水面下に沈められた意図|トーマス・ダニエル

「建築には、現象学と概念論の間で続く対話という、熱い理論的問題が残っている。」  1)ピーター・アイゼンマン

アイゼンマンの主張から始めよう。建築とは、直接的な身体的経験を通じて理解されることを求める建築物と、建築物に一度も遭遇することなく理解できる概念、もしくは根本的にその主要な効果を得るために構築された存在を必要としない概念、という実体と概念の2つのアプローチに大別されるかもしれない。現象主義者は、素材と風土に関わり、一瞬の視覚的、音響的、そして嗅覚的な質感に満ちた建築を生み出し、表面に残る制作の触覚的痕跡と避けられない風化の両方に、時間の経過を明示する。一方、概念主義者は材料、場所、機能を徹底的に抽象化し、図面から建築物への変換で蓄積される全ての不完全性や妥協のない理想的で時間を超えたコンポジションを実現しようとする。

山口隆の建築は、妥協のない幾何学、簡潔で整合性を纏ったボリューム、無垢で汚れのない表面、静謐で音のない空間など、一見するとコンセプチュアリズムの典型のように思われる。しかし、これらの建物は、形式的な側面を一切排除し、実際の物質性についての手がかりをほとんど与えないことで、物理的な崩壊の必然性を正確に伝えている。その洗練された観念性は、雑然とした現実の不在を暗示し、あるいは増幅さえしている。清らかな表面は、自らの崩壊を想像するためのスクリーンとして機能する。

あらゆる優れた建築作品は、現象的なものと概念的なものとの混合物であることを必須としている。それらは相反するものだが、裏では互いに補強しあう。実際、日本の美学的・物質的文化を代表すると言われる、抑制、緊縮、無常、不規則、空虚などほとんど全ての特性について、その反対もまた明らかに成立しているのである。2)だからといって、日本的な美意識が曖昧で乱雑なスペクトルに分散し、何でもありになってしまうわけではない。むしろ、洗練と過剰の両極端、そしてその相互の強化において、それは最も明確に現れる。さらに、「完全なる空虚」のパラドックス、すなわち概念的なものと現象的なものが密接に共存しうる空虚の実体や可能性にも出会うことができるのである。

京都で生まれ育ち教育を受けた山口隆は、京都にある2つの寺院の増築でデビューした。1998年に完成した「グラス・テンプル」と2000年の「ホワイト・テンプル」だ。どちらも細長い直方体のヴォリュームで、前者はほとんど地中に埋まっており、後者はわずかに浮き上がっている。ミニマリズムの典型で、あからさまな身振りや表情はなく、予期せぬ動きをすることもない。周囲に侵入することも、他者に押し付けることもない。それどころか、ある種のソフトなパワーで後退し、揺らぎ、そのイメージは説得力を持ち、その空間的なシークエンスは穏やかな強制力を持つ。ミニマル建築は、ある種の崇高な開放感をもたらす空間と、喜びのない閉塞感をもたらす空間とが紙一重の関係にありがちであるが、山口はこれらのプロジェクトで、魔法のような効果で幽玄を生み出している。

グラス・テンプル  提供:山口隆建築研究所
グラス・テンプル  提供:山口隆建築研究所
ホワイト・テンプル  提供:山口隆建築研究所

この2つの建物は、明確な幾何学ヴォリュームであるが、幾何学的ではなく、位相的に理解するべきである。どちらの場合も、そこに佇むと最初の印象である明確な幾何学性は後退し、不安定で儚げなものがあらわれてくる。「グラス・テンプル」は、ソリッドとヴォイド、内部と外部が交互に存在する。地面を穿ち、全面ガラス張りの屋根で覆われた地下空間を生み出し、その中に不透明な直方体ヴォリュームを浮遊させ、中央付近には半透明ガラスで縁取られた正方形の中庭を配し、外部の光と空気を建物の中心まで取り込んでいる。この人工的な渓谷の真っ白な壁は、太陽光と影によって鮮明に定義されるが、曇天時や夕暮れ時には、内側のコーナーの稜線が視覚的に消失し、空間的奥行きを感じさせない。まるで霧を切り取ったような空間が出現している。もう一つの大地の切り込みには階段がある。既存の直交する伽藍配置の中で、新しく挿入された建築は少し斜めに位置し、目立ちたい気持ちと溶け込みたい気持ちの間で揺れ動く。この角度は目立つというよりも、むしろ本堂に対してお辞儀をするような、不釣り合いな後発の建物であることを暗黙のうちに認めているような印象を与える。対照的に、「ホワイト・テンプル」は静かに誇らしげに建っている。既存の伽藍の軸線に沿い、地表に散らばる白い砂利の上に浮いている。位相的には、透明な入口に縁取られた木々に囲まれた大きな池と、半透明なガラス面によってフィルターをかけられた後方の山腹を視覚的に結ぶ対称的なチューブを形成している。細長いトップライトは両側の壁を照らし、位牌を安置する階段状の基壇は空間の一番奥を占め、ぼやけた緑の背景に向かって上昇している。昼間は森から切り取られた白いボリュームとして、夜には両端にある実体のない光る四角形だけを残して闇に消えていく。

山口は、自身の事務所を設立する以前は、光と影と幾何学の巨匠である安藤忠雄の事務所に15年間勤務していた。安藤が京都で手がけた建築のほとんどを手がけ、その経験は山口自身の建築の構成やディテールに対する感覚に間違いなく影響を与えた。しかし、山口の作品では、安藤の交差する立方体、独立した壁などの形式的な豊かさは、必要最低限にまで縮小されている。大げさに言えば、大阪の商人文化の活力と主張が、京都の貴族文化の堅苦しさと寡黙さに置き換わったと言えるかもしれない。古都では、自分の個性や衝動、欲望を抑えることがマナーである。身振りは常に抑制され、意図は常に隠され、意見の相違は決して直接的に表現されることはない。全ての言葉や行動は、正確にコード化された道筋に従う。自由はあるが、許される範囲内のパラメータと儀式に過ぎないのである。京都の礼儀作法が求める非の打ちどころのない丁寧さと寛大さは、目に見えない期待と義務の綾を生み出す。しかし、視線の奥の情熱、笑顔の下の怒り、うなずきの中のあきらめなど、その下部には、わずかなニュアンスが大きな影響を与えるのである。感謝の気持ちと謙虚な振りの下には、果てしなく複雑な暗黙の交渉が存在する。儀礼的な礼儀作法の裏側には、忘れがたい侮辱、忍耐強い策略、世代を超えた復讐心など、静かに激化する冷戦が隠されているのだ。

京都の芸術家、職人、建築家の世界にも、このような慎重さと抑制が必要である。両極端は許されるが、中途半端な熱意と凡庸な技術は許されない。創造的な人間は、技術の限界を超えることで自我の表現を目指すのではなく、受け継がれた技術を完全にマスターすることに集中し、それに伴って自我を抑制することが期待される。3)山口の建築は一見、強い動機を持たないように見えるが、細部へのこだわりに動機が潜んでいるか、あるいは明快な形を不明瞭にする事によって曖昧にしようとする動機が潜んでいると言った方が正しいだろう。

この10年ほど、山口はAI技術をデザインプロセスに取り入れる可能性を探ってきた。創造的決定は、アルゴリズムによる精巧さとパラメトリックな最適化にますます委ねられている。「BreathingFactory」(大阪、2009年)と「MOGANA」(京都、2018年)はいずれも、隠されたライトコートを含む細長い直方体のボリュームというテーマを継続しているが、前者のプロジェクトでは、ファサードグリッドのルーバーがフィボナッチ級数に基づく確率的アルゴリズムに従って配向し、後者の廊下には、内部全体に起伏のある連続性を生み出すパラメトリックな定義のスラットが敷き詰められている。その他の未制作プロジェクト、特に海外のプロジェクトである「グリーンセルパーク」韓国、2009年)、「ダイアゴナルチューブ」(オーストラリア、2012年)、「パルヌパークターミナル」(エストニア、2014年)、「レインボーライブラリー」(ブルガリア、2015年)では、欧米の実験建築に共通するパラメトリック技術を用いながら、非常に高度な抑制をかけて形態と表面をますます繊細に変化させている。山口が設計や施工のプロセスに技術システムを段階的に導入しているのは、確かに作者のエゴを減衰させるためかもしれないが、結果に対するもっともらしい否認を維持しながら表現の強度を高めるための手段でもある(あるいはそれ以外でもある)。

安藤の建築への影響と並行して、山口の著作はアイゼンマンの理論的テキストから概念的なインスピレーションを得ている。特に、彼のダイアグラム的デザイン・プロセスの概念は、3つの概念的な用語、すなわちinteriority(建築の学問的定義)、exteriority(その分野を変えるために使われるかもしれない外部概念)、anteriority(その分野の歴史の蓄積)に支えられている。山口の場合、建築につきまとう隠された意図であるulteriority(秘匿性)という第4の言葉が働いている。つまり、アイゼンマンの「内」「外」「後」の三項対立に、「下」を加えるかもしれない。山口の作品の静寂さは、決して無邪気なものではない。彼の文字通りの、そして概念的な空白のインスタレーションは、水面下に曖昧さと異化作用が満ち溢れている。あらゆる明白な効果は、静寂の中の潜在的なノイズ、明瞭さの中の曖昧さ、静止の中のダイナミズム、陰謀の中の策略を明らかにする脱構築的な読みを要求するのだ。

Breathing Factory  提供:山口隆建築研究所
White Temple
MOGANA  提供:山口隆建築研究所

脚注

註1) From “Wobble: The Cat Has Nine Lives,” a conversation betweenPeter Eisenman and Mark Wigley held at Columbia University GSAPP (12September 2012).

註2) A truism that is perhaps most clearly articulated in Donald Keene,“Japanese Aesthetics” in Philosophy East and West , vol. 19, no. 3 (July1969).

註3) See Ian Buruma, “Work as a Form of Beauty,” in Tokyo: Form andSpirit, ed. Mildred Friedman (New York, NY: Walker Art Center, 1986).

註 4) See Peter Eisenman, Diagram Diaries (New York, NY: UniversePublishing, 1999).

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