【小林・落合研究室】地域に根ざす設計技術・地域に根ざす人間居住
地域資源とコミュニティ−砺波散村伝統住居の建設プロセス
教授 小林広英
富山県砺波平野の散居村は田んぼの中に住居が点在する独特の景観をもち、カイニョと呼ばれる屋敷林や、アズマダチ、マエナガレという住居形式が発達してきた。近年居住者の高齢化と世帯の小規模化が進み、重厚な屋敷や広大な屋敷林を維持することは経済的、体力的にも難しくなってきている。一方で、幾世代も住み継がれてきた住居としてその存在は未だに大きく、また建設時における住民の協働や屋敷林からの資材提供など、地域との深い関わりから集落の記憶としても生き続けている。
しかしながら、集落住民が手伝い、周辺から資材を調達し、地元の職人が建設に従事し一つの住居が完成するという住居構築のダイナミックなプロセスは、現在においてもはや詳細に知ることはできない。そこでフィールド調査で偶然に建築関連資料の提供を受けた約110年前(1913年)の新築アズマダチ民家を対象とし、特に建設過程におけるコミュニティの関わりを集落空間の中で詳細に捉えていくことで、「地域に根ざす建築」のあり方について理解することを試みた。
建設当時の建築図面(平面図、立面図、軸組図、梁伏図)、大工木挽人足帳(大工、木挽など職人への支払い帳)、手傳人帳(集落住民などの建設手伝い記録)の各種建設関連資料がこれまで大切に保管されていたこと、また各世帯が現在も屋号で呼ばれており、聞き取り調査によって当時の手伝い住民とその居住地が同定できたことから、資料を読み解いていく作業が可能となった。
住居建設はまず準備として、明治45年(1912年)3月6日から数日間集落住民による根こぎ作業(敷地整理)から始まる。その後12月まで木材調達と運搬、木挽作業、大工用の小屋掛という建設に向けた一連の作業をおこなっている。この中でもサンダンシ(算段師)の役割をもつ住民が、この準備から建方までの木材主作業の段取りをおこない主導していることは興味深い。
年を越した大正2年(1913年)1月17日に「チョンナ始め」として大工の刻み作業が始まる。集落内の大工棟梁と2人の弟子が主に現場を担い、周辺の集落から石工、木挽、壁屋、屋根屋が加わり、10月初旬までの8ヶ月半かけてようやく新しいアズマダチ民家が完成した。準備作業を含めると1年半ほどかかったことになる。集落住民は、人手を要する住居建設の一大イベント、地盤・石搗(地固め)・建方(3月22日〜4月7日)に大勢参加するが、それ以外にも木挽き、大工手伝い、漆塗りなどの専門作業にも多く関わっている。一方で、5月の田植え時期と9〜10月の収穫時期は一切の作業を休止し、作業の季節性をみることができる。
主な集落住民の手伝いを総計すると、地盤(延べ50人工、3月22〜29日)、石搗(延べ46人工、3月30日~4月3日)、建方(延べ78.5人工,4月4~7日)、漆塗りとその他手伝い(延べ32人工、3~9月)となっており、多くの集落住民のサポートによって一つの住居が出来上がっていく様子を伺うことができる。
手伝いに関わった総人数は69人であり、このうち聞き取りと資料の記録から、集落内の住民は52人(75%,うち親戚13人)であった。このうち42人の居住地を図上にプロットした(□は親戚,○は集落住民)。集落は4つの小字から構成されており、手伝いの多い集落住民(4人工以上)は建設地周辺に集中しており、近隣で支え合い暮らしてきた様子がリアルに把握される。
地域に根ざした建築における集落住民の共同労働がこのアズマダチ民家でも大きな役割を担っていることが詳細に把握された。また専門作業においても農家兼業職人として集落住民の関わりが多くみられた。資料には集落内の屋敷林から木材、竹材を提供するような記載もあった。このように住居建設における集落資源の多様な関わりによって、現代の商品化住宅とは異なる地域環境を包含した大きな枠組みとしての住居の存在がみえてくる。