『建築物の生涯と記憶』|1回生 上田康平

人の雑踏を待ち侘び、佇む構造体が死を告げられるのはいつのことだろうか。失われた喧騒を、日常を取り戻す日は恐らく訪れないであろう建築物、つまり廃墟と言い得るものは日本だけでもごまんと存在する。程度の多少はあれど、どの人も身の周りに廃墟と言い得るものの存在は認知しているのではないだろうか。これらの多くは、倒壊の危険性や景観や治安の悪化があるため、破壊されることが望ましい、というのが一般的な意見である。しかし、どうも一般論では押し殺せないような気持ちが私にはある。私が魅了された廃墟の美しさ、意味について考察していきたい。

先に述べたような、建築物の死とはいつのことだろうか。大まかに二通りあるとすると、一つは建物としての機能が終了したとき、住宅であれば住人が何らかの事情でいなくなったときであり、商業施設であれば店仕舞いをするときである。もう一つは、建物そのものが壊されるときである、というふうに考えることができるだろう。前者に基づいて考えると廃墟とは役目を終えた建築物であり、その破壊には何の論理的矛盾も無く、上に述べた一般論で考えることができる。しかし、後者で考えるとどうだろうか。破壊されることが建築物の死を意味するのなら、完全に破壊されるその瞬間まで建築物は生きているのである。人間に置き換えてみても、仕事を定年退職したから、人生の重大な目標を達成したから、人間はその時点で死ぬのではない。では、そんな建築物たちは放置され、行政により取り壊しを待つだけの存在なのであろうか。否、私はそこに魅力をひしひしと感じるのである。

同じ廃墟は一つとして存在しない。廃墟はたいていの場合、建築物として長年使用された痕跡というものを残す。なぜなら多くの建築物は何か目的に沿って建てられるからである。
(しかし、何事にも例外は存在し、例えばケーズデンキ富岡店は東日本大震災の影響で開店前に避難区域指定されている。建物自体は開店を控えている、どこにも損傷の無い完全な状態であるにもかかわらず、付近には雑草や木々が茂っている。このような完全な自然と人工の対比も滅多に見ることができない美しいものである。) 建築物に住む、商業をする人々は決して画一的ではなく、それぞれの個性、色を持って建築物に個性を与えてゆく。さらに人々が去った後、時間の経過により建物が損傷するその程度や若者やホームレスなどが押し入り、建物内を荒らしたりするなかで建物は増々と自分の色を濃くしてゆく。結果として出来上がる廃墟には同じものが存在しないのだ。一方で、時間の経過と第三者による損傷は建築物の倒壊といった問題を孕んでいる。建物の倒壊という明確な死が近づくなかでの建築物が見せるそれまでの集大成ともいえる姿が強烈に美しいと考えられる。かつて香港に存在した九龍城、所謂スラムとして恐れられ、敬遠されていた一帯も政府による取り壊しが決まると、観光客が多く訪れたという。九龍城は政府の目が届かない、所謂無法地帯的な状態であった。そのため、就業ビザなどが必要なく、城外で生活するには都合の悪い人間が多く集まった。人間が多く集まると、住居施設の数も不足する。ここで、九龍城の最大の特徴といえるのは、自分たちで建築物を拡張していった点である。勿論そこに関する法律などは存在しないため、建物は無秩序に想像さえしない方向へと膨張していく。結果として九龍城独特の迷宮のような複雑に入り組んだ空間が形成された。このように政府の目が届かない空間は犯罪の温床となり、賭博、殺人など多種多様な事件が日常的に行われていたそうだ。あくまで、当時の九龍城の状況を詳しく語る資料は存在せず、住人たちの伝聞が主な情報源であるため、正確な情報は分からない。このような情報の不透明さは城外の人間の想像を掻き立て、多くの都市伝説が生まれた。そのため、九龍城自体の拡大速度を大きく上回り、城外の人間に存在するある種の「理想の九龍城」も拡大していった。とはいったものの、九龍城取り壊しが決定した頃には観光目的の旅行客が多く訪れることができるほど治安は改善しており、そのため、関連する書籍も多く出版された。このように人間はそこに存在するものに関しては無関心であるが、当たり前に存在していたものがなくなるとなると熱心になるようで、私もそのうちの一人である。他店舗に客を取られ閑古鳥が鳴いていた店舗の閉店セールに人が多く訪れ、「潰れてほしくなかった、思い出の場所だった」などと自分勝手に宣うことも頷ける。また、廃墟の特徴の一つとしてそれぞれの建築物に残る残留物がある。残留物とはその建築物に住んでいた人々の家財道具や雑誌、または商売道具などが挙げられる。これもまた廃墟を特徴付ける一つの要因になる。例えば、普通の民家の廃墟に残るタンスに記された名前、そして残留物である雑誌の種類や発行された年代、といったものは特に自分が惹かれるものである。これらは廃墟を建築という側面でなく住人の生活模様に焦点を当てている。そこに住む家族の構成やいつ廃墟化したのか、また住人の嗜好など多くの情報が残留物からは得られる。私が個人的にこれら残留物とその特色に惹かれる理由としては、私がまだ生まれていない時代への羨望の念があるからだ。例えば、内容どころか看板や文字のフォント、雑誌のレイアウトなど細かいところを見ても明らかに今のそれとは大きく異なっている。特にSNSが発達した昨今では、プライバシー問題やクレームなどの関係で何にしても明らかに窮屈な様子が見受けられる。(勿論、それも重要な課題である)しかし、SNSが無かったような時代の表現物はどこか自由で、どこか開放的な、現代の閉塞感などとは全く無縁のように見える。良いところだけに目が行くのは、人間の悪いところであるが、それを踏まえても私が生まれる前の時代は輝いて見えたと思ってしまう。そんなキラキラとした私の憧れに、軍艦島を挙げておく。通称軍艦島は端島と呼ばれる長崎県の島である。ここに1960年代には当時の東京を超える人口密度を誇るほどの人間が集まっていた。この島は炭鉱として栄え、1800年頃に石炭が採れることが発見されて以来、多くの人間が移り住んできた。石炭がエネルギー源の主力であったころ、つまり明治期から昭和期にかけての生活空間がそこには凝縮されている。多くの人間を住まわせるために乱立した建築群と突如あらわれる公園、神社などの施設はそこに人々が住んでいたことの証明でもあり、九龍城とは異なる無機質なコンクリートの建築群は聊か不気味にも思え、そこが炭鉱であることが伝わる。自分と比べて明らかに巨大な建築群を見上げると、自分がいかに小さい存在であり、何十年も前からそこに存在してきた建築物に対して大きな威圧を感じる。自分が京都大学を受験した時、今から二年前、ちょうどコロナが流行し始めたころであった。模擬試験を実際の京都大学で受けた帰路、百万遍のバス停前にある居酒屋チェーン店があった。地元にもあった店舗だったが活気は無く、どうやら閉店しているようであった。入口からは賑やかな店内が覗けたが、人気が無く寂しげで、店内の装飾も虚を飾っていた。大学に近い立地ということもあり、コロナ禍以前は大学生がいつも集い、騒いでいたであろうその場所にはもう誰もおらず、その光景は寂しいものであった。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」とは、藤原氏が繁栄していた平泉を詠んだものである。金や馬の交易で栄えた平泉も芭蕉の時代には、その栄華の香りは残っていなかった。盛者必衰とは今にも通ずるもので、時代が流れるにつれ、源氏に敗北し凋落した藤原氏、コロナにより宴会が中止になり活気を失っていった百万遍、石炭に代わるエネルギー源が見つかり人口が流出していった軍艦島。その時代の天がいつまでも上にあり続けるとは限らない。過去は一通りしかないが、それは幾多もの分岐の先にあるもので、我々が存在している今を生きることは未来の我々が見るものである。充実した過去となるためにもここにある自分を精一杯生きていきたい。

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