traverse二十周年記念座談会
布野 修司 古坂 秀三 竹山 聖 石田 泰一郎 大崎 誠
『traverseー新建築学研究』創刊二十周年を記念して、創刊当時の編集委員の先生方を招き座談会を行った。『traverse』に込められた思いを振り返りながら、その本質と展望について議論する。
聞き手=宮原 陸、菅野 拓巳、三浦 建、河合 容子
2018.8.23 京都大学桂キャンパス竹山研究室にて
― 創刊にあたって
布野 まだ大先生方が助教授だった時代に、助教授のJをとってJリーグといって、何か月かにいっぺん集まって、鴨川縁の赤垣屋でいろいろな議論というか飲み会をやっていました。そのなかで、研究というと黄表紙 ( 日本建築学会の論文の通称 ) だけを意識しているような仕事ばかりをやっていたらだめじゃないのか、京大は京大の審査基準を持ち、京都からなにか発信できないかという話になったんだと思います。僕は東京から来たこともあって、京都大学に憧れがあった。京大のオリジナリティとし、かつて『建築学研究』1)があったわけですし、京大としての独自のメディアをだしたらたらどうかと思ったんです。
古阪 設計、構造、設備とかマネジメント系とか、いろいろな分野がとにかく自由にやろうというのが、いちばん大きなことなんですよ。
布野 そうそう、竹山先生が付けた「traverse」という名前にもその思いが込められている、学際的に議論をやろうというね。建築のなかでも分野を超えて一緒にやりましょうという意識があった。
竹山 『traverse』を作ったときは純粋に、京大発のメディアを作ろうよ、論文報告集のような形ではない、京都でもっとフリーに皆で語れる場を作ろうよと。『建築学研究』という戦前から戦後にかけて京大で出ていたものもある程度そういう自由な気風がありました。僕は東大の大学院のときに、イェール大学の『Perspecta』という雑誌に原稿を書いたことがあるんですね。これはすごく立派な雑誌で、大学院生が企画・編集して、執筆を世界中から集めるということをしていて。ハーバード大学も『Harvard Architecture Review』というのを出している。そういうのを見ていると、どちらも大学院生が編集長になって雑誌を出していて、その編集長はたいていすごいクリティークになっているか建築家になっているんですよ。僕はそういうふうな雑誌になれば、京都大学の機関紙になればいいなと。最初から学生が中心になるといいかなと思ったんですけど、スタートするときにいきなりはちょっと無理なので、われわれで道筋を引いて、いずれはそういう方向になればいいなと思っていました。
大崎 最初は海外に向けてという意味合いがだいぶ大きくて、それで半分英語にしたり、英語のアブストラクトを必ず書いたりしました。
石田 布野先生の巻頭言を何回か読んだことがあります。僕の理解では、京大のそれぞれの先生がレベルの高いことをいろいろとやっているけど、どうもよくわからない。だから京大の活動を外部に向けて発信しようと。そうして外部に対してだけでなく内部に対しても相互に見えるような、どこから見ても京大の活動がくっきり見える形にしようというのが、創刊のとき皆で考えたことにあったと思いますね。後は自由なメディアというか、論文に書くようなことではないかもしれないし、かといって商業的な話でもない、自分の専門に関することを書けるメディアになればいいなという話もありました。もちろん京大のなかでも、もう少し自由にやりましょうよという話もありました。それから、先ほど話にあったような飲み会の議論もあって、創刊したという話だったと思います。当時は、ある外部の先生から「この時代によくこういうことをしますね」と言われたりしたけど、僕たちはこういう事をやるんだぞという自負心みたいなものもちょっとありました。
(1)「建築学研究」:1927(昭和2)年5月に創刊後、1950(昭和25)年156 号まで発行され、数々の論考が掲載された。
― 思い出に残っている記事
名誉教授インタビュー2) 布野・古坂・大崎
竹山 名誉教授インタビューというのは僕の記憶では、いちばん最初からシリーズで目玉企画の一つとしてありました。第一号は横尾先生。とにかく名誉教授に聞いていこうと。
大崎 『traverse』創刊にあたって、過去の『建築学研究』の記事を全部見たんです。その頃は出版物が少なかったのでここに論文みたいなものを書いていたんですね。これが京大の学術的な媒体でした。これに見習って、学術的な発信の場として『traverse』をつくりましょうということになって、最初はそのような先生方の論文に近いものを出したわけです。
布野 今の学生にとっても、竹山先生がどうやって何を作って何を書いてきたかっていうことは気になるでしょう。まず『建築学研究』の頃を知っている先生方に聞きたかった。実際に教えて来られた先生に聞くというのは自然な流れだったし、初心を確認すべきということだよね。
大崎 戦前の頃に学生だった横尾先生は、戦前戦後の『建築学研究』の状況を知っておられたので、そういう話を聞くということもありました。そうして当然のごとく、最初の名誉教授のインタビューは横尾先生に決まったわけです。横尾先生は、縦社会の横働きということや、横のつながりが大切さというのをずっと言われていて、「traverse」という言葉を見てすごく喜んでおられました。構造の先生で計画系と話ができる先生というのは昔は横尾先生だけだったのですが、今はたぶん私だけだと思うんですよ(笑)。そういうことも引き継いでいる。
竹山 やっぱり名誉教授になると自由になるから、なんでもしゃべってくれます。それに布野先生もおっしゃったけど、計画系でも歴史をちゃんと見ることが大切だと思っていて。だから、歴史を改めて振り返ってみるという企画もあっていいだろうというので、何人かに連続して名誉教授インタビューをしたんですね。
布野 本当におもしろかったよ。
2)布野修司・古坂秀三・大崎純,真のトラバースを 横尾義貫 名誉教授インタビュー,traverse 1,pp.129-135
以後 traverse 2,4,5,7,8,9,10に掲載
1号に寄せた記事3) 石田
石田 思い出の記事を挙げてくださいといわれて、「traverse」1号で20年前の自分が、最初にどんなことを書いたのかなと思って読み返してみました。すると、こういう課題についてこういう考え方で研究したいということを、割と思い入れを持って書いていました。それで、今でもこういうこと考えているな、おおよそ問題意識としては同じことで、20年前からこんなことやってたな、と改めて感じました。20年経って、いくつかの問いについては、ある程度答えられるようになっていますが、依然として大きな問題については僕自身まだ答えを持っていないし、クリアにもなっていない。こういう記事は他のメディアだったら書かないだろうし、そういうものが書けたのは「traverse」だからかなと思いましたね。
竹山 「traverse」が7年越しの出版だったというのがあったんですけど、たぶん93年に立て続けに僕も含めて外から呼ばれてやってきて、京大の中でいろいろな力学的な作用があって、いろいろな地殻変動が起きたんだと思いますね。それで新しく入った人間、それから元々いて新しいことに動こうとしている人たちが、わーっとマグマが吹き出すように亀裂を登っていって、ボンって吹きあがったのが1号。7年ゼミみたいにね(笑)。こういうスタイルのメディアは日本の他の大学にはなかった。こんなものができたのはすごいことだと思っていますね。
大崎 学生と教員が両方書いているというのはあんまりないかなと思いますね。
竹山 問い直す企画として、大学とはなんだ、というシリーズもあったわけですね。とにかく、教育とは、大学とは、建築学とは、とか。そこで、建築学とは、ということで「建築学のすすめ」4)にやがてなるんですけど。
布野 これはすごく時間がかかったよ。皆が本音でこういうことを考えて教員をしてましたよ、ということを書いたから。