未完結の美|竹山 聖

                               月は隈なきをのみ見るものかは

                兼好法師『徒然草』

― 心のなかで完成される美

 岡倉覚三の『The Book of Tea』は 1906 年にニューヨークで出版されている。当時岡倉はボストン美術館の東洋美術の責任者として、一年の半分をボストンに過ごしていた。日本語訳は村岡博のものが嚆矢であり、19287 年から同人誌に連載され、岩波文庫に収められたのが 1929 年。その間すでにフランス語やドイツ語に訳されて欧米ではよく読まれていたという。つまり日本では 20 年以上経ってから日本語でこの本に接する機会を得た、ということになる。

私は学生のころにふと手にとって以来、この本を折に触れて繙いては、そのつど新しい発見があったり刺激を受けたりしているのだが、最初に最も頷かされたのが、下記の、未完結であることの美を語ったくだりである。

しかしながら道教や禅の「完全」という概念は別のものであった。彼らの哲学の動的な性質は完全そのものよりも、完全を求むる手続に重きをおいた。真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。

(村岡博訳)

2013 年に木下長宏による新訳が明石選書から出版されており、こちらには岡倉覚三によるオリジナルの英文も収録されている。参考までに同じ部分を引いてみよう。

しかし、道教と禅の完全性についての考えは、それと異なっていたのです。

道教や禅の哲学のダイナミズムは、完全であることそのものより、完全を求めていく過程をより重要視するからです。真の美は、ただ、不完全を心のなかで完全にする人間によってのみ見出されるというわけです。

(木下長宏訳)

 これは茶室を論じた章において、日本の住まいや美術の非対称性に言及している部分の記述である。冒頭の「しかし」という逆接の接続詞は、その前の儒教の二元論、北方仏教の三尊崇拝など、西洋と同様の対称性に貫かれた美学がすでにあったところに、「道教の理想が禅を通して実現された結実」がもたらされ、それが非対称の美、不完全、未完結の美となったのだ、と論じられる。

 道教も禅もその思想のめざすところはスタティックな固定された美でなく、個々の心のなかで躍動するダイナミックな美であって、「人生と芸術も、その生き生きとした力は、成長する可能性のなかにあります。茶室のなかでは、一人ひとりの客が、自分自身との関わりのなかで、想像力によって全体の美を完成させるに任せます」ということになる。未完成であるがゆえに、完結しない状態であるがゆえに、 心のなかで、想像力を通して、美は完成される。それが未完結の美だ。日本の住まいや美術が、そして茶室が、非対称を好む所以である。

FUKKURA

― 未完結と不連続

 日本文化の特質である非対称への愛は、そもそもまっすぐな軸線や地平線が得難い地形的特性によるのではないか。大陸からもたらされた寺院や宗教施設の形式も、当初は左右対称でも徐々にそれが非対称へと崩されていく。それは海が入り組み、山が迫り、盆地が点在し、急流が峡谷を削り、島影の重なり合う日本の地形と、地震や津波や噴火や台風や洪水に襲われ続けた列島の風土が、完成された美の理想の実現を拒んできたのではないか。実はずっとそのように考えてきた。変化こそが常態、破滅消失こそが真実、永遠の相など瞬時の煌めきのなかにしかない。逆にその刹那にこそ永遠の憧れを込める。木材や紙など儚い素材をもって建築するのも、その完全性への、完結への諦観でしかない。そういうことなのではないか、と。  

 しかしそこに、未完結の美、想像力の働く余地を肯定する哲学が入り込み、日本なりの成熟を遂げて、たとえば茶室や日本の住まいのありようにも影響を与えたのだ、という解釈を知った。とするなら、非対称への愛は、仕方のないものではなく、むしろ積極的に形成された愛であり、未完結への憧れである、ということになる。

 現代の都市や現代美術のありようを眺めながら、現代人にはもはや総体を完全に理解する世界像など持ちようがなく、断片が浮遊し衝突し絡み合うのみ。部分から全体を推し量るしか手はなく、そもそも全体という概念がなりたたない。共同体に閉ざされて全うする人生など、ありえない。未完結な出来事が不連続に連続するところ以外に、現代の世界観を育む場所はなく、新しい美学の生成する土壌はない、と直観していた学生時代の私にとって、この『茶の本』に説かれた思想には、全く別の側面からではあったけれども、大いに共鳴するところがあったのだった。

 誰もがスマートフォンで世界の断片的情報を取得しつつ、刹那的に繋がり合うSNSも、いまだ存在しなかった頃ではあった。ただ、当時私が認めた文章の多くに、この認識が姿を見せていた。1990年に出版された初めての作品集、というより、折に触れて描かれたスケッチや図面や作品の写真、それも断片的なもの、そして文章のかけらなどが散りばめられた本、『RIKUYOSHA CREATIVE NOW 006竹山聖 KIYOSHI SEY TAKEYAMA』の、そのあとがきのタイトルは、「未完結な出来事が不連続に連続している、そんな本をつくりたいと思った・・・」というものだ。

 未完結であること、そしてその先にありうべき、構想さるべき美学は、私にとっては直観的に把握した世界像に基づく仮説的な美学であり、異物の共存する世界観であり、自由な異邦人たちの出会う世界であった。そこに完璧であることは似合わない。ベルサイユ宮殿やクラシシズムや紫禁城や軸線や左右対称は美しいが、現代の美学ではない。現代美術を見よ、音楽を聴け、演劇を、そして映画を味わえ。未完結と不連続に満ち満ちているではないか。そう感覚し、直観し、なるたけ論理的な分析を試みていたのだった。  

 茶室、禅、道教の思想は、そのようなわけで、現代の美学を求めようとしていた私の試論に思いがけない方向から光をあててくれることになったのである。

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