【竹脇・藤田研究室】建築構造学の新しい視点と展開
竹脇出教授 インタビュー
聞き手=小宅裕斗、上田昂平
2022.8.2 京都大学竹脇出教授室にて
ーー先生はなぜ建築を選ばれたのですか
高校時代は化学部に入っていて建築なんて全く眼中になかったんです。私は高校から大学を選ぶときに、京都大学の工学部ならどこでもいいくらいの気持ちでおり、親父に就職の面で建築がいいのではないかと言われた程度でした。
ーーなぜ構造系に進み、教授になろうと思われたのですか
一回生の時に、建築意匠や環境も含む今の建築工学概論よりももう少し一般的な建築概論という土曜日の昼からの授業があったんです。その授業で横尾先生の構造の話を聞いて、建築には物理に近いような構造力学という分野があるんだということを知ったんです。その後に、二回生の後期から、横尾先生に代わって構造力学の講義に来られた中村先生という方の授業が、非常に綺麗に書かれた授業資料のもとで、ものすごく視覚的かつ論理的で分かりやすい授業だったんです。構造力学というのはこういうものから構成されているんだということに惹かれ、それで建築の構造に進みたいなと思うようになったんです。またその後、さらに研究に興味が湧き、英語で書かれた論文などにも惹かれて研究の道に進もうと思ったのです。
ーー教えることではなくて研究をすることに興味があって教授になられたということですか
そうですね。最初は教えるというよりも自分の研究を進めたいということでした。
ーー研究テーマはどのように決めているのですか
もともと学生時代は留学がしたかったんです。構造力学等の先生が英語の資料を配っておられたので、英語による研究に興味が湧き、大学院に行ったらどこかに留学したいなと思っていました。奨学金をもらわないと留学できないのですが、それより先に24歳の時に修士を出てすぐに助手になってしまいました。その後、奨学金の応募をしたりしてチャレンジしていたんですけどもなかなかうまくいかずに、結局32歳の時に鹿島財団に採用してもらって留学できたんです。デンマークやオーストラリアなどの論文で知っていたいろいろな人に声をかけたりして、来てもいいよということになったんですが、構造力学や耐震設計などに興味があったのでアメリカに行くことにしました。カリフォルニア大学のバークレー校は有名で、1980年代頃は有限要素法や耐震設計のメッカということもあって、論文でしか知らなかったような先生がいっぱいおられたので、そこに行きたいなと思ったんです。
ーーそこから現在の研究に繋がったんですか
そうですね。昔は中村先生が進められていた最適設計や逆問題などを中心に研究していたんですが、いまひとつ自分の中では納得していないところがあったのです。それはそれなりに、数理的には面白いのだけれど、実際の耐震設計とどのように深く関係するのだろうかという思いがあったのです。応用的な面というよりも、もうちょっと基礎的なところが中心的だったんでね。また、研究の世界は独創性というものが要求されるので、論文を出してもなかなか通らないという側面があるんです。最適設計や逆問題などに関する論文では、なかなかその独創性を示すことが難しかった部分があります。でも、そのような成功ばかりではない体験が今の研究に繋がっていると思います。
ーー独創性という話が出ましたが、竹脇・藤田研究室といえば極限的ダブルインパルスの研究が特徴としてありますよね
大学院生の時の講義に南井先生の耐震特論というのがあったんです。そこでは昔の世界地震工学会議の論文集から有名な論文を持ってきて、順番に学生を指名して発表させるという方式がとられていました。その中の一つに、正弦波でゆすったバイリニア型の1質点系か2質点系の定常振動というものがありました。当時はコンピュータが今ほど自由に使える訳ではなかったので、正弦波のバイリニアの解析ですら簡単にできなかったんです。その論文では解析的に数式で定常状態を求めていくことに主眼が置かれており、非線形すなわち弾塑性の定常状態を求めることが主たるテーマでした。また、中村先生の研究室ゼミでは最悪地震動という別のテーマをもらい、これらの2つのテーマをうまく解決できないかというのが私の頭の中にあったんです。それが30年ほど経過した2015年の時に正弦波の1サイクルを見ていて2つのインパルスを思いついたのです。バークレーのChopraさんの『Dynamics of structures』という本にも2つのインパルスという問題がありました。それは弾性の問題だったので2つのインパルスの線形応答を重ね合わせたら簡単に求まるものなんですが、弾塑性になると簡単に重ね合わせができないのです。それで、弾塑性の時のダブルインパルスに対する解、しかも共振というものがうまく求まるということが分かったので2015年ごろに研究し始めたんです。その後、1自由度系から今は明橋君がやっている多自由度系というところまで拡張して研究を進めたんです。
ーー教授をしていて大変だったことはなんですか
今でこそ電子メールが非常に盛んになっていますが、1980年代とかはね、郵便で論文を投稿したりするんですよ。するとそこの編集長の人にまず送って、そこから査読者の所にまた郵便で送られるんです。1ヶ月くらいは平気でかかったりして、そこで査読が3ヶ月とか半年とかかかるんですよ。それで一回だめになったら返ってきて、何回もやりとりするということになって、普通に1年くらいはかかってしまうんです。論文が一発で通ることはなかなかなくて、論文が認められるまでの忍耐力というところが大変でした。また、雑誌の数も今はいっぱいあるんですが、昔は少なかったからね。論文が採用されるまでに時間がかかったり苦労したりして、なかなか向こうに独創的なアイデアを理解してもらえないというところはありましたね。
ーー研究の環境は昔と比べて今は良くなってきているということですか
それは分かりませんよ。昔は時間がかかったからじっくり考えられたけど、今はすぐに電子メールが来るから忙しくてゆっくり考える時間がないですね。ダブルインパルスなどの考えやアイデアなんかを思いつこうとしてもすぐに連絡が来るので、ずっと自分の頭の中に置いておくって訳にいかないのです。昔と今のどっちがいいかは分かりません。連絡を取る分には良くなっていますが。
あとは、海外の人と知り合いになったりすると査読とかもすんなり行ったりするんですよ。全く研究内容を知らない人が書いた論文を査読してくれって頼んでも、実績がないと本当にいい論文なのか分からないけれども、有名な先生が書いた論文が送られてきたら、この先生の論文だから大した論文だろうなってことで、実績というかネームバリューというのがあるんですよ。また、私たちの研究室の先生方は海外との行き来があまりなかったんで、留学とかも苦労しました。もう少し指導していただいた先生方に海外との交流があれば楽だったかもしれません。でも自分がそういう境遇に置かれて苦労して調べたりしたことは自分にとって良かったと思います。
ーー教授としてやり残したことや後悔はありますか
研究は色々やったんですが、海外との交流をもっとできたら良かったなというのはありますね。海外との交流もだいぶやったんですが、もう少し行き来して向こうの学生をこっちに受け入れたりとか、こちらの学生を向こうに送ったりとかいうような国際的な交流があっても良かったかもとは思いますね。でも良い面と悪い面があって、自分が向こうに行ったり、国際会議にしょっちゅう行かないといけなくなって、そちらに時間を取られて良い研究ができなくなるんですよ。交流が盛んになればなるほど時間が取られてしまって独創的な研究ができなくなってしまう。でもそればっかりやってしまうと海外交流が無くなってしまうという……。両方はなかなか難しくて大変だなということです。
ーー退官されてからは何をされるんですか
京都市内のどこかの小さい大学に行って構造力学を教えたりとか、私立大学のマネジメントをしたりとか、民間の人とタイアップして色々と新しいことができたらなというふうに思っています。京都大学に来て四十数年なので、京都大学からは少し離れたいなと考えています。私立大学で全く新しい、違うタイプの学生に会ってみたりしたいなと。それから、海外の人と色々とやりとりをしているのでそれは続けるつもりです。『ジャーナルのエディター』とかね。スイスに毎年一回行ったりとか、海外の人とやりとりするのは楽しいですね。全然違う考えを持っている人がいたりして、海外の都市を訪れたりするのが非常に面白いです。研究は論文を書いたりとかは今までほどはしないけれども、教え子と議論したりして、共著になって欲しいと言われたら手伝ったりとかはしていくつもりです。
ーー幸福度グラフを書いてもらってもいいですか
難しいなあ。何を評価軸とするかによって違うからね。その時その時に一生懸命に生きてきたので難しいな。高校を卒業してからの大学生時代は新しいことを学ぶのが楽しかったな。20代中盤の助手時代とかは大変やったから50くらいかな。上がったのは、教授に昇任した時や、新しい研究を始めたりした時かな。
ーー脳内グラフを書いてもらってもいいですか
この1年とそれまでとでは違うからとりあえず今でいいですか。今は構造力学の本を書いているから、教科書執筆と、あとは論文の執筆かな。趣味というのは特にないな、スポーツ観戦とテレビかな。