野老朝雄 |「 つくりかたのつくりかた」をつくる

――その他の活動としてはどのようなことをされているのでしょうか。

他の活動としては、東京大学の舘知宏先生と協同して「つながるかたち展」という展覧会をやっています。

(注釈)単純なかたちが一定のルールでつながり、全体を構成するしくみは、人工物、自然現象を問わず現れる普遍的な原理です。野老さんはこの原理を「個と群」と呼び、多様につながる作品群を生み出しています。(中略)東京大学教養学部で開講されている「個と群」(文理融合ゼミナール)では、受講生が野老さんと東京大学の舘知宏先生と協働して、「個と群」の創造プロセスを実践しています。(中略)この活動を端緒として始まった展覧会「つながるかたち展」は、2021年以降毎年開催され、かたちをつくることから始まる学術の連鎖を紹介しています。(ICCホームページより抜粋)インタビュー時、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]では、「つながるかたち展2.5」が開催されていました。

ここに展示されているものは、ブラッシュアップされ続けている作品です。学部生や舘研究室の学生がつくったものも多くあります。すごいですよね。その中に、「野老さんの市松作品はだいたい畳めます」と言って僕がスタディをしたものを片っ端から畳み始めた学生がいます。最高に気持ちよかったですね。その先輩をライバル視している学生もいて、その人は四次元がどうこうって言って木彫りの作品を持ってきてくれたのですが、その人も数学が非常に得意な子でした。一人の学生が何か面白いことをやってくるとまた別の学生がそれを上回ることをやってくる。本当に面白いですよね。

図15 「オーセティック構造及びボロノイ分割の幾何学特性を用いた研究開発群」割鞘奏太

当然ながら、舘先生もすごい方です。つながるかたち展は01から始まって現在2.5なのですが、2.5には舘さんが作った「オリガミ・スタンフォードバニー」(2007)という有名なウサギのオリガミがあります。なぜ2.5かというと、01、02と名前を先に付けてしまったので、その後新しい展覧会の開催が決まったときには既に03を行うことが決まっていたんです。じゃあ02と03の間だから02.5でいいかって僕が言うと、舘先生に「数学的にダメです。」と言われました。(笑)。面白い組み合わせだなと思っています。僕は数学のトーンもマナーも全く知らずにやっているので。僕としては、まさか自分が数学の先生と組んでこういうことをするとは思っていなかったんです。数学は全然得意じゃないし、作品をつくるのも手探りです。紙を折って開いては折り目に線を描いてを繰り返して、どことどこがつながっているかを探っていく。これが一番、自分に合ったやり方だと思います。このやり方であればわざわざ数学や算数という特殊な言葉を使わなくても、小学生でもできますよね。イギリスだったらElementary mathematicsとかですかね。○△□でどこまでいけるか、といった感じです。そんな誰にでもつくれるつくりかたのようなものを僕はつくりたいと考えています。つくりかたのつくりかたをつくる。英訳もわからないですが、“How to Make How to Make”みたいな?東京2020のエンブレムも、つくり方が明らかですので誰でも描くことができる。僕が作るものはいずれ全てがオープンソースになればよいと思っています。また、「つながるかたち展」は、舘先生と一緒に東大の教養学部でやっている「個と群」という授業から派生したものなのですが、本郷の建築学科では「造形6」といういわゆる造形演習の授業もやっています。そこでは“Condition Specific”というタイトルをつけています。建築では“Site Specificity”という概念を学びますよね。要するにある場所が持つ特殊性のことで、マテリアルは何か、平面なのか斜面なのか、雪なのか砂漠なのかなど、場所とその周辺の特殊性によってそこに建つ建築のかたちが変わってくるという話でもあります。“Condition Specific”というのは、建築が使うSiteという言葉をもう少し広げて、「あなたはこのぐらいの机しか持ってない」じゃなくて、「あなたはこの机を持っている、じゃあ何ができるか」という風に、または「あなたは友達が3人しかいない」じゃなくて「3人はいる、じゃあその人たちに何ができるか」などといったことです。

――デザインの根底にされている「個と群と律」について詳しく教えてください。

個と群という概念は、一緒に作品をつくっていたある人に教えてもらいました。その方と会った頃はまだあまり作品ができていなくて、周りからはあっちをやったりこっちをやったり、ふらふらしているなとも見られていたと思います。そんな時にその人に、「多分まだ作品数が少ないんですよ」と言われたんです。「もっと数がいっぱい出てくると、群になってくると、今わかってくれていない人もわかってくれるはず。あ、この辺をやりたい人なのだなと」と。初めて自分で個と群という言葉を使ったのは、8年程前です。国際芸術センター青森(ACAC)という場所で、「青森市所蔵作品×現代作家」という作品展がありました。(野老朝雄×青森市所蔵作品展「個と群」)それは、市が持っているものの捨てるに捨てられず、倉庫に埋もれてしまっているものと、作家自身の作品を一緒に展示するというものでした。実はこの個展が決まった頃も、自分が何をしているのかというのは分かっていなくて、個展を通じて自分を見つめ直しているような感じでいました。「デザイン」「アート」等、領域の定義で縛られ得る中、ここではスムーズに美術家として扱ってくれました。その時に、[個と群]っていいな、前に教えてもらったよな、と思ったんです。この個展でちょっと面白かったのが、普通のこけしを一列に並べてみて、後で数えたら108だったんです。煩悩の数だと思いました。何の変哲もないものでも、100を超えると何か見えてくることがあると思います。これが3つだけあるよりも数があるからこそ、できるものがあると思うんです。でも、まだこの時は「律」という言葉は思いついていませんでした。「個と群」と何だろうと思っていた時間が数か月あり、「律」という言葉がちゃんと定着してきたのが2016年以降です。阿部仁史さん(Professor of UCLA architecture and Urban Design)が自分のスタジオに珍しく来てくれたことがあって、その時にパッヘルベルのカノンの話を持ち出して「野老君がやろうとしているのはこれなんじゃない」と仰っていただき、腑に落ちました。コード、要するにシェアできるものがつくりたいのかなと。要は、私がつくっている部分は、左手のコードみたいなところかもしれないなと思いました。あと、今VUILDにいる、長岡勉さんという建築家の方との会話の中での話ですが、例えば何かを置く時に、それを直線状に並べた瞬間になにかそこに意図があるのかなとか、二列に並べるとなんだか儀式が始まりそうだ、みたいな印象を受けますよね。それもやっぱり一個じゃダメで、二個でもよくわからなくて、三個ぐらいになってくると「お、次があるぞ」という感じで、複数になった時に出てくる力ってすごくあるなと思いました。我々は[置き道]と呼びます。もちろん、個ではできないこともあれば個だけができることもあると思います。例えばダンスなら、ソロダンスには個の力がありますが、一方でグループでの一糸乱れぬかっこ良さみたいなものもあると思います。そのように「個と群」、「律」という言葉を置いてみると、それが助けてくれる時がありました。その時には、もう制作を始めて十何年経っていたはずです。「個と群的には、こうですよね」という話は私がいなくてもできます。そうなると、その概念は独立し得ます。「個と群」と「律」というのは皆でシェアできるものです。「こういう現象があったんだけど、めちゃくちゃ個と群と律だよね」みたいな風に。“Condition Spesific“の話もよく考えると、そこでどういう縛りをつけるかということですね。縛りと言うと悪く聞こえるかもしれないですが、一種の「律」かもしれません。東大の“Condition Spesific“の授業中に、千葉学さんから「何通りもできる中で、なんであなたはこうしたんだ」と質問されました。確かになと思いました。一つの逃げ方としては「愛です」というのが答えになります。例えば結婚しているとしたら、その人にたどり着くまでに何人の人に会わないと気が済まないというならばそうしても良いと思いますが、そういうことではないですよね。あ、この人だなってしっくりきた感じで結婚しますよね。でも、千葉さんはその答えを許してくれない。つまり、私たちが設計を始める時には、何億という可能性がありますよね。その中で何かに集中するということは、何かを見ないという決定でもあります。他にもあったかもねって言われたら、そうかもしれないとは思うのですが、そこには多分ある種の「律」が働いているのでしょうね。

――その最後の部分は感性でしょうか?

そうかもしれません。でも、そうとは言いたくないような感じがします。例えば、素晴らしいスタイリストには「なぜなら〇〇であるからだ」などという言葉は必要ないですよね。その対象が美しいかどうかとか、ふっとハマるかどうかとか。そこで理由を述べよっていうのはちょっとナンセンスな気がします。でもそういう説明をしていくことが必要な場面もありますよね。後で紹介しますが江頭慎さんという私の師匠がいて、何があなたのクライテリアなのか、つまり何が判断の基準なのかということをものすごく叩き込まれました。建築家である江頭さんは同時にアーティストでもあるし、詩人でもあると思うのですが、私に対して理詰めに物事を絞っていく方で、彼の影響で私もクライテリアという言葉を使っていました。だから、もしかしたら律というものが私にとってのクライテリアなのかもしれないです。クライテリアはクライテリオンの複数系だそうです。特に建築の場合ではクライテリアは無数にありますよね。だから1個ずつつぶしていく。あるいは足りないものを足していくという考えもあるかもしれないですね。律はちょっと背伸びして名づけてしまった感じがします。

――その時にコントロールしている要素には、形以外に色もかなりありますか?

「何をどう省くか」を考えている部分はあるかもしれないですね。例えば、自分の衣服に関して言えば割と意図的に「藍色おじさん」でいることにしています。そういう縛りを一つ決めると、お店で藍色がなかったらもうお店を出るという、簡単なことができたりします。何かを選ぶことは、他の何かを全部捨てることでもあると思います。かといって身の回りのものを全部青くしようという話ではなくて、たまにオレンジとかを着ると気合いが入るというか、特別なものになることもあると思います。何を着なくちゃいけないといった律を定めることで、全然違うものにいった瞬間に別の価値が出てきたり、感動が出てきたりということが起こりますよね。個人個人で考えると、その人の「様式」なのかもしれないですね。あいつは面白いTシャツしか着ない男だった、というように。なので、縛りは、本当は不自由なんですよね。だけど、不自由にすることで得られるものもあるのかもしれないと思います。

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