構造家/満田衛資|住宅という巣構

聞き手=高山夏奈、瀬端優人、久永和咲、前田隆宏

2020.9.14 満田邸にて


traverse21で8回目を迎えるリレーインタビュー企画。

前回のインタビュイーである建築家の木村吉成氏と松本尚子氏は以下のような推薦文を添え、満田衛資氏にたすきを繋いだ。


満田さんとの協同は「怖い」。どんな案件であっても「そこに正義はありますか?」とまず問うてくるからだ。

この「正義」というのは通念的な「合理」ではない。もちろん「正当性」とも異なる。

環境に、施主の要望に、法的な決まりに、建築の社会性に対してすべて応答しうる「自前の倫理」をきちんと設定できてますか?という問いなのだ。

建築するということは責任を伴うものだ。建築家としてその責任を放棄したらお終いですよ、と。

たくさんある満田語録(?)からもうひとつ紹介しておく。

「とぶときゃとぶしとばんときゃとばん」

柱間のスパンを「とばす」ときに発せられた言葉だ。ここにもやはり「正義」がある。

その正義が満田さんにとって引き受けられる(賛同できる)ときは「とぶ」のだ。


 

―構造家への道

ーーまずは構造の道に進まれた経緯をお教えください。

僕は京都大学を97年に卒業、大学院修士課程を99年に修了しています。学部の頃は構造系の中村恒善先生の研究室、その年で中村先生が退官されたので大学院では上谷宏二先生の研究室に所属し、大崎純先生にご指導いただきながら膜構造のことで修士論文を書きました。ですがもともと第一志望の研究室は中村研ではなくて、都市史研究の布野修司先生の研究室だったんです。ところがちょうど川崎清先生も退官されたことで計画系の研究室の枠が少なく、布野研が一番人気でした。そうなると、布野研には当然学年のトップレベルで設計ができる人たちがいくわけですよね。例えば今近畿大学で教授をしている松岡聡くんなどが、ポートフォリオで選ばれていくのです。京大の場合は研究室配属に落ちた人同士で残った枠のどこにいくかを調整しますよね。当時中村研は構造力学の成績で「優」をもっている学生しか入れないという噂があり、多くの人が宇治に行くよりも吉田キャンパスの研究室に残りたいという空気感などもありました。構造力学は「優」で、もともと構造が嫌いなわけでもなかったので、とりあえず中村研に入るという感じで構造の道がスタートしました。実際やり始めると面白さもわかってきて、結局大学院でも上谷研を第一志望にして構造系のまま修士に進みました。就職活動の時期になり、ゼネコンを中心に大手企業のOB訪問をしていたのですが、やっぱりアトリエ系も見てみたくなって。僕と大学院の同期で、今は神戸芸術工科大学で准教授もしている構造家の萬田隆くんと一緒に色々な事務所を見て回りました。その中で最終的に、佐々木睦朗さんの事務所を一番魅力的に感じたんです。もちろんどんな建築をつくっているかは雑誌などを通して知っていましたが、代表作のせんだいメディアテークすらコンペが終わっただけの段階で、伊東豊雄さんやSANAAと設計している自由曲面屋根の建築などはまだ存在しない時代です。ですが雑誌での対談や本を読んで、技術としての構造とはまた別の視点を併せもって誠実に建築と向き合っている方だと強く感じていました。それで佐々木事務所を志望し、無事入所できました。

ーー佐々木事務所ではどのような刺激を受けられましたか。

事務所に入ってからはひたすら修行です。まずは京大で理論ベースで学んできた設計式を、ようやく実務を通して使いこなしていく感覚でした。式を使うということは、出てきた結果が必要な条件を満足しているか照合して安全性を確認していくことです。ですがこれとデザインとはまた次元が違って、計算する前に、それぞれの建物にとってどういう形式や素材が最適かを判断していかなければならない。この判断力は、なかなか大学の勉強では身につかないと痛感しました。佐々木さんをナンバーワンたらしめるその判断力について意識できるようになったのは、入所して5年が過ぎたあたりでした。所員は最終的にその判断を予測できるようになり、さらに自分自身の考えをもつようになれると独立できるのだと思います。人から言われたことをきちんとこなすことで、もちろんその会社の一員として活躍できます。ですが会社の枠から外れた途端、自分自身で全て責任をもって判断していく必要があるからです。独立していくことが主流の事務所だったので、比較的早い時期からそうしたことを意識できるようになったのだと思います。

ーーその後2006年に独立、京都にて事務所を開設されました。なぜ東京ではなく関西を選ばれたのですか。

実は関西でやりたいというのは、就職活動の頃から思っていたんです。当時はグローバル化とともに東京に機能集約されていく時代で、東京との差がどんどん開いて関西の経済が地盤沈下していくのを目の当たりにしていました。就活のために構造事務所を探してみても、魅力的なところは東京ばかりで、関西にはほとんどなかったんです。そこで、東京のような事務所の文化を関西でも生むには、構造家になって関西で活躍するしかないと思うようになりました。改めて東京の構造事務所を調べてみると、活躍している構造家の方々の大元は、佐々木さんのお師匠さんでもある木村俊彦さんでした。金箱温春さんや渡辺邦夫さん、新谷眞人さんなども、見て回った事務所の方々は全員木村さんのお弟子さんです。自分も構造家として活躍するには、結局彼らの考え方に直接触れるのが一番早いと思い、いずれ関西で独立するという意識のもと、一極集中する東京で勉強することを決めたんです。

インタビュー風景。満田邸にて(撮影のため一時マスクを外しています)

 

―構造家の職能

ーー現在は京都工芸繊維大学で教鞭をとられていますが、教育者の立場として今の建築学生をどう見られていますか。

工繊大に着任する以前にも非常勤講師はしていましたが、はじめは美大に構造力学を教えにいくパターンが多かったんです。構造家を呼ぶことで授業が固くなりすぎないようにする意図もあったのだと思います。その後ある時期からは、構造の講義ではなくむしろ設計演習で呼ばれることが増えていきました。構造のことを課題に取り入れているものもありますが、構造的な話ができるレベルの学生がまだいないというのが正直なところです。なので、普段設計する際に建築家の相談にのっているように、意匠的な判断もしながら構造家としての目線でエスキスをしています。そこには、意匠と構造をミックスしていくという意識があるんです。学生の中には構造を意識しすぎて思考の自由さを失ってしまう人もいるので、意匠と構造がミックスされた総体としての建築にきちんと意識が向くような学生を育てていきたいと思って指導しています。理論ベースな構造の講義においても、実例紹介など構造家としての視点を交えることで、講義で習う式がどう実践で生きるかを明確に示すように心掛けています。講義の単位を取るために仕方なく勉強していることも、最終的には全部自分の設計に活かすことができるということに気づいてもらえるように配慮しています。

一方で大学院では、研究室に配属された学生は構造の道に進むことを決めている人たちなので、学部までとは違ったタイプのエスキス的な教え方をしています。今年から大学院生を対象に、構造設計の演習として構造計画のようなことを始めてみました。36m四方の正方形平面の体育館に、どんな屋根の架構をするべきか自分で考える課題です。山形のトラス梁を並べる人もいたら、放射状に梁をかけていく人もいます。各々に合わせて、計画の良し悪しの話や、ソフトウェアの使い方のような話、計画上配慮すべきポイントの話などをしています。多くの学生が、構造を解くことは与えられた問題に対して曲げモーメントや剪断力を計算し、モーメント図を描くことだと思っています。そうではなく、その架構形式にすることで建物にどんな違いが出てくるかを気付かせることで、考え方次第で建築が如何様にでもなることを知ってもらうということを今年はトライしました。要するに問題用紙に書かれている問題を解く側ではなくて、問題をつくる側であるという意識をもたせる。学部の段階でそのことに気付かせられるような教育ができていければより理想的ですが、構造に進まない人も含めた全体の学生の負荷を高めすぎてもいけないのでバランスが難しいところです。構造計画の授業と言いつつも事例紹介になりがちな中で、自ら構造計画していく力をどう教育できるかというところに、今は関心をもっています。

ーー構造家としての設計上のポリシーや、意匠設計の方に対してどのようなスタンスをとられているのかをお教えください。

当然、職能的に最も上位に存在している前提は建物が安全であることですが、来た仕事の状態によってこちらも考える目線を変えながらやるようにしています。僕に相談しに来られる段階で、図面ががちがちに固まっている場合とそうでない場合があるんです。前者はスケジュールも短く、あとは計算するだけに近い状態ですから、すぐに計算を始めます。選定している素材、鉄骨かRCかなどの話も含めて、それぞれの中で計画が成立しそうかどうかというところをチェックして、全然足りていませんよ、という場合は最低限ここにはこの部材がいりますよねという風にアドバイスをしながら、そのプランを可能な限り満足するようにします。後者のようにもう少しゆとりをもって依頼に来られている場合は、建築家も実はまだプランがふわっとしていて、この敷地に対してこっち側にひらきたいなどという方向性はもっている。「こういうご家族なんで、こんな空間が真ん中にあるようにしたい」といったように、何となくのキーワードを大事にしながら、じゃあ必要な耐震のための構造はこういう配置がうまくいくんじゃないですか、というような提案をしていくことになります。建築家との仕事は、基本的に建築家に頼まれてやっているので、「建築家=依頼者」に満足してもらわないといけない。建築家が案を進めていく時点でその先にいる建築主の要望を満足しているという前提があるので、その意図をまず汲み取るべきだと考えています。だから建築家の意図は何か、達成しようとしていることは何かというところを読み取るようにしています。

断面図 (クリックで拡大)
左から順に地下1階、1階、2階平面図 (クリックで拡大)
​以上4点 図版提供:満田衛資構造計画研究所

 

ーー今回、traverse21のテーマは「巣」です。満田さんは日常の色々な環境の中で「巣」を意識されることはありますか。

巣は人間にとっては自宅や実家という意味合いを強くもつように思います。たとえば会社や学校へ行くというのは感覚的に巣の話ではなく、やはり寝食が伴っているところでないと巣とは言い難いのかなと思います。ところが、寝泊りしてご飯を食べるだけなら旅先のホテルでもできるものの、ホテルも巣ではないなという気がします。やはり巣という言葉は日常的かどうかというニュアンスを含んでいて、自分の日常とリンクしているものを指しているのだと思います。

ーー構造設計者という立場で、他の誰よりもさまざまな建築家の思想を深く読み取ってこられたと思います。そういったご経験は自邸設計の際、ご自身の建築観や住居観にどのような影響がありましたか。

もちろん影響された部分もありますが、住居観よりも狭さに対する切実さのほうが強かったですね。狭い土地でも気持ちいい家をつくることにトライする建築家さんとたくさん仕事してきたということもあって、この狭さを克服するのが自分のやるべきことだという漠然とした思いもありました。うちは僕を含めて4人家族で、妻と2人の娘がいます。建てる時の自分の住居観や周囲の環境だけでなく、家族構成にもよって設計する部分がありますね。元々同じ敷地に住んでいて、いま向こう側に見えているような家が対称に反転してるような感じでした。北側接道で、57平米しかない上に、建蔽率が60%、容積率が100%です。容積率100%ということは、頑張って建てても延床面積が57平米ということになります。この敷地で以前住んでいた家は、1階を少しリフォームしてLDKとして使っていて、2階は4畳半の部屋を通って6畳の部屋があるような、いわゆる2LDKでした。親が寝ている部屋を通らないと子どもたちが自分の部屋にいけないので、子どもが中学生くらいになると、本人にとっても家族にとっても居心地悪く、子供たちの個室が必要だろうと考えるようになりました。広いところに引っ越すか、ここで建て替えるかという切実さが大きく、設計する際も57平米しかない土地をどう使いこなすかを中心に考えていくことにしました。そこで、半地下や高さ1.4m以下のロフトによる緩和を足し合わせて、体感の容積率が200%になることを目指して設計しました。実際、体感としては180%くらいにはできたと思っています。

ーースキップフロアにすることで空調やエネルギーに関する問題は生じませんでしたか。

京都の木造家屋なので、とにかく冬が寒い。よく「夏を涼しく」ということを京都では言いますが、あれは良くない言葉だなと少し思っていました(笑)。昔の人にとってはそうだったかもしれませんが、現代の技術や我々の感覚からすると、エネルギー効率的には冬に暖かいほうが絶対に良いと僕は思っています。夏を涼しくするには、窓を開け放って熱をちゃんと排出してやれば、外気と平衡状態になって外気以上の温度にはならないはずです。しかし実際は屋根がついていて輻射があったり熱が逃げずに溜まってしまうから、外よりも暑い状態になる。それでも30度くらいなら、風さえ吹いていれば暑いことはないんです。元々ここに住んでいた経験から、この敷地は風の通りが良いことはわかっていたので、風をしっかり取り込めれば、冷房をがんがんにかけないといけない家にはならないだろうと思っていました。だからこそ冬を暖かく過ごせるように設計しました。この家ができたのは2013年の2月で、計画した時期は2011年~12年です。2011年に原発の事故があって、エネルギーの問題を真面目に考えざるを得ない時期でもありました。電気は当然大切ですが、「日々の生活の中でエネルギーを使う」ということの意味をようやく意識でき始めていたんです。たまたまその時期に聴竹居に行く機会があって、藤井厚二があれだけのことを考えていたということに触れることができたのも大きかったかなと思います。このような経験がなければ、エネルギーを強く意識した設計はできていなかったかもしれませんね

スキップフロアのキッチンとリビング

 

―「共」の場

ーー設計にあたり、ご家族からの要望やご自身の希望はありましたか。

子ども部屋は玄関を入った1階に、リビングは2階にしているのですが、妻は最初、子どもがいつ帰ってきたかわからないような家は嫌だと言っていました。だけど絶対にリビングは2階の方がいいと考えていたので、スキップフロアにすることで下の階と空気として繋げられるということを説明して納得してもらいました。子どもの要望は、ぶっちゃけ聞いていないですね(笑)。僕の要望としては明るい家にしたいというのが第一にあったので、できるだけ無駄な壁を建てないようにしました。それは狭さを克服するという話でもあります。構造家として、さまざまな建築家の設計する家をたくさん見てきて、狭いなりに狭さを感じさせない工夫を経験させてもらったことが設計に生きています。なのでこうした大きな開口、高さ、スキップフロアで体感的な広さを確保しました。でもこうやって4人も来てもらうと、やっぱりちょっと狭いかな(笑)。

――自邸設計はご自身やご家族を見つめ直す機会にもなると思います。設計していく過程で新たな発見や、それを生かすような取り組みはありましたか。

子どもに関しては意見をきいてもうまく表現できないからね(笑)。それに元々個室がなかったので、今度は個室があるよと言ったら、それで納得してもらえました。妻は細かい設計のことはわからないですから、考え方が食い違わないように議論はきちんとしました。一方で、例えばキッチンの奥行きや幅は逆に僕が判断しきれないところでもあるので、実際にキッチンに立つ妻や娘の声をそのまま設計に反映しています。家により長く居る人の居心地の良さを優先した方がいいと思うんですよ。

ーー設計のスタディはどのような過程をとられたのでしょうか。

形のイメージからスケッチを描いて図面に落としていくと、やはり狭さが強烈に効いてきて、じゃあ半地下にしなきゃいけないとか色々なことを考えていくと、最終的にこの形に辿り着きました。外形の決め方には明確な根拠があって、昔の街区の壁面線を強く意識しています。もともと建蔽率60%容積率100%ということは、1階を60%、2階を40%でつくるのがセオリーなんです。かつ街区の中で家々の壁面が揃っているとなると、40%の部分が前掛りで出てくる形になるのでそこは踏襲しておいた方がいいと考えました。実は裏の家との境界にはブロック塀があるのですが、2階レベルになるともちろんブロック塀は存在しないので、多少広さを感じることができます。壁面をお互いに下げあっているからこそ、2階の間隔が広く感じるという街区の特性がずっと繋がっていたんです。それって街区が構成している裏空間なわけですよね。街区だけの共有空間みたいなものを感じ取っていました。路地の先にあるお互いの家の前のスペースって、「公と共と私」でいうところの「公」の空間ではなく、そこの住人だけの「共」の空間です。共空間が京都には裏にありがちで、その気持ちよさを2階にテラスを置くことで展開してやろうという考えがありました。積極的にテラスに植栽を置いたのも、視線を防ぐという意味だけでなく「共」の空間を豊かなものにしたいという思いがありました。街区のもっているポテンシャルを示したかったんです。

スキップフロアのキッチンからテラスを見下ろす

 

―空気がつながる家

1階のホール

ーー1階のホールはどのように使われていますか。

妻とも共有していた話として、子どもたちにあまり自室に籠って欲しくないという考えがありました。そこで個室を狭くつくる代わりに、図書館の閲覧室やカフェのようなスペースとして自由に使ってくれればいいかなと。自分の勉強机で勉強していても飽きる時がありますよね、そんな時の居場所になればいいなと思っています。あとはプロジェクターでテレビ番組や映画を観たり、娘がピアノの練習をしたり。本当に多様ですよ。京都の家には玄関間と呼ばれるスペースがあって、中までは上がってもらわずにそこで対応しておしまいということもあるわけですよね。そういった玄関間の使われ方も、「ホール」を取り入れるに至った発想の一つです。やむを得ず玄関が狭くなっていますが、玄関間をちゃんと用意しているので、玄関は単なる靴脱ぎ場だと考えられます。実際に妻がPTAの集まりでホールに机を出して会議をしていたこともあります。受験勉強の時は、子どもが友達を連れてきて勉強会をしていたこともありましたね。それともう一つ、ホールを設けることで廊下がいらなくなります。廊下は壁を建ててつくるものなので、明るい家をつくるということに反するんですよね。だから水回りも閉じずに、ガラスで囲っています。普通お風呂場などは隠すものだからどうしても狭くなるし、かつ他の部屋まで暗くしてしまいます。夜にしか使わないのが基本なので、昼間はちゃんと光と風を通せた方がいいと考えました。ガラス張りにすると言うともちろん家族は驚いていましたが、視線は内側からカーテンでコントロールすればいいと伝えるとすぐに納得してくれました。トイレはさすがに壁で塞いでいますけどね(笑)。

ーー実際に住み始めてみて、家族の方が想定外の使い方をされていたようなところもありますか。

ホールを図書館的にも使える場所にもしようというのは考えていたんです。だから子ども部屋は机しか置けないくらいのサイズにして、ロフトで寝てくださいという風にしました。すると最近、子ども同士で交渉して、ロフトの下だけを使う人と上だけを使う人で分けたいから間仕切りの壁をぶち抜いてくれと言われました。子どもが自分たちの成長に合わせてカスタマイズし始めているんです。カスタマイズできる限界がすぐに来るのでこれ以上はないと思いますけど(笑)。

ーーお風呂の上は茶室になっていますね。どのような使い方をされていますか。

皆さんと同じ大学院生の頃にお茶を習い始めて今も通っていて、その練習のための場所なのですが、「茶室」と言うと他のことができなくなるので「お茶の練習スペース」と言うようにしています。要するにロフトですよね。高さは1.4mもありません。僕としては畳の置けるスペースが欲しくて、キッチンの上部などの余ったスペースに設計しようと考えていました。検討を進めるうちにお風呂の上が一番良いということになったのですが、風通しがすごくいい場所で、寝転がったら気持ちいいんですよ。

お茶の練習スペース

ーーご自邸を建てられてから、ご自身、ご家族、地域も含めて何か変化や意見はありましたか。

子どもがよく友達を連れてくるようになりましたね。この近所だともっと大きい家はたくさんあるのですが、妻も子どもの友達が来ることに対して抵抗感をもっていないので、人はよく集まっています。前の家のままだったらどうかというのはもはや比較対象がないのでわかりませんが、人が集まりやすい空間になっているとは思います。

ーー個室でもリビングでもない、ホールという共空間がある影響は大きそうですね。

2階のリビングで騒いでいる時もありますが、2階が使えない日は1階のホールで、というのはうまいこと理解して使っていますね。

 

―「巣ごもり」の期間を経て

ーースキップフロアのある空間で、自粛期間はどう過ごされましたか。

上の子どもが大学生なので自分の部屋でオンラインの授業を受けている傍ら、僕は地下の書斎からオンラインで授業をしているという光景は、今までにない生活シーンでした(笑)。気配は相互に感じられるようにしておきたいという妻のリクエスト通り、狭い家なので、気配はやっぱり感じられます。コロナで皆が家にいる時でも大体リビングにいるんですよね。しかし自分の場所へ戻りたければ戻っていけますし、リビングで遊びながら人が抜けたり入ったりということのしやすさはあるのかなと思います。

ーー家族が家に集って過ごす時間が増え、これから住宅はどう変わっていくでしょうか。

リモートが進んだことと、企業の働き方改革とが重なったことで、住宅に関する価値観を変えようと意識するまでもなく、強制的に変えられています。価値観を変えましょうと口で言っても無理ですが、今回半ば強制的に価値観の変容を体感できたことで新しい可能性に気付き、自分の価値観を改める人は一定数出てくるはずだと考えています。その時に感じ取ったことをいかに形にできていくかが重要ですよね。それが個々の建物の平面の話なのかもっと街区的な話になるのか、そこまではわかりませんが、それが住宅の中にどう入り込んでくるかですよね。家の中に閉じ籠ってテレワークをしようとした時、それは情報の回路が繋がっていて初めて成立する話です。なので家の中の様々なネットワークの充実度も当然問われてくることになりますし、ほとんどは無線LANのような技術的な話で解決されそうな気もします。とはいえ、個々のスペースは必要なんですよ。子どもが授業を受けながら僕が授業を発信してというのも、同じ空間の隣同士だと絶対にダメなんです。その時にはそれぞれのスペースに戻らないといけない。たまたまうちの場合は予め適切な空間が用意されていたと言えるのですが、ちゃんと充実した個室があればそれでいいのでしょうか。都市と地方でも考え方が変わってくる話だと思います。

ーーリモート化によって、皆がいる公共を求める人たちと、家に家族が多くてテレワークする場所がないなどの理由から一人になりたいという人たちと、ベクトルが両方向に進み始めているのかもしれませんね。

一人の空間を充実させることの意味が大きく関わってきそうです。この家に関していうと、子どもたちの個室も決して快適な空間として用意してあげられたわけではありません。快適な場所はいくらでもあるから出ておいで、というようなつくりにしているんです。たぶん子どもはそういった親の目論見に気づいて、自分たちで交渉し合ってカスタマイズする方向になっていったんですよね(笑)。それこそもっと大きな規模で都市のように賑やかでキラキラして見える場所に出て行きたくなるタイプの人と、自分の居心地のいい場所があればそれでいいという人と、それはどちらも有り得ると思います。だから僕は家づくりに関しては、家族が家の中でちゃんと集まれるスペースを設けることはかなり優先度が高いと考えています。やはり、空気の質を区分するという意味を除いて、基本的に壁は少ない方が良いんですよね。壁を建てるとそれだけまたお金もかかりますし(笑)。それは構造のこととも関係しています。木造でこのサイズの住宅を中に柱を通さずに建てるのはそう簡単ではないんですよ。梁せいは普通より大きくし、柱も幅が105mm、奥行きが普通の3倍近くある300mmのものを使ってラーメン構造にしています。その辺は自分の構造の知識を総動員して、壁なしで一室空間にするということを達成できています。

比叡山を望む開口
上階からの光が差し込む階段

ーー次につくるとしたらどんな住宅をつくりたいですか、最後にお聞かせください。

次はもう子育ても終わっているので、趣味に徹した家ですね(笑)。今の家を建てたときは経済的にゆとりがあったわけでもないので、これが限界でした。もう全部真っ白に塗ってしまっていて、素材感もあまりないんです。ただ、一般的な京都の家の側面のデザインしてなさが気になっていたので、全部同じデザインでニュートラルに回すということは注力しました。一番長尺で取れる材が継ぎ目の見えないようにするにはどこに窓を配置すべきかも検討したりして。なので次はある種、藤森照信さんのように、色々な素材を試しながら道楽的な感覚で建築をつくってみたいという思いがあります。もう一度くらい設計するチャンスがあるんじゃないですかね。


満田衛資 Eisuke MITSUDA

Eisuke MITSUDA, born in Kyoto, Japan in 1972, is a professor of the Faculty of Design and Architecture, Kyoto Institute of Technology.

He studied at Kyoto university, where he received master’s degree in 1999 and Ph.D in 2014.

After working for SAPS/ Sasaki and Partners, he established his design office, Mitsuda Structural Consultants, in 2006.

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