まちの記憶と都市・建築―東日本大震災から10年―|牧紀男
1. 建築・都市とアイデンティティ
東日本大震災から10年が経過した。二度と同じ被害を繰り返さない安全なまちをつくるため、まちは高台・盛土の上に再建された。そして再建されたまちには被害の痕跡は残されていない(写真1、2)。一方、災害の悲惨さ、学んだ教訓を次の世代、さらには他の地域の人に「伝える」ための施設が、今は人が住まなくなった沿岸部に整備されている。岩手・宮城・福島の各県に一つ、国立の「復興祈念公園」が整備され、こういった施設は追悼の施設であると同時に教訓を伝える施設となっている。それ以外にも各地に「震災遺構」の整備が行われており、南三陸町の災害対策庁舎の遺構(写真3)は、被災した建物を残すことで津波の被害の恐ろしさを伝えている。
被災した建物があまり残されていないのは、災害の辛い経験を思い出したくないという地域に住む人々の強い思いを反映したものであり、被災していない人がとやかくいうものではない。東日本大震災後に多くの遺構が取り壊されたのは、震災の教訓を伝えることの重要性ということを「災害直後」から外部の人間が言ったことが、その一因であると個人的には思っている。過去の事例から見ても震災の教訓を伝えるということを、被災した人が意識しはじめるのは震災から5年以上が経過してからのことである。阪神・淡路大震災では、数年間は調査に行った時に「思い出したくない」のでとよく言われた。このことは自分が肉親を失ったときのことに置き換えれば理解できると思う。「喪の仕事」¹ということが言われるように、大切なものを失ったことを自分なりに解釈するためには長い時間を必要とする。そして、そのことについて他人からとやかく言われることを好まない。
人の命については、そうなのであるが、都市・建築を研究・扱う立場から気になるのが被災する前のまちの記憶ということである。再建されたまちには、被災の痕跡だけでなく2011年3月11日以前のまちの記憶もあまり残されていない。先ほどの南三陸町の災害対策庁舎は被災の状況を伝えているのであるが、周囲が盛り土された結果、現在の「窪地」が再建される前のまちの「地面の高さ」を伝えることとなっている(写真4)。
被災したまちの記憶ということを考える時にいつも思い出すのが建築人類学者の佐藤浩司の言葉である。10年以上前のことであるが、インドネシアの津波で被災した地域を一緒に調査する機会を得た。正確な表現は思い出せないのであるが、災害で全ての「モノ」を失ってしまって大丈夫なのか、自分の寄りどころ、自分を理解すべがなく、アイデンティティー・クライシスを起こすのでは、といったことを言ったのを覚えている。そういうふうに災害を見るんだと驚いた記憶がある。
佐藤浩司を知らない若い人もいると思うので、関連しそうな文章をひっぱってみる。
「建築人類学という学問は、この文化として存在する住まいと、その文化をになう社会や人間の関係についてあきらかにすることをめざしています。住まいをとおして、社会や人間の本質にいくらかでもせまることができれば、住まいは、よりよい社会や人間へ向かう道しるべを、私たちのまえにさししめしてくれるに違いありません。」 (シリーズ建築人類学<世界の住まいを読む>刊行にあたって)²
「現代家庭における「物」の最も重要なコンテンツとして個人の「思い出」を位置づけ、「思い出」にまつわる多方面の知見と可能性をあきらかにするための研究会を組織する。」
(ユビキタス社会の物と家庭にかんする研究会「思い出」はどこに行くのか?)³
1 小此木啓吾、対象喪失一悲しむということ一、中公新書、1979
2 佐藤浩司、シリーズ建築人類学<世界の住まいを読む>刊行にあたって、佐藤浩司編、住まいをつむぐ、p4、シリーズ建築人類学;世界の住まいを読む①、学芸出版社、1998
3 ユビキタス社会の物と家庭に関する研究会、「思い出」はどこにいくのか?、みんぱく共同研究会、http://www.yumoka.com/、2021年9月24日閲覧
2. アイデンティティー・クライシス -houseless/homeless-
住まいや「物」の中に人間・社会の関係を見出してきた佐藤は、災害で「モノ」を失うことのことを、人・地域が、社会との関係性を失うこと、と解釈したのだ。そして、自分を同定する座標としての住まいや物が無くなったなかで、どのように自分というものを定置するのか、自分をidentifyできず、アイデンティティー・クライシスに陥るのではと考えたのだと思う。自分が生きてきたことの証としての家や物、写真を失い、さらには周りの風景も変わってしまい、また肉親や知人もいなくなったら誰が自分を自分だと証明してくれるのか、というまさにSF映画で出てくるようなことである。喪の仕事も重要であるが、もう一つの問題として、住まいや「物」も失った上にまちの姿が全く変わってしまって被災地に住む人はアイデンティティー・クライシスに陥らないのかが心配になる。
2021年度のアカデミー賞作品賞を受賞した「ノマドランド」は、古いバン(車)に住み、季節ごとにいろいろな場所で仕事をし、移動をつづける女性の物語である。映画の中で彼女が言った「私はhouselessだけどhomelessではないのよ」という言葉が印象深かった。彼女が元々住んでいたのはエンパイアという名前の企業城下町で、不景気の影響(おそらくリーマンショック)で工場が閉鎖され、彼女もそのまちを離れたのだが、そこには前住んでいた家があり(所有権は定かではない)、その家から見る風景が彼女にとって大切なものとして扱われている。その家が彼女にとってのhomeなのだ。また古いバンが壊れて修理に持って行った時の場面では、修理工場で、古いし・修理費用を考えると直してもね、と言われた時に、物理的には古くても自分の古いバンにはたくさんの思い出が詰まっているんだ、というようなことをいう。彼女にとっては車が・もhomeなのかもしれない。
「私はhouselessだけどhomelessではないのよ」ということは、物理的な家(house)はもたずに放浪生活はしているが、思い出のまちの家(home)、思い出の車(home)はあると彼女は言っているのである。ノマドランドの主人公の女性の視点から見ると、災害で住まいや「物」を失い、さらに風景まで変わってしまうとhomeを失ったこと、homelessになるということになる。そういった意味で、災害で住まい、思い出の物、さらには復興の過程で風景までも失うことはhouselessではないけど、homelessという状態をつくり出してしまっているのかもしれない。
建築や都市をデザインするときには、地域の思い出とでもいうべき地域の文化、個々人の思い出を手掛かりにするのは、建築・都市に関わる者からすると、あまりにも当然のことであり、思い出を喪失することがアイデンティティー・クライシスを引き起こすのではということまでは思いが至っていなかった。しかし、東日本大震災後、津波で失われたまちに非常に関心を持った建築家もいる。槻橋修は「東日本大震災復興支援「失われた街」—LOST HOMES—模型復元プロジェクト」を積極的に推進する。このプロジェクトは1/500の縮尺の白模型を被災した地域に持ち込み、地域の人々と一緒に模型に記憶を書き込み、震災前の地域の模型を復元すると共に思い出を収集していくものである。槻橋は「失われた街が湛えていた豊かな日常を想い、街への追悼を行わなければならないと感じました。このプロセスを通して、私たちも、被災地の皆様も、街の再生へ向けて第一歩を踏み出せるのではないかと思いました」と書いており、失われた都市・建築に対する喪の仕事がその背景にはあるのであるが、それだけでなく、このプロジェクトはそこに住んでいた人々のアイデンティティー、homeを守るという重要な意味があると考える。
4 企画・構想:槻橋修+神戸大学槻橋研究室、失われた街模型プロジェクトとは? https://losthomes.jp/about/、2021年9月30日閲覧
3. 記憶の中のまち
個々人の思い出を集める試みに対して、疑問として呈されるのは、そんなことは市史や町史、古い地図を見れば分かることをなぜわざわざ収集するのか?というものである。確かに史料に当たれば書いてあるが「書かれていること」と「知られていること・認知されていること」は違う。東日本大震災の被災地には、明治・昭和の三陸津波、チリ地震でここまで津波が来たということを示す碑は至る所に残されており、古い史料にはその悲惨さ・大変さが文字だけでなく絵画でも残されている。しかし、我々は海の近くにまちを築いてきた。果たして過去の津波の歴史をどれだけの人が知っていたのであろうか。「資料として存在する情報」と「我々が認識していること」とは別のものであり、槻橋が集めているのは人々がどのようにそのまちを認識していた・いるのかという情報であると理解し、素晴らしい取り組むだと思っている。
「失われた街」模型復元プロジェクトは多くのまちで実施されており、岩手県だけでも集めた思い出(「つぶやき」)の数は6万5千以上にものぼる。「つぶやき」というのは「須賀町に小さな神社があり、赤い鳥居があった。大槌の御神輿は、町内を回ってから川に入る。(末広町 70代 男性)」というもので、「失われた街」模型復元プロジェクトのホームページ(https://losthomes.jp/tsubuyaki/)からも見ることができる。個々人それぞれの思い出は、個人が自分を定位(identify)する上で重要なものである。しかし、建築・都市について考えようとすると、集落全体、市町村、岩手県の被災地域全体について、どのように捉えられていたのかということを知る必要がある。そのためには全ての「つぶやき」を読んで整理する必要があり、それはすごく大変な作業となる。
志手壮太郎がコンピューターを用いてテキスト・マイニングする方法で、この課題に取り組んだ⁵。大きな被害を受けた大槌町町方地区で都市・建築のデザインを考えるときに、まず知りたいのは「どんな地域なのか?」ということである。「つぶやき」を統計的に分析すると地域の特徴を分類する図を描くことができる。この図(図1)から「町方」は「まち」という位置づけをもつ地域あるということが分かる。次に知りたいのは、どんな営みが行われてきた場所なのかということである。頻繁に出てくる単語と単語相互の関係性(共起関係)を分析すると、町方地区を特徴づける「つぶやき」が抽出できる。
「小鎚神社の神輿が大槌祭りの時には小鎚川に入る」「大槌川は鮭で有名なため、「鮭川」と呼ばれている」「湧水の利用やコミュニティー形成は昔から存在していた」「夏は大町公園の池で遊んだり海に行ったりして遊んでいた」「小鎚の堤防沿いを歩いて白石の漁港まで散歩した」
都市や建築を考える上で手がかりになりそうなキーワードがたくさんでてきているが、「地図上でどの場所が重要なのか」ということも知りたくなる。数多くの思い出が存在する場所を抽出して示すこともできる(図2)。多くの証言がある御社地公園周辺は、どんな場所なのだろうか?「御社地の北側の道路はタイル張りに舗装されており、向かいにはお社や松の木、津波祈念碑、佐々木クリーニングがあった。ふれあいセンターは予約が困難なほど毎日利用されていた。成人式の二次会にも使われており、出会いの場ともなっていた。図書館やカネマンパチンコもよく利用されていた。さらに夜店も多く出ている。夕方市も開催されている。バイパスが出来る前は45号線の交通量が多く騒音や振動の問題がみられた。またパチンコ屋前までよく冠水していた。」ということになる。
5 志手壮太郎、東日本大震災の住民証言と地域空間特性に関する研究-「記憶の街ワークショップ」(岩手県)のデータを用いて-、京都大学大学院工学研究科建築学専攻修士論文、2021
4. 記憶を集めた後
災害前のまちの姿を残すことは大事だ、記憶を集めることは重要だ、アイデンティティー・クライシスが心配だ、模型復元プロジェクトには喪の仕事という側面もあった、ということを書いてきた。東日本大震災の被災地では10年が経過、復興の工事はほぼ完了し、これからどうしていくのかということを考え、たどりつくのが集めた記憶を活用する「この経験を伝えていかなくては」ということである。しかし、私は伝えていく、ということについてはかなり悲観的である。記憶というのは俗人的なものであり、その人が居無くなれば消えてしまうものである。また「資料」や「史料」として残したところで、それが活用されるかどうかは定かではない。
東日本大震災後、若い研究者が東日本大震災を対象に博士論文をまとめ、本も出版されている。内容は素晴らしいのであるが、最後あたりに「伝えていかなくては」というような感じの文章が出てくるとちょっと待てと思う。若い研究者は、おそらく東日本大震災が起こるまでは災害に関心が無く、東日本大震災をきっかけに災害の研究を行うようになったのだと思う。まさに自分が「伝えられた」人である。なぜ災害の研究を行うようになり、次の世代に伝えていかないと思うようになったのか、そのきっかけはなんなのかということをしっかりと考える必要がある。そのことに「伝えていく」ということの鍵がある。この質問を若い研究者にした時、昭和の定住地が面白いと思ってという答えがあった。これは重要なポイントだと思う。震災についての何か興味深いモノを残しておくと、人は関心をもつということである。震災について何か興味をもつようなもの、疑似餌をぶら下げて、誰かが食いついてくれるような仕組みを上手く残していくことが「伝える」という取り組みを続ける上で重要な気がする。
牧紀男 Norio MAKI
Born in Kyoto, Japan in 1968, Norio Maki is a professor of Disaster Prevention Research Institute in Kyoto
University. He studied post disaster housing, receiving his master’s in 1993 and Ph.D. in 1997 from Kyoto
University. During his time as a Senior Researcher at the Earthquake Disaster Mitigation Research Institute in Kobe between 1998 and 2004, he also spent a year at the University of California, Berkeley as a visiting scholar, to study disaster management. He mainly studies recovery planning from natural disasters.