わたしの拡張・身体/建築|根城 颯介

バーチャルとリアル

2020 年春、新型コロナウィルスの流行拡大に伴い、緊急事 態宣言下の中で家に籠る毎日だった。入学してからの半年間、 同級生とも実際に顔を合わせることはなく、知っているのは zoom の画面上に小さく映される顔や声だけ。身体は自室の家 の椅子に座っているから、顔と音声だけが相手の知りうる私の 全てであり、そのような状況でのコミュニケーションの言葉は どこかフワフワと漂ってしまってどこか自分のものとは思えない。バーチャルなわたしとリアルなわたしが対応していない奇 妙な感じを体験した。

この文章を書いている2023 年夏、京都の街には観光客が戻 り、対面授業や中止していた行事・祭りは再開され、以前と変 わらない日常生活が取り戻されている。それでもこの数年で変 わったことはあって、オンラインでのコミュニケーションの ハードルは確実に低くなったし、メタバースやXR などの言葉 を耳にすることも多くなった。コロナ禍の時期というのはバー チャルな空間の価値が大きく問い直される時期でもあっただ ろう。液晶画面のような2D のインターフェイスを通してバー チャル空間にアクセスするだけではなく、ゴーグルやセンサー を付けて身振りなども含めたアバターコミュニケーションを行 う没入型のバーチャル空間体験も一般的になりつつある。近い 未来にバーチャル空間で一日の半分を過ごすといったことも普 通になるかもしれない。

それらは空間や居場所にも関わる問題であるため、著名な建 築家がバーチャル空間上の建築をデザインする取り組みも行わ れ始めている。例えば隈研吾氏はオンライン教育の高校として 知られるN 高等学校のバーチャル校舎を学びの塔としてデザ インし、藤本壮介氏はアートや家具などのバーチャルショー ルームや将来的なメタバース都市のプラットフォームとなる 「SPACE ∞ TOKYO」 のデザイン監修などを行っている。バー チャル建築についてほとんど現実と区別がつかないような見た 目をしていることもあるし、先に取り上げた建築が重力から解 放され空に浮かんでいるように、バーチャルな空間は制約がな く、現実を超えて現実よりも自由に世界を作ることができると いう一般認識があるように思われる。

しかし、現実世界と同じように、窓を開けたら入ってくる風 や鳥の鳴き声を心地よいと思ったり、夕暮れの散歩途中、住宅 街から夕飯のにおいが漂ってきて移り変わる光や雲の様相に感 動することがあったり、あるいはある空間に入ったときにスン と姿勢が正されるようになる感覚をもったりすることはあるだ ろうか。一見するとバーチャル空間はなんでも実現できる自由 な世界のように思われるが、デバイスで処理できる情報量には 制約があり、現実世界の空間が持っている情報量はバーチャル 空間が持っている情報量に対して桁違いに多く、現実世界をそっくりそのまま完全にバーチャル世界に再現することはでき ない。例えばバーチャル空間での体験は主に視覚や聴覚に依存 する部分が大きいが、現実世界では視覚や聴覚の五感だけでは なく、平衡感覚や、体の深部に作用する固有感覚である重量覚 や位置覚、抵抗覚などの様々な感覚を統合して情報処理を行っ ている。その為どんなに大掛かりな装置を身に着けたとしても、 それらすべてを完全に再現することはできないのである。バー チャル空間はある特定の体験を誘導するのに特化しているかも しれないが、日常生活を送る場がそれに置き換わることは(身 体が現実世界にあり、世界が複雑で偶然に溢れている以上)な いのではないだろうか。バーチャルな世界に可能性を感じる一 方で、身体性と対応していないバーチャルな体験はどんなに美 しく感動する景色でも、どこか虚しさも感じる夢物語だと思っ てしまうのである。

 

身体と建築

先日、荒川修作とマドリンギンズが設計した「三鷹天命反転 住宅」を見学する機会に恵まれた。ただ、見学するだけではな くこの家に実際に暮らしているかのように建築と向き合ってみ ると、身体をたくさん動かさなければいけないことがわかる。 カバンを天井のフックに引っ掛けるためには背伸びをして手を 伸ばさなければならないし、洗面台の床は反り返っていて顔を 洗うのに足を踏ん張らないといけない。天井や床は傾斜し、中 央の部屋の床はたくさんの凸凹がついていて、歩くと絶えずバ ランスを崩すようになっている。球体の部屋で声を発すると自 分の立ち位置によって声が近くなったり遠くなったりする。さ らに壁や床や天井が何色ものカラフルな色に塗られていて、ど こを見ても6色以上になるように塗り分けられているそうだ。 この家で暮らしていると様々な角度から身体に建築が訴えかけ てくるのだ。

画像1

 

人間と環境には密接な関係がある。同じ空間に対する居心地 の良さや過ごし方は、子どもと大人では違うし、文化の違う日 本人とアメリカ人では異なってくるだろう。あるいは同じ人で も四角い部屋と丸い部屋では受け取る印象や過ごし方は変わっ てくる。形態だけが影響を与えるのではなく、ざらざら・つる つるといったテクスチャや、素材や壁紙の色、にぎやかさと いった音環境、窓の外から差し込む光あるいは電球の小さな光、 様々な事象やモノが複合体となって環境をつくり、それらが人 間に対して心地よい、落ち着くといった感情を想起させたり、 「この場所にはダイニングテーブルを置こう」「この場所では寝 て過ごそう」という行動を誘発させたりする。建築を設計する 行為とは、環境が人間に影響を与えるという前提で、どのよう な体験をさせたいかを想像し環境を作ることであると言い換え られる。しかし、それはある特定の体験を想起させるだけの機 械のようなものになってしまうのではつまらない。特定の体験 を与えるだけの世界なら、全てがプログラミングによって作ら れるバーチャルな世界のエンタメで十分だ。空間に意図した性 格を付与する一方で、多様な解釈に開いていたり、想定外の体 験を許容できるおおらかさを持っていなければならないとも思 う。このように、人間と環境の関係を考えることは建築の設計 行為の根幹にあり、良い建築が作れるかどうかはいかに身体と 建築の関係に対して豊かな想像力を働かせられるかに懸かって いるのではないかと思う。

 

わたしの拡張

道具は人の能力を拡張する。ナイフを使えば手で切れないも のが切れるようになるし、望遠鏡を使えば肉眼で見えないもの を見えるようにすることができる。車に乗れば素早く移動する ことができるし、深海や宇宙にだって行けるようになった。コ ンタクトや人工臓器のように、身体とほぼ一体となって能力を 強化し、拡張することだってある。建築は雨風から身体や家財 を守る道具として生み出され、一番身近な道具で、生きていく うえで必要不可欠な道具の一つである。キリンの首が長くなっ たように、動物は自己の身体を進化させることで環境に適応し てきたが、人間は道具を作ることでさまざまな能力を獲得し、 これほどまでに文明を発展させている。コンピューターを使い、 バーチャルな世界を構築していこうという流れも、バーチャル な世界にもう一人のわたしを作り出し拡張していこうとする流 れであるのだろう。道具のデザインは、今存在している既存の 概念を疑うことから生み出される。雨風から身を守りたいがど うすればいいだろうか。木では心許ないからもっと強固に建て ることはできないだろうか。機能性だけではなく、美しさも同 時に作り出すことはできないだろうか。建築単体だけではなく、 まちに対しても良い影響を与えるように作れないか。人間は身 を置いている環境から影響を受け、環境を新たに作り出し、新 たに作り出された環境からまた影響を受ける。人間は人間と環 境の相互関係の循環の中の存在なのである。

ここで、例えば人間的なフォルムを保ちながら、目が後ろに もついていて360 度の視界を持つ(あるいは羽が生えていて 自由に空を飛べる、手や足が4本あって自由に動かせる、もの すごく早く移動できるといった)人間αがいたら、彼らにとっ て一番身近な環境である建築にどのような影響を与えるのだろ うか。(ここでいう人間αは、道具に頼らず自身を変化させることにした、パラレルワールドの人間のような存在であろう か。)もし彼らのために建築空間を考えたとき、それに対応し て建築はどのように変化するだろうか。例えば従来の建築の正 面とは平面的に対称であることが多いが、360 度の視界をも つ人間αでは、正面の概念が変わるため、曲線を使用した流線 形のデザインが好まれるかもしれないし、視覚的連続性や部屋 同士や内外とのつながりに関しても違った手法がとられるかも しれない。これまでに、「環境をデザインしたときに人間の身 体にどのような影響を与えるか」については多くの試みが為さ れてきたが、人間の身体に着目して「人間側が変化するならば、 環境がどのようにデザインされるのか」という視点は、あまり 議論される問題ではなかったように思われる。実際に人間がそ のように進化することはない。しかし、(拡張された)身体→ 環境(建築)→(拡張されたような)身体という環境と身体の 相互関係を考えて、仮想的人間αの視点を建築を設計する際に 持ち込んで考えることで、新しい建築の可能性を探ることがで きないだろうか。既存の概念を疑い、想像することからデザイ ンは生まれるのだから。普通の2つ目の人間が生活する空間を、 360 度の視界を持つ四つ目の人間を仮想的に想像して設計し たとき、2つ目の人間にとっては4つ目の人間の体験を疑似的 に体験するような空間性を持たせることができるかもしれな い。視界の端で別の出来事が同時に起こっている感覚であった り、全ての方向に対する広がりを感じることになるかもしれな い。人間は生身の身体では空を飛ぶこともできないし、海の上 を歩けることもできない。しかし、環境をデザインすることで 身体にアプローチをすることで、どこまでも自由で拡張された ような感覚を疑似体験することはできるのではないだろうか。

 

わたしと身体/建築

わたしの原風景は生まれ故郷である北海道の果てしなく広が る大地と、大空。冬にはあたり一面が白に染まるような、そん な景色である。身体中の感覚を研ぎ澄ましてあたりを見渡して みると、世界の美しさに気づくと同時に、自分がとてつもなく 大きな身体をもったのかと錯覚することがある。遠くの生き物 や風の音が聞こえ、どこまでも自由に広がっていくようなそん な感覚。身体と建築の関係を考える。そんな思いを抱えながら 建築を続けていきたいと思うのである。

画像2 2019.6.18 モエレ沼公園
提供:筆者(写真)

関連記事一覧