインの利点や欠点に関わらず、結果として残るのはそれが未来へ続くものとなるか、残らず歴史となるかのいずれかである。

デザインが伝搬する条件は、「デザインが良い」ときと言って差し支えないだろう。この場合、それはデザインとして優れているなどではなく、デザインを真似したくなる人が多いということだ。芸術家のような傑出した存在が生み出す傑作は、そのものは大きな価値を持つが、デザインが広がるかという観点で言えば、無数の創造者の作り出す差異と違いはない。全て創造される差異は未来の可能性の提示に過ぎず、同様に未来へと続くかのふるいにかけられている。傑作であるかはその時代を生きる人々、あるいは現在の評価者の価値観によって決まることであり、デザインが適合し変化していく過程とは何も関係がない場合が多い。傑作と関係があるとすれば、評価者の価値観がデザインの伝搬と強い相関を持つ場合のみである。これは生物の場合も同様で、「ある価値観において優れている」ことと「子孫を残すことに有利である」かどうかは必ずしも一致しない。このようにデザインは模倣のなかで様々な差異が創造され、デザインそのものが多様で合理的な姿へと変化する。多様な姿のデザインが現れたのは、必然的な淘汰と偶然の選択であると言える。

忘れてはならないのは、淘汰と偶然の選択の源は創造にあるという点だ。真の意味での模倣であった場合、デザインは進化しえない。それが意図的か意図的でないかによらず、差異が創造されるからこそ、デザインは社会や文化の変化に応じた淘汰と時間の中での偶然の選択が起こり、いままで変化してきたのである。私たちの生活を豊かに彩る様々なデザインされたもの、例えばコップの形や本という紙のまとめ方、牛乳を注ぐのに便利な牛乳パックの形、長距離を移動する車輪とそれを可能にする平らな道路、税制、議会制民主主義に至るまで、その全てがあらわれたのはこれまで生きた人々の行った無数の創造の結果であると言えるのではないか。そして、そうしたものが私たちの生活を豊かなものにしているという事実こそ、創造行為が客観的な意義があるといえることの証明ではないか。創造した要素が伝搬し意義あるものへつながるかは結果論であり、あらゆる可能性の提示としての創造行為を経ることは必要だと考えられるのである。

【創造は生】

文頭で創造と生は共に自己目的化ではないかと問がけしたことに対し、創造は私たちの生活、すなわち生にとって意義をもつのではないかと述べた。その理由について少し考えてみたい。

宇宙が始まって以来、世界は変化している。想像がつく範 囲で言えば、地球は太陽の周りをまわり、地形はプレートの移 動や浸食、堆積の影響を受けながら変化する。気温や雨量を含 む環境の全てが変化していく。そうした世界で生き残った生物 は環境に適応した生物であり、生物というものは進化を経て変 化する世界に適応するように変化してきた。天体から地形、生 物の進化と、その変化の速さは徐々に速くなっていく。そうし た中で、生物の一つであるヒトが自らの進化を待たずして環境 に適応する手段として獲得したものこそ創造行為といえるので はないか。だから、創造が私たちの生活に意義あるものである ことは当然なのである。

そして、このように考えると、生そのものは生物というもの が環境へ適応するための可能性の提示として意義があるもので あり、創造行為というものは特にヒトというものが環境へ適応 する可能性の提示として意義があるものであると捉えることが できる。生物が環境へ適応する必要があるのは世界が変化する からであり、それは世界の理である。つまり、創造も生も一見 自己目的化のように見えるのは、それが可能性の提示に過ぎず、 さらにその可能性を提示する必要のある理由を求めた先でさ え、世界の理という理由のないものだからではないだろうか。

【創造行為】

創造行為はヒトという生物が進化を待たずして変化する環境 に適応する手段であり、あらゆる創造は未来での適応の形の可 能性の提示として必要である。創造された差異は必然的な淘汰 と偶然的な選択を経て、デザインとして伝搬していく。そして 創造は変わりゆく世界に適応するために必要なのだ。

また、はるか古代から紡がれてきた創造の積み重ねである在来種が、ここ数百年の間に突然変異的に現れた「近代という種」に絶滅寸前に追いやられているように思えてならない。一方で、「近代という種」の進化を担った創造とその産物としてのデザインは、これまでヒトが環境に適応するのを強く補助してきたが、近ごろ上手く適応できていないにではないか。幸いなことにヒトの歴史の大半において私たちを支えてきた在来種は未だ生き残っている上に、「近代という種」の影響を受けながら進化もしている。在来種に目をやる時期に来ているのではないか。今、海で繁栄する魚の多くは、古代に海を追われ、河川で進化し、先祖を河川へ追いやった海の生物にとって代わって繁栄しているという歴史があるのである。

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