棲み分けの多様な原理|布野修司
そもそも、建築すること、設計することは、空間を境界づけることである¹。建築の起源は、自然を人口環境化すること、雨風を防ぎ、寒暖を制御し、快適な居住空間を維持するために、自然との間に境界をつくることにある。そして、空間と空間を仕切ること、すなわち、空間をどう分離し、どう結合するかは、設計行為の本質である。
名づけること、すなわち、言語の成立そのものが、物、事を区別することである。そして、境界(boundary, border, bound)をつくるということは、聖と俗、公と私、内と外、男と女、支配と被支配・・・を空間的に区別することである。建築するということは、時として、空間を隔離segregateする暴力的行為となる。都市計画手法としてのゾーニングはまさにその象徴である。
― 究極のセグリゲーション:アパルトヘイト・シティ
今日のアジア、アフリカ、そしてアメリカ大陸の数多くの国家を境界づけている国境線は西欧列強による植民地分割の歴史的遺産である。国土のかたちは川や海、山や砂漠など自然によって境界づけられるのが一般的であるが、直線で区切られた国境線はいかにも不自然である。植民地においては、支配-被支配、外来-土着、富裕層―貧困層の分離は極めてクリティカルである。
1997年に植民都市研究²を始めて四半世紀になる。世界中の植民都市を歩いてきたが³である。しかしそれにしても、「アパルトヘイト・シティ」のすさまじさは想像を絶する。その起源は、1834年の奴隷解放によって、ケープタウンに自由奴隷のための特別な居住区(ロケーション)がつくられたことに遡る。その後の原住民(都市地域)法Natives (Urban Areas)Act(1923)から集団地域法Group Area Act(1950)へ至る経緯はここでは省くが、 Lemon(1990)の模式図のように(図①)、白人の中心業務地区CBDを中心に、インド人あるいはカラード、アフリカ人という人種、収入階層などによって居住地は分離されるが、その幅は、場合によると数キロにもなるのである⁴。
1「カンポンとコンパウンド」(前号『traverse』22)の末尾に、「<包むもの/取り囲むもの>という言葉は、ある領域の境界、そしてその外部と内部をめぐる普遍的問いを突きつける。……共同体における相互扶助と内部規制という二重の機能が孕む基本的問題は問われ続けているのではないか。」と書いた。『traverse』という命名が既にその基本的命題を意識しているのであるが、「今、境界をつくるということ」というテーマ設定は、越境traverseすべき「境界」が見えなくなっているということなのか?
2 布野修司:植民都市の形成と土着化に関する研究:科学研究費補助金:国際学術調査1997ー98年/ 布野修司・応地利明・安藤正雄他:植民都市空間の起源・変容・転成・保全に関する研究,科学研究費国際学術研究1999ー2001年。
3 植民都市研究をめぐっては、『traverse』に何度か書いている。創刊号の「植民都市の建設者・・・計画理念の移植者たちThe Builders of Colonial Cities・・・Planters of Western Urban Planning 植民都市研究のためのメモ」(traverse01, 新建築学研究01,2000)はその最初の報告である。「植民都市の特性と類型 Characteristics and Typology of Colonial Cities オランダ植民都市研究 Study on Dutch Colonial Cities」(traverse04, 新建築学研究,2003)。「ハトとコラル 非グリッドの土地分割システム Hatos & Corales AntiーGrid Land Division System」(traverse09, 新建築学研究,2008)、「グリッド都市The Grid City」( traverse13, 新建築学研究,2012)。
4 佐藤圭一,布野修司:ボー・カープ(ケープタウン,南アフリカ)の街区構成と住居類型・・・ケープタウンにおける非白人居住区の空間構成に関する研究 Building Types and Block Patterns of Bokaap (CapeTown, South Africa) STUDY ON THE SPATIAL PATTERNS OF NONーWHITE QUARTERS IN CAPE TOWN, 日本建築学会計画系論文集, 555号,pp239ー246,2002年5月。佐藤圭一,布野修司,安藤正雄,ディストリクト・シックス(ケープタウン,南アフリカ)の街区形成とその解体・再開発に関する考察,Considerations on Formation, Destruction and Redevelopment of District Six(Cape Town,South Africa),日本建築学会計画系論文集,第578号,pp77ー84,2004年4月。
― パインランズ・ガーデンシティ:唯一実現した田園都市!?
植民都市研究の最初のターゲットとしたのは英国の植民都市である。大英帝国はその絶頂期(1930年代)に地球上の陸地の4分の1を支配した。まず焦点を当てたのは、その絶頂期に建設された大英帝国の3首都ニューデリー、プレトリア、キャンベラである。また、20世紀の都市計画理念として最も影響力をもったE.ハワードの「田園都市」⁵100周年ということも念頭にあり、各地の田園都市も視野に入れていた⁶。最初にロンドン経由で南アフリカに向かったのは、プレトリアとともにケープタウン郊外のパインランズPinelands・ガーデンシティの帰趨を確認したかったからである。
E.ハワードの田園都市の理念は、極めて単純なダイアグラム(図②ab)によって知られる。大都市への人口集中を衛星都市によって受け止め、分散するプログラムと一般に理解されるが、その核となるのは、「自給自足」(Self-contained)であり、土地の公有化であり、職住近接であり、都市と農村の調和・結合である⁷。この田園都市の理念は圧倒的な影響力をもち、世界中に「田園都市」が建設されることになる。しかし、実際に建設された「田園都市」は、その基本理念を実現することのない「田園郊外Garden Suburb」にすぎず、失敗に終わったとされる。しかしそうした中で、唯一成功したのがパインランズではないかという。その建設を推進したのは、事業家で南アフリカ連邦内閣の一員であったリチャード・スタッタフォードである⁸。設計したのはパーカー・アンウインParker &Unwin事務所の所員であったA.J.トンプソンAlbert Thompsonである。建設トラストは地元の建築家によるコンペを行い、ジョン・ペリーの案が選ばれたが、R.アンウインに欠点を指摘され、替わってA.J.トンプソンが推薦される。A.J.トンプソンがケープ・タウンを訪れたのは、1920年である⁹。その中心地区はレッチワースに似ており、クルドサックも用いられている(図③)。1924年6月半ばまでに95戸完成、入居さらに翌年2月までに12戸が竣工している。パインランズは、アフリカ最初の田園都市である。
パインランズ・ガーデンシティは、筆者が訪れた1997年には、まるで陸の孤島のように白人のみが居住する田園都市として、初期の完結した都市のイメージを維持してきたように見えた。アパルトヘイト体制が強化される中で、パインランズは存続してきたのである。反アパルトヘイト運動で27年投獄されたN.R.マンデラが大統領になったのは3年前の1994年であった。
5 『明日-真の改革にいたる平和の道To-morrow: A Peaceful Path to Real Reform』(1898)。『明日の田園都市Garden Cities of To-morrow』(1902)。
6 布野修司:田園都市計画思想の世界史的展開に関する研究-発展途上地域(東南アジア)におけるその受容と変容:科学研究費:基盤(B),1999ー2001年。
7 また、見逃されるけれど、E.ハワードが描いた数葉のダイアグラムには、「Diagram Only」と書かれており、具体的なレイアウトを示唆するものではなかった。実際に、最初の田園都市レッチワースを設計(1904)したB.パーカーとR.アンウィンは幾何学的配置を呪詛していたことが知られる。
8 1917年に彼はレッチワースを訪れ、ハワードに会い、その理念に感化される。そして、時の首相 F.S.マランに田園都市建設を訴え、議会はガーデン・シティ・トラストの設立に賛成し、400haの土地を寄付することになるのである。スタッタフォードは、「ヨーロッパ、アメリカ、アジア、アフリカ全てにとってのモデル」を提供する、と意気込んだという。ただ、自給自足、土地の公有、周辺グリーンベルトなどは必ずしもスタッタフォードの頭にはなく、周辺の土地の取得を自治体に委ねる利益追求型土地開発だという評価もなされている。
9 南ケンジントン大学の美術学校で建築を学んだA.J.トンプソンがパーカー&アンウイン事務所に入ったのは1897年の3月である。1905年からレッチワースの設計に参加、1907年にはハムステッドの事務所で働き、1914年の事務所閉鎖まで勤めている。パーカー&アンウイン事務所の番頭、実務家である。彼はパインランズ建設の契約終了後、南アフリカでいくつかプロジェクトを手掛けるが、プランを見る限り、今日でいう一般的な宅地開発である。1927年には南アフリカを去り、ナイジェリアに赴く。ラゴスの政府土地測量部で働いた後、1932年帰国、事務所を経営、1940年に62歳で死んだ。(John Muller(1995), ‘ Influence and Experience: Albert Thompson and South Africa’s Garden City’,Planning History Vol.17 No.3.
― セグリゲーションの諸相:人種・防衛・衛生・間接統治
植民都市研究を企ててロンドンを訪れた最初の日に、ホテルの近所にあった本屋で一冊の本が眼にとまった。出版されたばかりのRobert Home(1997), “Of Planting and Planning The Making of British colonial cities”である。一瞬、ヤラレタ!と思った。英国植民都市の歴史の全貌が既に一冊にまとめられているのである。早速、買い求めて翻訳したのが、ロバート・ホーム(2001)『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』である。研究室での翻訳作業に4年ほどかかるが、その間、ターゲットを英国植民都市からオランダ植民都市に切り替えた。英国に先立って、近代世界システムの最初のヘゲモニーを握ったのはオランダであり、日本は出島を通じて繋がってきた。オランダ植民都市について、さらに4年をかけてまとめたのが布野修司編(2005)『近代世界システムと植民都市』である。
R.ホームとは、その後、京都に招いたり、ロンドンの自宅を訪れたりすることになるが、彼は、『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』の第5章「ヨーロッパ人の(感じる)不便―人種隔離,その起源と衰退」でセグリゲーションの問題を扱っている。セグリゲーションは、通常人種隔離Racial Segregationを意味する。しかし、南アフリカでの人種の規定をめぐる議論をみても―黄色人種である日本人はカラードではなく名誉白人とされた―実に曖昧である。極端に走ると、ユダヤ人のジェノサイドに至ったナチス・ドイツの経験を人類はもっている。
セグリゲーションにもいくつかのレヴェルがある、R.ホームは、アパルトヘイト・シティを究極のセグリゲーションとしながら、防衛のためのセグリゲーション、公衆衛生のためのセグリゲーション、間接統治のためのセグリゲーション挙げている。インドにおけるカントンメント(兵営地)は、既往の都市と一定の距離を置いて設けられた。インド人の反乱、暴動を警戒してのことである。延焼を恐れての防火地帯を設ける意図もあり、伝染病に対する恐怖もあった。細菌理論が出現する以前には、病気は動物や野菜の腐敗などによる空気の汚れによって引き起こされると考えられており、病気を媒介する虫、ハエ、シラミ、特に蚊の飛翔距離以上の距離を隔てることが必要だと考えられていたのである。
近代都市計画の成立の起源には伝染病の発生と衛生思想があるが、コロナCovid-19禍で問われるソーシャル・ディスタンスの問題も基本的に同じである。健康、衛生、伝染病は、セグリゲーションの問題に深く関わっている。そして、貧富の隔離、「ゲイティド・コミュニティ」/「不良住宅地」のセグリゲーションも、今日もいたるところに見ることができる。
― シンガポールの実験:ショップハウス・ラフレシア
S.ラッフルズによって建設されたシンガポールは、セグリゲーションの原初的形態を示している。ヨーロッパ人地区を中心に、チャイニーズ,チュリア(インド・タミル系ムスリム),マレー,ブギス,アラブなどのカンポンをそれぞれ別の地区に配置するが、各地区を壁で囲むなどの隔離するわけではない。各地区共通に、住居の基本型としてヴェランダ・ウェイ(ファイブ・フット・ウェイ)を前面に設けたショップハウスの形式を導入する。英国植民都市の中では別にユニークである。
トーマス・スタンフォード・ラッセル¹⁰がシンガポール島に上陸し、周辺のオラン・ラウト(海洋民)を束ねていた首長に毎年一定の額を支払う条件で、商館建設の許可を取り付けたのは1819年初頭である。そして、シンガポールと命名、自由貿易港とすることを宣言する(1820)。各地から広範囲に交易商人を集めるために、交易の自由と安全を保証することが必要であることをラッフルズは深く認識していたのである。ラッフルズの港市建設の基本理念について,R.ホ-ム(2001)は,その植民地管理を間接統治の先取りであり、人種隔離計画の先駆とも位置づけるが、「ラッフルズは飛び抜けた夢想家で有能な帝国主義者」で,「支配される人々の文化,言語,習慣を深く研究した英国植民地総督の数少ない一人」であったとも言う。S.ラッフルズのいう自由貿易港は、しかし、様々な民族集団が棲み分けながら共住した(セグリゲーション)、それ以前の港市の基本特性でもある。
まず、形成されたのはチャイナタウンであり、先住のマレー人漁民やオラン・ラウトたちは南北の海岸沿いに居住した。また、1830年代半ばにはブギス人カンポンが北端部に形成された。そして、中央部のヨーロッパ地区の数多くの施設、住宅の建設に関わったのがアイルランド人建築家G.G.コールマンである¹¹。
19世紀末の民族集団の棲み分け状況をみると、初期のセグリゲーションが分布を大きく規定していることを確認することができる(図⑤)¹²。各民族集団についても、言語(方言)、出身地などによる下位集団ごとの棲み分けも見られる¹³(図⑥)(Yeoh, B.S. (1991))。
ショップハウス・ラフレシアすなわちシンガポールのショップハウス((図⑦))をめぐっては興味深いテーマがある。そもそもショップハウスという英語は、中国南部の「店屋」の英訳語としてシンガポールで生まれるのである。そして、アーケード(「ヴェランダ・ウエイ」あるいは「ファイブ・フット・ウエイ(カキ・リマkaki lima)」と呼ばれる)付きの連棟式ショップハウスは、海峡植民地をはじめとして東南アジア各地に建設されていく。さらに、中国南部に「騎楼」あるいは「唐楼」と呼ばれる形式として逆輸入される。ショップハウス・ラフレシアについては別稿としよう¹⁴。
図 ⑦ シ ョ ッ プ ハ ウ ス 1884 S i n g a p o r e N a t i o n a l A r c h i v e s
11 ラッフルズがシンガポールを訪れたのは1819年の1月から2月にかけての9日間,5月から6月にかけての4週間,そして1822年10月から1823年6月までの8ヶ月の3回だけである。1824年には帰国,1826年にロンドンで死去している。実際にシンガポール建設を遂行したのは、副総督LieutenantとなったP.ジャクソンJackson(1822~5)、G.D.コールマン(1826~41)、J.T.トムソンThomson(1841~53)である。しかし、シンガポールの都市建設についての基本理念を提起し、それを方向づけたのはラッフルズとみていい。
12 チャイニーズは、A,C地区の85%以上を占めている。また、E,G地区でも過半を占めている。インド人は主としてF,H地区に居住したが、チェティ、チュリアたちタミル商人、グジャラート商人たちの小さな地区は各地に存在した。ユーレイシアンは、シンガポール川の北E,F,G,Hに主に居住している。また、港湾地区Jにはクーリー(苦力)と呼ばれた中国人労働者、マレー人・インドネシア人が居住した。ヨーロッパ人の居住区は、中心地区から北東の郊外地区に広がっていった。
13 最大のアジア人集団を形成するチャイニーズを見ると、大半はチャイナタウン(チャイニーズ・カンポン)A,B,Cとカンポン・グラムE.Gに居住するが、閩南の泉州・彰州Hokkiens、潮州, 広東、客家、海南、福建、海峡出身などによって居住地は少しずつ異なっている
14 1887年の市政府Municipalitiesの設立以降については、シガポール国立公文書館National Archives of Singaporeにショップハウスの建設の届出のための図面がアーカイブされている(1890年から1930年まで263事例)。
― アジア海域世界の越境者たち
シンガポールに移住してきたチャイニーズは、上述のように、中国南部からの移住者たちである。彼らは東南アジア各地にいわゆるチャイナタウンを形成してきた。マニラ、セブのパリアン、ハノイ、ホイアン、マラッカ、ジョージタウン(ペナン)、バンテンなどジャワの諸都市、・・・東南アジアに限らない、博多の唐坊(唐房)、長崎の唐人屋敷、那覇の久米村もある。博多と寧波、福州と那覇、長崎とマカオ(澳門)の間には長らく交易路が維持されてきた。
一方、中国沿海部の港市には、蕃坊と呼ばれる外国人居留地が設けられてきた。泉州の蕃坊に居住したのはペルシア系の渡来者である。「施那愇」という蕃商がいたことが知られるが、この「施那愇」は,シーラーフであり,9~10 世紀にはインド洋交易のファールス地方の一大中心港市であった。また,13 世紀中葉になって,蒲寿庚という市舶司が現れるが,その祖先はもともと広州に居住し,蕃長の職を務めて大きな資産をなし,広州第一の富豪となったという。要するに、アジア海域世界の東西の国際交流は盛んであったということである。
日本もまた室町時代から江戸時代にかけて、日明貿易・勘合貿易、御朱印船貿易を展開するが、それに伴い南洋に移住した日本人は 7,000人から1万人に及ぶ(岩生成一(1966))。そして,日本人のみが集団で居住し町を形成したいわゆる日本町として,呂宋のマニラ近郊のディラオDilaoとサン・ミゲルSan Miguel,交趾のフェフォFaifoとツーランTourane,東埔寨のピニャルーPinhaluとプノンペン,そして暹羅のアユタヤが知られる。日本人が外人と雑居する都市は数多く,マラッカ,パタニから,はるかミャンマー,インドに及んでいたことがわかっている。
シンガポールに移住してきたインド人は、大きくタミル商人とグジャラート商人に分かれるが、前者には、コロマンデル地域を拠点としたチェッティ(チェッティヤール)(ヒンドゥー商人),チュリア(タミル系ムスリム,アラブ商人の子孫,インド・アラブ混血の商人),外来ムスリム商人、後者には、土着のバニアBania(ヴァニヤVaniya)商人(ヒンドゥー教・ジャイナ教商人),ムスリム商人(シーア派のボーラ商人,ホージャ商人),パールスィ(ゾロアスター教)商人に加えて,アラビア,イラン,トルコなどからの外来ムスリム商人,アルメニア商人がいる。
グジャラート地域は,マラバールなどインド西岸,ホルムズ,アデン・紅海,アフリカ東海岸の諸港と直接つながり,さらにマラッカを通じてジャワ,中国へ至る交易ルートの要に位置することから,特にカンベイ湾周辺には,古来,港市が数多く形成されてきた。
そうした中で,カンベイは,16世紀にはインド洋海域でマラッカ,カリカット,ホルムズ,アデンに比肩する主要な港市となり,18世紀前半にその地位をスーラトに譲るまで,ムガル帝国で最も栄えた港市であった。今日のカンベイも,宗教コミュニティごとの棲み分けが行われており,異なる宗教コミュニティが混住している地区は少ない。大きくはヒンドゥー居住区,ジャイナ居住区,スンナ派ムスリム居住区,シーア派ムスリム(ボーラ)居住区に分かれる。街区は,ワドwado,ファディアfadia,カドゥキkhadki,ポルpole,ガリgali,シェリsheri,モハッラmohallaといった名称で呼ばれる。街区規模は様々であるが,一つの街区単位が他の街区単位を包括するようなヒエラルキーは見られず,同列である。ヒンドゥー,ジャイナ教徒の居住区では,カドゥキ,ポルなどの街区名称が一般的であり,スンナ派ムスリムの居住区はモハッラ,ボーラ地区ではシェリ,ガリといった街区名称が用いられている(図Ⅳ4-2⑤)。街区が様々な名称で呼ばれることは、多様な背景をもつ人々によって構成されてきたその歴史を示している(図⑥)。
グジャラート地域、そしてコロマンデル地域に古来数多くの港市が立地したのは、アラビア海そしてベンガル湾を横断する航路が南西・北東モンスーンによって規定されてきたからである。『エリュトラー航海記』(紀元1世紀)以降の航海記(マルコ・ポーロ『東方見聞録』(1290~1293)イブン・バットゥータ『大旅行記』(1325~59)馬歓(1380~1460)の『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』費信『星槎勝覧』(1436)トメ・ピレス『東方諸国記』(c.1515))が示すように、アジア海域世界の東西は交流を続けてきた。そして、港市は多様な民族集団が共住する空間として、様々な物、人、情報が交換される場所として機能してきたのである。
ーエンポリア:多民族共住の空間
セグリゲーションの原理は、極端に走れば「アパルトヘイト・シティ」に行き着く。しかし一方、多様な民族集団が棲み分けながら共住するのは、歴史的にはむしろ一般的で珍しいことではなかった。港市Port City、交易港Port of Tradeは、古来、海を隔てた様々な地域から渡来してくる航海者、交易者が居住する場所であった。
古代ギリシャでは,ポリス(都市国家)において対外交易のために用いられた場所をエンポリアム(ラテン語 Emporium,英語 Emporia)といった。エンポリアは,本来,外来の交易者が都市内に入らずに交易ができるように都市の他の部分から離され,独自の港,埠頭,貯蔵庫,水夫の宿舎,食糧市場などを備えているものをいった。国内市場がアゴラであり,対外市場がエンポリアである。アテネのエンポリアはピレウスに置かれていた。ピレウスは,今日地中海最多のコンテナ取引量を誇る港市である。
港市の本質は,一般には,陸域と海域の境界に立地すること,その境域性にある(家島彦一(1996))。基本的に,海は,無主の場であり,無所有の場であり,自由の場であった。別の言い方をすれば,陸の支配・統治の及ばない無秩序,無法の世界であった。すなわち,陸域と海域の境界は,支配(主)と被支配(従)の,所有と無所有の,秩序と無秩序の,法と無法の境界である。港市は,陸域と海域を繋ぐとともに,港市と他の港市を繋ぐことによって,陸域と他の陸域を繋ぐのであるが,そのために,港市は,外部から来る多様な人々に対して,身の安全,滞在の自由,自治的裁判権,物の保管。貯蔵と交換の自由などを保証する「中立的装置」を備えている必要がある。この中立性が,さまざまな人間を集合させ,物・情報を交換することを可能にさせ、港市における,交易・契約の自由,多様性の許容,多民族共住といったルール,原理,システムを生むことになる。
西欧列強は、こうした港市を,一元的な支配―被支配関係に転換していったのである。
【参考文献】
・Robert Home(1997), “Of Planting and Planning The Making of British colonial cities”, E & FN Spon. ロバート・ホーム(2007)『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』布野修司+安藤正雄監訳:アジア都市建築研究会訳,京都大学学術出版会
・岩生成一(1966)『南洋日本人町の研究』岩波書店
・Lemon, A(ed.)(1990), “Homes Apart: South Africa’s Divided Cities”, Paul Chapman.
・家島彦一(2006)『海域から見た歴史―インド洋と地中海を結ぶ交流史』名古屋大学出版会
布野修司 Shuji FUNO
Born in 1949, Dr. Shuji Funo graduated from the University of Tokyo in 1972 and became an Associate Professor at Kyoto University in 1991. He is currently a Project Professor at Nihon University. He has been deeply involved in urban and housing issues in South East Asia for the last forty years. He is well recognized in Japan as a specialist in the field of human settlement and sustainable urban development affairs in Asia. His Ph.D. dissertation, “Transitional process of kampungs and the evaluation of kampung improvement programs in Indonesia” won an award by the AIJ in 1991. He designed an experimental housing project named Surabaya Eco-House and in his research work, he has organized groups on urban issues all over the world and has published several volumes on the history of Asian Capitals and European colonial cities in Asia. Apart from his academic work, he is well known as a critic on architectural design and urban planning.