traverse二十周年記念座談会
―先生方から一言
布野 「traverse」にはいろいろな性格がある。それで願わくは、ぬえ的であることがいい。ある側面は既往的だけど、ある側面は学生が勝手にやっているふうだし。あまり他から規定されないこと。そして二番目に言いたいのは、どうやってサステイナブルにできるかということ。
古阪 出発点は、自由。この建築学科のなかでもそうだし、外向けにも自由にやっているわけ。それがいちばん重要だと思う。自由というのは非常に重要なことで、京大はもともと自由だといっていたにも関わらず、だんだんとそうじゃなくなった。そういうなかでそのことをわれわれは発信しないといけないわけね。メディアはそういうふうに大いに自由にできる可能性がある。もうちょっと変なことをいうと、日本はステップバイステップで、石橋をたたいても渡らないくらい慎重になる。一方で中国はスキップバイスキップ。なにが良くてなにがまずいか。制度的にはスキップしないといけないようなものがいまだに残っている。この「traverse」はそこでどういうふうに自由な発言をするか、非常に難しいことですけど、是非ともそういうことを、自信を持ってやってもらいたい。
大崎 「traverse」の位置づけというのは、創刊のときからあいまいで、京大建築の有志とでやっているもので公式のものではないんですよね。建築系教室にあることは明記していて、その住所はここ京都大学の住所が書いてあります。だからあまりいいかげんなことはできない。それから、最初は海外に向けてという話で、英語をもうちょっと充実させて海外の方にも見れるようにした方がいい気がします。
石田 僕は、「traverse」の創刊の精神というのはどこかにあったほうがいいと思います。でも、さっき布野先生が言われたように、ぬえ的なところがあるというのはおもしろいと思います。どこから見てもくっきり見えるのかどうかわからないけども、見る角度によって見え方が違うみたいな。
竹山 今日過去の記事を見て、すごくいいことが載っているなと思って(笑)。僕こんな発言してるんだという。記録としても中身としても、とっても意義のあるメディアじゃないかと。ただ僕はやはり、学生がのびのび育つというか、どれだけ刺激を受けて新しい経験を持つかということが大切で、「traverse」のメディアとしての充実度もそうですけど、同時に学生たちも人生を前向きに生きてくれるきっかけになってくれればいいなと思っているので。そういうような媒体にはなってきたんじゃないかと思うんですよね。今後に伝えていく限りは、これは不滅ですという感じがします。そして意義があると思います。